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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編「13章 罪悪無き世界」より
13章13-0 序論
ACIM-Text- chapter13-0-1
罪悪感を抱いていない者は、攻撃は出来ません。
というのも、咎める事は攻撃の原因となるからです。
それは、ある心が別の心に対して、愛に値せず罰せられて当然だと裁きを下すということです。
まさしく、ここに分離が見出されます。
裁く心はそれ自体、裁かれる心とは別々だと知覚しており、他の心を罰することで、自らは罰せられずに済むと信じています。
これは全て、その心が自らを否定した上で、それに伴う刑罰を逃れようとする妄想的な試みに過ぎません。
否認するのをやめようとするのではなく、そうし続けようとしているのです。
あなたにとって父が不明瞭になったのは罪悪感のためであり、あなたを狂気に陥らせたのも罪悪感です。
ACIM-Text- chapter14-0-2
神の子が心に罪悪感を受け入れてしまったのが分離の始まりであって、同様に贖罪を受け入れさえすればその分離は終ります。
あなたが見ている世界は、罪悪感で狂った者たちによる妄想的体制そのものです。
この世界をじっくり見つめれば、その通りだと合点がいくでしょう。
この世界は刑罰を受けているような思いを象徴するものであり、支配しているらしき法則は、どれもみな死につながる法則だからです。
子供たちは陣痛を通して苦痛のうちに生まれてきます。
苦しみに伴われて成長し、学ぶことといえば悲しみと別れと死があります。
そうした子供たちの心は脳のなかに閉じ込められているようであり、その働きは 身体が傷つくと衰えるように見えます。
子供たちは愛されているらしいとは言っても、見捨てる事もあれば見捨てられる事もあります。
自分の愛するものを失うことになるという想念を持ちますが、たぶんこれこそ最も気違いじみた信念でしょう。
そのうえ 身体はみずみずしさを失い、息が切れ、埋葬され、それで一巻の終りです。
神は残酷だと思ったことのないものは、誰一人いないでしょう。
ACIM-Text- chapter14-0-3
これが 実相の世界だとすれば、神は実に残酷だと言えます。
父たる存在が救いの値いとしてわが子をこのような目に遭わせておいて、愛しているふりをするはずがありません。
愛は救うために殺したりしません。
もし、するとすれば攻撃は救いにつながることになりますが、これは 自我の解釈であって神の解釈ではありません。
罪悪感から成り立つ世界だけがこれを強要しかねません。
なぜなら、身に覚えのあるものだけがそれを思い付けるからです。
アダムが自分を楽園から追い出したのは父だと信じこみさえしなかったなら、アダムの「罪」は誰にも影響を及ぼしはしなかったでしょう。
父を理解できない者たちだけがそれを信じることができ、それを信じたがために父の叡知を失いました。
ACIM-Text- chapter14-0-4
この世界こそ神の子が十字架刑になった光景そのものです。
そしてあなたは神の子が磔にされることは有り得ないと悟るまで、このような世界を見ることになります。
しかも神の子に罪はないという永遠の事実を受け入れない限り、こうしたことを悟らないでしょう。
神の子はただ愛だけを与えられており、その愛だけを受けるに値します。
決して有罪の判決が下されてはいないので、それを受けるはずもありません。
贖罪が神の子は絶対に罪を犯していないので、救いの必要もないと教えてくれるのだから、これこそ神の子が最終的に学ぶべきレッスンです。
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