奇跡講座テキスト編31章31-5 自己の概念 対 自己

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第31章「最後の心眼」31-5本文

 

第31章31-5 自己の概念 対 自己

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この世界の学びは、世界の現実に適するように調整された自己の概念の上に構築されています。

それはそれにぴったりと当てはまります。

というのも、これは影と幻想の世界に適する形象だからです。

この自己の概念はここを我が家のように歩き回り、ここでそれが目にするものはそれと一つです。

自己の概念を構築することが、この世界の学びが目的としていることです。

習うことが役に立ちます。

これがその目的で、あなたは自己というものを持たずにきて、成長するにつれてそれを作っていくからです。

そして「成熟」するまでには、それをこの世界とちょうど折り合うようにし、この世界の要求と一致するように完璧なものにしています。

 

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自己の概念は、あなたによって作り出されます。

それはあなた自身とは少しも似ていません。

それは、神の子としてのあなたの実相に取って代わるべく作り出された偶像です。

世界が教えようとする自己の概念は、その外見通りのものではありません。

というのも、それは二つの目的に役立つように作られていますが、心はそのうちの一つだけしか認識できないからです。

最初の一つが提示しているのは無垢なる顔、すなわち為された事の影響を被る側面です。

この顔は微笑み、魅力を振りまき、愛するようにさえ見えます。

それは仲間を探し求め、苦しむ者たちを時に哀れみさえ抱いて見遣り、時には慰めを提供することもあります。

それは自らを、邪悪な世界の中にあって自分は善良であると信じています。

 

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この側面は立腹することもあります。

なぜなら、この世界は邪悪であり、無垢性に与えられて当然な愛や擁護を提供できないからです。

それゆえに、寛大で善意であろうとする人たちに対して、世界が与える様々な不当な仕打ちを前にして、この顔が涙で濡れることもしばしばあります。

この側面は、決して自分から先には攻撃しません。

しかし、毎日、数知れない細々とした事柄が、その無垢性に小さな攻撃をしかけて挑発して苛立たせ、最後にはあからさまな罵詈雑言を吐くまでに至らしめます。

 

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自己の概念が実に誇り高く装っている無垢な顔は、自己防衛のための攻撃には寛容になれます。

この世界が無防備な無垢性を過酷に扱うとは、周知の事実ではないでしょうか。

自我像を描写するにあたりこの顔を除外する人はいません。

誰であれ、それを必要としているからです。

もう一方の側面はその人が見たくないものです。

しかし、世界の学びが狙いを定めているのはここです。

なぜなら、偶像たちが確実に存続するようにと、世界の「実相」が置かれているのはここだからです。

 

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無垢なる顔の背後には、一つのレッスンがあります。

自己の概念が作り出さたのは、このレッスンを教えるためでした。

それは恐るべき転移についてのレッスンであり、そのあまりの恐ろしさゆえに、その上で微笑む顔は、それが隠している背信を知覚することがないように永遠に目をそむけていなければならないhどです。

そのレッスンはこのように教えています。

「あなたが私をこのようなものにした。そして、あなたが私を見る時、私がこのようなものであるがゆえに、あなたは有罪を宣告されている。」

自己についてのこうした概念について、世界は承認の微笑みを浮かべます。

というのも、それによって、世界の道が安全に保たれ、そこを歩む者たちが逃げ出さないことが保証されるからです。

 

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ここにあるのが、あなたの兄弟が永遠に咎めを受けることを保障する主要なレッスンです。

なぜなら、今や、あなたであるものが、その人の罪となっているからです。

これに関しては、いかなる 赦しも不可能です。

もはやその人が何をしようと問題ではありません。

なぜなら、あなたの非難を込めた指先は、躊躇することなく正確に狙いを定めてその人に向けられているからです。

その指先はあなたにも向けられているわけですが、このことは更に奥深く、無垢なる顔の背後に広がる霧の中に隠されています。

そして、覆いのかかった保管所の中に、その人の罪やあなたの罪の全てが温存され、闇の中に保持されています。

光ならばそれらが誤りであることを必ず見せてくれますが、この闇の中では、それらが誤りとして知覚されることはあり得ません。

あなたは自分であるものについて非難されることは出来ず、それが自分に行なわせることを変えることも出来ません。

そうなると、声には出さなくとも、絶え間ない緊迫感を持って、自分である憎むべきもののゆえに依然として兄弟を咎めているあなたにとって、兄弟は自分の罪の象徴ということになります。

 

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概念とは学ばれるものです。

自然なものではありません。

学びから離れては、それらは存在しません。

それらは与えられたものではないので、作り出されなければなりません。

それらのうちのどれ一つとして真実ではなく、その多くが恐れから生まれた憎しみと歪曲の熱に浮かされた想像からもたらされています。

概念とは単に、その概念を作り出した人が、自分なりの意味を与えている想念以外の何でしょうか。

概念がこの世界を維持しています。

しかし、そうした概念は世界が実在することを実証するためには使えません。

というのも、それらは全てこの世界の内側において作り出されているからです。

すなわち、世界の蔭の中で生まれ、世界のやり方で成長し、最後には世界の想念の中に「成熟」します。

それらは偶像たちの想念であり、それらを描いたこの世界の絵筆は真理を表わす一枚の絵も描くことは出来ません。

 

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自己についての概念は何の意味もありません。

なぜなら、ここにいる者は誰一人、それが何のためなのか分からず、したがって、それが何であるかを思い描くことも出来ないからです。

それでも、この世界が指揮する学びは全て、あなた自身についてのこの概念をあなたに教えるという単一の目標に終始しています。

それによって、あなたはこの世界の法則に従うことを選択し、世界の道を越えて進もうとはせず、自分自身をどのように見ているのかを悟ることがないようにしています。

今や 聖霊は「心の平安が与えられるためには、自己についてのこの概念が取り消されなければならない」ということをあなたが理解するのを助ける方法を見つけ出さなければなりません。

しかも、あなたが何か別の存在であるということを教える事を目的としたレッスンによらなければ、その学びは取り消されません。

さもないと、あなたは、自分が今信じているものと交換に、自己を完全に失うように求められることになり、あなたの中にさらに大きな恐怖が生じることになるからです。

 

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したがって、 聖霊のレッスンの計画は、いくつもの簡単なステップで構成されています。

時には余りにも容易ではない事や、いくつかの苦労もありますが、既に学ばれた事が粉砕されるようなことはなく、ただそれを証拠としている根拠だと見えるものについて翻訳し直されるだけです。

それでは、先ず、あなたが兄弟によってそのようなものにされたということについて、どのような証拠があるか考えてみましょう。

あなたはまだこれが自分の考えていることだとは知覚していませんが、自分がまるでそうであるかのように行動していることは、これまで確かに学んだはずです。

そして、その人は何が起こるかを厳密に知っているでしょうか。

あなたの未来を見て、それが起こるより前に、あなたがあらゆる状況においてどうするべきか定めるようなことが、その人に出来るでしょうか。

これから起こることについて、そのような先見の明があるとすれば、その人はあなたを作り出したのと同じようにこの世界も作り出したということになります。

 

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あなたが兄弟によってそのようなものにされたというのは極めてありそうもないことに見えます。

仮にそうであったとしても、いったい誰があなたに無垢なる顔を与えたのでしょうか。

これはあなたによる貢献でしょうか。

では、それを作り出したという「あなた」とは、いったい誰なのでしょう。

そして、誰があなたの善良さを見誤って、それをそのように攻撃するのでしょうか。

こうした概念についての馬鹿げた話は忘れて、ただ次のように考えて見ましょう。

あなたが考えている自分自身なるものには、二つの部分があります。

もしその一方が兄弟によって生み出されたとするなら、もう一方を作り出せるような誰がいたのでしょう。

そして、いったい誰から、何かが隠しておかなければならないというのでしょうか。

もし世界が邪悪なものだとしても、依然として、あなたがどのようなものにされているかを隠す必要は全くありません。

それを見るはずの誰がいるというのでしょう。

そして、攻撃されているもの以外の何が、防衛を必要とすることがあり得るでしょうか。

 

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もしかすると、この概念を闇の中に置いておかなければならない理由は、光の中ではそれが真実ではないと考える者が、他ならぬあなただからではないでしょうか。

そして、もしあなたが見ている世界の支えの全てが取り除かれてしまったならば、その世界に何が起こるのでしょうか。

世界についてのあなたの概念は、この自己概念に立脚しています。

もしこれらの概念のどちらか一方が失われるなら、両方とも消え去ることになります。

聖霊はあなたをパニックに陥れることを目指してはいません。

それゆえに、ただ、小さな疑問を一つ発することは出来ないだろうか、と問うだけです。

 

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あなたであるはずのものについては、いくつもの選択肢が存在しています。

たとえば、あなたが自分の兄弟のあるべき姿として選択したものは、あなた自身かもしれません。

こう考えることで、これが、自己についての概念を完全に受動的なものから移行させ、少なくとも、能動的に選択されるものとなるための道を開きます。

そして、両者に関わり合いがあったはずだということを、いくらかでも認められるようになります。

そこでは、あなたがあなた達両方のために選択したということ、そして、その人が表しているものはあなたから与えられた意味を持っているということが、いくらかは理解されています。

それはまた、「見えているものは、それを知覚している人の心の状態を反映している」という知覚の法則が見え始めていることの兆しを示しています。

しかし、最初に選択したのは誰だったのでしょうか。

もし、あなたが自ら選択して兄弟であるとしたそれが、あなた自身だとしたら、そこにはいくつもの選択肢が存在していたということであり、誰かが最初にその一つを選択し、他のものは手放すという決定を下したに違いありません。

 

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このステップには進歩がありますが、まだ根本的な問いには近づいていません。

自己の概念についてのこれらの概念以前に、何かが先行していたはずです。

そして、何かがそのような概念を生じさせた学びを行なったに違いありません。

また、このことは、どちらの見方によっても説明不可能です。

最初の見方から二番目の見方へと移行することの主な利点は、あなたがともかくも自分で決断して選択をしたという点です。

ところが、この進歩もほとんど同じ程度の損失を被った上で得られるものです。

なぜなら、今やあなたが、兄弟をそのようなものにしたがゆえでの罪悪について、非難されることになるからです。

そして、あなたはその人の罪悪を共有しなければなりません。

なぜなら、あなたがあなた自身を表す形象に似せて、その人のためにそれを選択したからです。

以前には、その人だけが背徳者だったのが、今やあなたもまたその人と一緒に咎めを受けなければならないということになります。

 

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自己の概念というものは、常に、この世界の大きな関心事であり続けてきました。

そして、誰もが、自分自身についてのこの謎に答えを見つけなければならないと信じています。

救済とは、概念からの脱出に過ぎないと見なすことが出来ます。

救済の関心の対象は、心の内容ではなく、心は思考するという単純な声明のみです。

そして、思考することが出来る存在は選択力を持っていて、異なった想念は異なった結果をもたらすということを教わることが出来ます。

したがって、心は、自分の考えていることの一切が反映しているのは、自分がいかに作り出されたいかなるものであるかについて、自分が感じている深い混乱であるということを、学ぶ事が出来ます。

そうして、自己の概念は、心の知らないことについて漠然と答えるように見えます。

 

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あなたの自己を、象徴の中に探すのはやめなさい。

あなたであるものを表すことが出来る概念などあり得ません。

悪と関わりあったり、邪悪なものに反応したりする自己というものをあなたが知覚している間は、どの概念を受け入れるかということが、問題になるでしょうか。

自分自身についてのあなたの概念は、依然として全く無意味なものに留まるでしょう。

そして、あなたは、自分が関わり合える相手は自分自身とだけだということを、知覚しないでしょう。

罪の有る世界を見るということは、あなたの学びがこの世界を導き手としてきたことのしるしに他なりません。

そして、あなたは自分自身を見ているように世界を見ています。

自己の概念は、あなたが目にする全てを包含しており、いかなるものもこの知覚の外側には存在しません。

もし、あなたが何によってであれ傷つけられることがあり得るとすれば、あなたは自分自身の密かな願望が描かれた絵を見ているのです。

それ以上の何物でもありません。

そして、どのような種類の苦しみであれ、あなたが苦しむ時、あなたは「殺したい」 という自分自身の隠された欲求を見ているのです。

 

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学びが進むにつれて、あなたは自己についての様々な概念を作り出すことでしょう。

その一つひとつが、自分自身に対するあなたの知覚が変化するのに伴い、あなた自身の関わる関係が変化したということを示すでしょう。

変化が起こる度に何らかの混乱はあるとしても、世界の学びがあなたの心を牛耳るその手を緩めつつあるのだから、そのことに感謝しなさい。

そして、それは最後には消え去り、あなたの心を平安のもとに残すという確信を抱いて、幸せでありなさい。

非難者の役割は、様々な場所に、色々な形で現れるでしょう。

そして、その一つひとつがあなたを非難しているように見えることでしょう。

しかし、それが取り消されないかもしれない、と恐れることはありません。

 

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あなたが学びたいと望まない限り、世界はあなたを表すいかなる形象もあなたに教えることは出来ません。

いつの日か、形象の数々が消え去り、あなたは自分がいかなるものであるかを知らないと分かる時がやってきます。

封印が解かれて開かれたこの心へと真理が妨げられることも束縛されることもなく戻ってきます。

自己の概念が脇に置かれたところでは、真理がありのままに明らかにされます。

一つひとつの概念が疑われ、疑問視され、いずれも光に耐え得るような前提に基づいてはいないと認識される時、真理は罪悪感から自由で清浄な自らの聖域に自由に入っていくことが出来ます。

以下の声明以上に、世界が聞くのを恐れているものはありません。

 

私は、私であるものを知らない。

したがって、私が何をしているのか、どこにいるのか、あるいは、どのようにこの世界や自分自身を見たらよいのかも、知らない。

 

しかし、この学びの中で 救済が生まれるのです。

そして、本来のあなたである存在が、あなたそれ自身について教えてくれるでしょう。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第31章「最後の心眼」目次

31-1   救いの単純さ

31-2    キリストと共に歩む

31-3   自らを責める者

31-4   真の選択肢

31-5   自己概念 対 自己

31-6   霊(スピリット)を認識する

31-7       救済主の心眼

31-8   もう一度、選び直しなさい

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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