奇跡講座テキスト編31章31-7 救済主の心眼

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第31章「最後の心眼」31-7本文

 

第31章31-7  救済主の心眼

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学びとは変化です。

救済は、あなたの思考にとってまだ異質過ぎて助けにならないような手段は用いようとはせず、あなたに認識できないような種類の変化を起こそうともしません。

知覚が存続している間は概念が必要であり、概念を変えることが 救済にとっての課題です。

なぜなら 救済は、対極がなく変化もあり得ない真理ではなく、対照的な物事を取り扱わなければならないからです。

この世界の概念においては、有罪の者たちは「悪く」、「善い」者たちは無垢となっています。

ここに居る者で、自分の「悪」を赦すために「善」を数え上げるという自分自身についての概念を抱いていない者はいません。

また、その人は誰の中の「善」も信用せず、その背後に「悪」が潜んでいるに違いないと信じています。

こうした概念は背信に重点を置くため、信頼は不可能です。

また、それは、あなたが自分の中に「悪」を知覚している間、変わる事は不可能です。

 

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攻撃の中に価値を見ている限り、あなたは自分の「邪悪な」想念を認識できません。

時にはそれらの想念を知覚することはありますが、それらを無意味なものとして見る事はありません。

したがって、それらは、内容は依然として隠されたまま、恐ろしい形をまとってやってきては、あなたが抱いている自分自身についての哀れな概念を揺さぶり、さらなる悪事によってそれを黒く塗りつぶします。

あなたは、自分自身に自分の無垢性を与える事は出来ません。

自分自身についてあまりに混乱しているからです。

しかし、ひとりの兄弟が完全に 赦しに値するものとしてあなたに映るならば、その時、自分自身についてのあなたの概念は完全に変化します。

あなたの「邪悪な」想念はその人の想念と一緒に赦されたからです。

なぜなら、あなたは自分にそれらの想念からの影響を全く受けさせなかったからです。

もはやあなたは、自分をその人の中の邪悪さと罪悪のしるしにすることを選択しません。そしてあなたが、自分の信頼をその人の中の善なるものに与える時、あなたはそれを自らの中の善なるものにも与えるのです。

 

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概念という観点からは、あなたはこのようにして兄弟を単なる 身体以上のものと見なすのです。

なぜなら、 身体が表しているように見える外見が、善なるもであることは決してないからです。

身体の行動は、あなたの「より劣悪な」部分から生じるものと知覚され、したがってそれはまた兄弟の「より劣悪な」部分から生じるものということになります。

その人の善なるものに焦点を置くことにより、 身体はあなたの視覚にとって次第に持続性を失くしていき、ついには、善なるものの周りを取り囲む影のようなものとして見られるようになります。

そして、肉眼のみが見せてくれる光景を越えた世界にあなたこれがあなたが抱く自分自身についての概念となるでしょう。

というのも、あなたは自分が見るものを、から与えられた助力者を抜きにして解釈することはなくなるからです。

そして、その助力者の視界には、確かに別の世界が存在しています。

 

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あなたは、この世界に生きているのと同じようにその世界にも生きています。

両方ともあなた自身についての概念だからです。

そして、これらの概念は入れ替わることは出来ますが、決して同時に保持されることはありません。

その対照性はあなたが考えているより遥かに大きいものです。

というのも、あなた自身についてのこの概念は、あなた一人のために作り出されたものではないがために、あなたはそれを愛するようになるからです。

自分自身とは知覚されていない誰かのための贈り物として生まれたそれが、あなたに与えられました。

なぜなら、仮に差し出されたあなたの 赦しは、今やあなた達両方のために受け入れられているからです。

 

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自分自身についてあなたが抱いている恐ろしい概念が変化することが出来るように、あなたと共に歩む兄弟に信を置きなさい。

その人の中の善なるものを見なさい。

そうすれば、あなたの「邪悪な」想念が、その人のについての見解を曇らせる事がないので、あなたがそれらによって怯えることはなくなるでしょう。

そして、この変化をもたらすために要求されることは、あなたがこの喜ばしい変化が生じることを自発的に望むことだけです。

これ以上のことは求められていません。

そのために、今あなたが抱いている自分自身についての概念がその跡に何をもたらしたかを思い出し、それとは対照的な喜ばしいものあなたに提供されていることを歓迎しなさい。それによって、親切な 赦しの贈り物を受け取り、それをあなたと同じように必要としている人に差し出すことが出来るようになります。

そうして、あなた自身についての残酷な概念を、の平安をもたらす概念へと変化させてもらいなさい。

 

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あなたが今抱いている自分自身についての概念は、あなたのここでの機能が永久に成し遂げられず、果せないままになることを保証するでしょう。

したがって、それはあなたを深い憂鬱と不毛の感覚へと追い込みます。

しかし、それがそのままにされる必要はありません。

ただし、あなたがその概念を変化する見込みのないものとして保持し、じっと心の中に封印したまま持ち続けるという選択をする場合は別です。

そうした選択をする代わりに、その概念について理解している 聖霊にその概念を与えなさい。

その変化が、あなたが平安を自分のものとするために平安を差し出せるようになります。

複数の選択肢が、あなたが使えるようにとあなたの心の中の存在しており、あなたは自分自身を別の見方で見ることが出来ます。

あなたは自分自身を、 救済の敵とみるかわりに、むしろ世界の 救済のために必要とされている存在として見なしたくはないでしょうか。

 

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自己の概念は、無言の要塞となって真理を遮り、あなたの視界から真理を隠します。

あなたの見ている全ては形象です。

なぜなら、あなたは自分の視界を曇らせ、心眼を歪曲する防壁を通してそれらのものを見ているので、何もはっきりと見ていないからです。

光はあなたが見ている全てのものから遠ざけられています。

あなたには、せいぜいその向こうに横たわっているものの影が垣間見えるだけです。

悪くすれば、ただ闇を見るだけで、あなたは罪悪感に満ちた想念や、恐れから生まれた概念から生じる恐ろしい想像の産物を知覚することになります。

そうして、あなたの見るものは地獄です。

なぜなら、恐れとは確かに地獄そのものだからです。

あなたに与えられる全てのものは、解放のためにあります。

視覚も心眼も内なる導き手も全て、あなたの傍らの愛する者たちと一緒に、そしてそれらと共に宇宙と一緒にあなたを地獄から導き出します。

 

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この宇宙におけるあなたの役割をよく見なさい!

愛の主と生命は、真の被造物の全ての部分に、地獄の惨めさからの 救済を託しました。

そしては、その一人ひとりに、特別に自分に託された神聖な兄弟たちの 救済者になるという恩恵を授けました。

そして、その人がこのことを学ぶのは、その人が初めて一人の兄弟をまるで自分自身を見るのと同じように眺め、その人の中に鏡に自分自身を映す鏡を見る時です。

そうして、その人自身の概念が脇に置かれます。

いかなるものもその人の視覚とその人が見るものを遮らず、その人は見ているものを裁かないからです。

この単一の心眼において、その人は キリストの顔を見て、自分がこの顔を見る時全ての者のたちの顔を見ているという事を理解します。

なぜなら、以前は闇があった場所に光があり、今やその人の視覚からベールが取り払われたからです。

 

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キリストの顔にかかったベール、 救済に対する恐れ、罪悪と死に対する愛、こうしたものは全てただ一つの誤りにつけられた様々な名前です。

それはすなわち、あなた自身の幻想によって引き離されてきたあなたとあなたの兄弟の間に、兄弟をあなたから切り離し、あなたをその人から遠ざける空間が存在する、という思い違いです。

裁きの剣とは、あなたが自分自身の幻想に与える武器であり、兄弟を切り離しておく空間を愛に満たされないまま維持しようとして戦うためのものです。

しかし、この剣を握っている間は、あなたは 身体を自分自身であると認識せざるを得ません。

なぜなら、その人はその人であるものについての別の見方を、すなわちあなたであるはずのものを映し出す鏡を掲げているので、あなたはその人を見ないでいられるように必ず分離したくなるからです。

 

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誘惑とは、地獄と惨めさの中に留まりたいという願望以外の何でしょうか。

そしてこれは、惨めであり得る自分や、地獄と苦悶の中に居続けられる自分という形象以外の何を生起させることができるでしょうか。

兄弟をこのようなものとして見ない事を学んだ者は、自分自身を 救済したのであり、それゆえに、その人は他の者たちにとっても 救済者です。

は一人ひとりに全員を託しました。

があなたに救うようにとあなたに授けた聖なる者たちとは、あなたが出会ったり目にとめたりするあらゆる者に他ならず、その一人ひとりが、自分が誰であるのかを知らずにいます。

あなたがほんの一瞬だけ目をとめた後にすぐに忘れてしまった者たちや、ずっと以前から知っている者たちや、これから出会う者たち、思い出さない者たち、そうした全ての者たちです。

は、我が子がこれまで抱いたあらゆる概念から救われるようにと、あなたに我が子を与えたからです。

 

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しかし、自ら地獄に留まりたいと願っているうちは、どうしてあなたが神の子 救済者になれるでしょう。

あなたがその人を自分の聖性から切り離して見ているうちは、どのようにしてあなたがその人の聖性を知るというのでしょう。

聖性とは、内なる無垢性を見ているがゆえに、それをあらゆるところに見ることを期待する神聖な眼差しを通して見られるものです。

したがって、この眼差しは、自ら目を向ける全ての者が期待通りの者となるようにと、その人たちの中で無垢性を呼び覚まします。

これが 救済者の心眼です。

すなわち、自分が目を向ける全てのものの内に自らの無垢性が見え、あらゆるところに自分自身の 救済が見えるということです。

穏やかに開かれた自分の瞳と、自分が目にしているものとの間に、自分自身の概念を全く介在させません。

その人は、自らが目を向けるものが真にありのままに見られるように、それに光をもたらします。

 

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どのような形を取るように見えても、誘惑とは常に、自分自身ではない自己でありたいという願望を反映しているに過ぎません。

そして、その願望から一つの概念が生起し、その概念が、あなたは自分で願う通りのものであると教えます。

それは、それを生み出した願望が大切にされなくなるまで、あなた自身についての概念であり続けます。

しかし、あなたがその願望を大切にしているうちは、あなたの目に映る兄弟は、あなたから生まれた願望を抱く形象である自己の似姿ということになります。

見るという行為は、願望を形象することしか出来ません。

なぜなら、それは創造する力がないからです。

しかし、それは、自分が見ている対象と繫がり合いたいか、それとも自分を分離した別個のものとしておきたいか、という単純な選択次第で、愛をもって見ることも、憎悪を抱いて見ることも、可能です。

 

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救世主の心眼は、あなた自身に下されたあらゆる裁きから自由であるのと同じく、兄弟が何であるかということにも関わりのないものです。

それは誰の中にも、いかなる過去も見ません。

このようにして、 救済者の心眼は、完全に開かれた心に仕えます。

それは、古い概念によって曇らされることなく、現在が抱いているものだけを見る準備が出来ている心です。

それは知らないので、判断する事は出来ません。

このことを認識しているそれは、ただこう問うだけです。

「自分が見ているものの意味は何だろうか」と。

そうして、答えが与えられます。

内なる キリストの心眼に敵対して長い間大事にされてきた古い想念や往古の概念のベールの向こうを見たいと、無垢性の中で求める者に対し、扉が開かれ、 キリストの顔が輝きます。

 

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それならば、誘惑に対する警戒を怠らず、誘惑はとは自分自身を本来の自分ではないものにしようとする狂った無意味な願望に他ならないことを覚えておきなさい。

そしてまた、本来の自分の代わりにどんなものになりたいと思っているのか、それについてもよく考えてみなさい。

それは、狂気と苦痛と死からなるものであり、裏切りと暗黒の絶望や、死んで恐れの夢を終らせる以外に何の望みもない挫折の夢からなるものです。

これこそが誘惑であり、それ以上の何ものでもありません。

これを選択しないのは難しいことでしょうか。

誘惑とは何であるかをよく考え、それから、あなたが二者択一すべき真の選択肢を見なさい。

選択肢は二つしかありません。

数多くの選択肢のように見えるものに騙されてはなりません。

存在するのは、地獄か天国かのいずれかであり、そこからあなたは一つだけを選択するのです。

 

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あなたに与えられている世界の光を、世界から隠されたままにしてはなりません。

ここは誠に暗く、人々は 救済者の心眼を与えられずに、死だけ見ているので絶望しています。

その人たちの 救済者は、知ることも知られることもなくたたずみ、閉じられた目でその人たちを見ています。

その人が、見ることの出来る目でその人たちを見て、その人自身を赦すことでその人たちに 赦しを差し出すまで、その人たちは見ることが出来ません。

から「我が子を解放しなさい!」と言われているあなたが、が解放を求めているのはあなたのためだと学んだ時に、それに耳を傾けたくないという誘惑に負けたりするでしょううか。

そして、この奇跡のコースが教えようとしていることは、これ以外に何があるというのでしょう。

そして、あなたが学ぶべきことは、これ以外に何があるいうのでしょう。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第31章「最後の心眼」目次

31-1   救いの単純さ

31-2    キリストと共に歩む

31-3   自らを責める者

31-4   真の選択肢

31-5   自己概念 対 自己

31-6   霊(スピリット)を認識する

31-7       救済主の心眼

31-8   もう一度、選び直しなさい

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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