Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第31章「最後の心眼」31-1本文
- 第31章31-1 救済の単純さ
- ACIM-Text-chapter-31-1-1
- ACIM-Text-chapter-31-1-2
- ACIM-Text-chapter-31-1-3
- ACIM-Text-chapter-31-1-4
- ACIM-Text-chapter-31-1-5
- ACIM-Text-chapter-31-1-6
- ACIM-Text-chapter-31-1-7
- ACIM-Text-chapter-31-1-8
- ACIM-Text-chapter-31-1-9
- ACIM-Text-chapter-31-1-10
- ACIM-Text-chapter-31-1-11
- ACIM-Text-chapter-31-1-12
- ACIM-Text-chapter-31-1-13
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第31章「最後の心眼」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第31章「最後の心眼」31-1本文
第31章31-1 救済の単純さ
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救済とは何と単純なものでしょう!
それは述べているのは、「かつて一度も真実であったためしがないものは今も真実ではなく、これからも決して真実とはなることはない。」ということに尽きます。
起こり得ないものは起こったことはなく、いかなる結果ももたらすことは出来ません。
それだけのことです。
これが真実であること望む者にとって、誰にとってもこれを学ぶことが難しいということはあり得ません。
それを学びたくないという気持ちだけが、これほどに簡単なレッスンを難しくすることが出来ます。
虚偽であるものは真実になり得ず、真実なるものは虚偽にはなれないと理解することが、どれほど難しいのでしょう。
あなたに、もはや、自分には虚偽と真実の違いが知覚できないなどと言うことは出来ません。
両者を区別するには厳密にどうすればいいか、混乱した場合には何をしさえすればいいか、をあなたは教えられてきました。
それならば、どうして、そのような単純なことを学ぶまいとし続けるのでしょうか。
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それには理由があります。
しかし、それを、 救済があなたに学ぶように求めている単純な事柄の中に難しさがあるかのように取り違えてはなりません。
救済はただ極めて当たり前のことを教えているだけです。
それは、あなたを一歩一歩優しく導いてくれる容易なステップを辿って、一つの明白なレッスンから次のそれへと進み、あなたには全く負担がかかりません。
これに混乱させられるはずがないのですが、あなたは混乱しています。
というのも、あなたはどういうわけか、全面的に混乱しているものの方が学ぶのが容易で理解するのも容易だと信じているからです。
あなたが自分自身に教えてきたものは、実に信じられないほどに膨大な学びの結果です。
それでも、あなたはそれを成し遂げました。
それは、あなたがそれを望み、しかも、そのための努力を休止してしまってそれが難しくて学べないとか、複雑すぎて把握できない、といった判断をすることはなかったからです。
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あなたが、何をどれほど丹念に学び、思いつく限りのあらゆる形でどれだけ苦労してそれらのレッスンを練習し、それを果てしなく繰り返してきたかを理解している者なら、誰もあなたの学習技能が持つ力を疑うことは出来ないでしょう。
この世界にこれ以上に偉大な力はありません。
世界は、それによって作り出されたのであり、今でもそれのみに依存しています。
あなたが自分に教えてきたレッスンはそのように過剰に学ばれ、凝り固まってしまったため、分厚いカーテンのように立ちふさがり、単純で当たり前のことを見えにくくしています。
自分はそれらを学べないなどと言ってはなりません。
なぜなら、あなたの学ぶ力は非常に強力で、あなた自身に自分の意志が自分のものではなく、自分の想念が自分に属さないと教え、しかも自分は誰か別な者であるとさえ教え込めるほどのものだからです。
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いったい誰が、このようなレッスンが簡単である、などと主張できるでしょうか。
それにも関わらず、あなたはこれよりも更に多くのことを学んできました。
あなたは学び続け、どんなに困難であっても不平も言わず、一歩ずつ足を進め、自分に適した世界が築かれるまでそれを続けてきました。
そして、この世界を作り上げているレッスンの一つひとつが、最初に達成された学びから現れ出たものです。
その学びは、その大きさを前にすれば 聖霊の声も静かな細い声に思えるほどの途方もなく大規模なものです。
世界は、一つの奇妙なレッスンから始まりました。
それは、神を忘れ去られたものとし、神の子を神の子自身にとって異質なものとし、神ご自身により定められた神の子の家から追放して流刑の身とするほど強力なものでした。
神の子は有罪だと自分自身に教え込んだあなたが、 救済があなたに教える単純な事柄を学べないなどと、言ってはなりません!
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学ぶということは、あなたが自分で作り出して自らに与えた能力です。
それは、神の意志を行うために作り出されたのではありません。
それが作り出されたのは、「神の意志に対抗することが可能であって欲しい、そしてそれとは別の意志の方がそれよりも実在性あるものであって欲しい」という願望を支えるためでした。
そして、学びが実証しようとしてきたのはこのことであり、あなたはそれが教えるべきとされたものを学んできました。
今や、昔からの過剰な学びが、真理の声に容赦なく立ちはだかり、あなたにその声の教えるレッスンは真実ではなく、学ぶには難しすぎ、難解すぎて理解できず、真に真実であるものとはあまりにも相容れないと教えています。
それでも、あなたはそのレッスンを学ぶでしょう。
なぜなら、それを学ぶことこそが、叡智が全世界の中で、あなたの学習能力の唯一のものだからです。
赦しについての 聖霊の単純なレッスンは、神とあなたの自己からあなたに向かって呼び掛けるので、あなたのレッスンより大きな力を持っています。
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これが小さな声でしょうか。
静かで細いため、何の意味もない虚しい雑音にかき消されてしまうものでしょうか。
神は、我が子が神ご自身を忘れてしまうことなど意志しませんでした。
そして、神の意志は神を代弁して語る声の中にあります。
どちらのレッスンをあなたは学ぶのでしょうか。
いったいどのような結果が必然であり、神と同様に確実で、あらゆる疑いや疑問を超越しているでしょうか。
あなたの卑小な学びは奇妙な結果しかもたらさず、信じられないほど困難だというのに、そのようなものが時間が始まって学びが作り出されて以来、毎日、毎瞬、教えられている単純なレッスンに逆らって持ち堪えられるものでしょうか。
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学ばれるべきレッスンは、ただ二つだけです。
そのそれぞれが、異なった世界にその結果をもたらします。
そして、それぞれの世界が、確実にそれぞれの源からの帰結です。
神の子が有罪だというレッスンから生じる確実な結果が、あなたの見ているこの世界です。
それは恐怖と絶望の世界です。
また、その中には幸福の希望もありません。
あなたに作り出せる安全のための計画が何であれ、成功するものは一つもありません。
あなたがここで探し求められる喜びの中で、見つかるという希望が持てるものは一つもありません。
しかし、これだけがあなたの学びが生み出せる唯一の結果ではありません。
どれほどあなたが自分の選んだ課題を過剰に学んだとしても、神の愛を反映するレッスンはそれよりももっと強いものです。
そしてあなたは、いずれ神の子が無垢であることを学び、別の世界を見るでしょう。
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神の子は無罪だというレッスンから生じる結果としての世界は、恐れがなく、全てが希望に照らされ、優しい親愛の光で煌めいている世界です。
一切があなたに呼び掛け、あなたの友となってあなたとつながらさせて欲しいと、優しく訴えてきます。
そして、呼び掛けが聞かれないままにされたり、誤解されたりすることはなく、その呼び掛けに使われたのと同じ言語で答えられないままに放置されることもありません。
そして、あなたは理解するでしょう。
この呼び掛けこそが、世界であらゆる人や物が常に発しているものだったのに、自分はそれをそのようには知覚していなかったのだということを。
そして、やっと今、あなたは自分が間違っていたことがわかります。
あなたは、その呼び掛けを隠していた形に欺かれていました。
それゆえに、あなたはそれを聞かず、あなたの一部であることを望んでいた友を失ってきたのです。
神の被造物のそれぞれの部分が全体に対して発するこの穏やかで永遠なる呼び掛けは、この二つめのレッスンがもたらす世界の至る所で聞こえます。
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命あるもので普遍的な意志を分かち合っていないものは一つもありません。
それは、自らが全一であろうとする意志であり、あなたにもその呼び掛けを聞かないままにはさせないという意志です。
あなたが答えなければ、それは死にゆくままにされます。
あなたがそれの呼び掛けを、生命へと招く往古の呼び掛けとして耳を傾け、それは他でもないあなた自身の呼び掛けだと理解した時、それは死から救われます。
あなたの内なる キリストは、神の愛を確かに知っていて、その確信の全てをもって神を思い出します。
しかし、神の子が無垢である場合にのみ、神は愛であり得ます。
もし神が無垢なるものとして創造したものが罪悪の奴隷になり得るとしたら、神はまさしく恐れそのものとなるからです。
神の完全無欠な神の子は、自分の創造を覚えています。
しかし、罪悪の中では、神の子は自分が本当は何であるかを忘れてしまっているのです。
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神の子が自分の無垢性を学ぶ時には神の愛が必ず思い出されるのと同じく確実に、神の子が有罪だというレッスンからは必ず神に対する恐れが生じます。
なぜなら、憎しみは必ず恐れを生み出し、恐れの父親を自分自身と見なすからです。
あなたは何と間違っていることでしょう!
あなたが聞き逃しているのは、死への呼び掛けらしきものを越えて響き渡る呼び掛けであり、それぞれの殺意ある攻撃の背後で歌われ、死にかけた世界に愛を回復させるようにと懇願している呼び掛けです。
あなたは、それぞれの憎悪の形態の向こうから、誰が自分に呼び掛けているのかを理解していません。
しかし、彼が呼び掛けている言語であなたが答える時、あなたは彼を認識するでしょう。あなたが彼に答えた時、彼は姿を現すでしょう。
そしてあなたは彼の中で、神は愛であることを知るでしょう。
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誘惑とは、自分が学びたいものについて間違った決断を下して自分の望んでいない結果を得たい、という願望以外の何でしょう。
それは望ましくない心の状態だと認識することこそが、その選択が評価し直されて、それより別の結果の方が好まれるようになるための手段となります。
もし自分が災難や不調和や苦痛を望んでいると信じるとすれば、あなたは欺かれています。
あなたの内側に、誘惑の呼び掛けを聞いてはなりません。
そうではなく、それを越えた向こうにあって、平安と喜びとを訴えている深い呼び掛けにただ耳を傾けなさい。
そうすれば、この世界全体があなたに喜びと平安を与えてくれることでしょう。
なぜなら、あなたは自らが聞く通りに答えるからです。
そして、見なさい!
あなたの答えが、あなたが何を学んだのかの証拠です。
学びの結果が、あなたが見ている世界です。
ACIM-Text-chapter-31-1-12
一瞬の間、静まり、これまでに私達が学んだ全ての物事や、抱いたことのある全ての想念を忘れ、そして物事が何を意味し、それらが何を目的としているかについて私達が持っている先入観の全てを忘れましょう。
この世界は何のためにあるのかについての私達の独自の考えも思い出さないことにしましょう。
私達は知らないのです。
あらゆる者について描かれてきたあらゆる形象を、私達の心から解き放ち一掃させましょう。
ACIM-Text-chapter-31-1-13
誰についてであれ、これまであなたの心をよぎった善といった考えを意識することなく、裁きを下さない者でありなさい。
今、あなたはその人のことを知りません。
しかし、あなたはその人について学ぶ自由があり、しかもその人を新しく学ぶ自由があります。
今や、その人はあなたにとって生まれ変わっていて、あなたもその人にとっては生まれ変わっています。
そこには、その人に死の宣告をし、その人と共に自分にもその宣告をした過去はなくなっています。
今こそ、あなたと同じように、その人にも生きる自由があります。
かつての学びは過ぎ去り、真実が再生できる場所が残されたからです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第31章「最後の心眼」目次