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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編「12章 聖霊のカリキュラム」より
12章12-3 実在に思いを投入する
ACIM-Text- chapter12-3-1
かつて私は、あなたに自分の持物をみな売って貧しい人々に与え、それから私についてくるようにと頼んだことがあります。
私が言いたかったのは、もしあなたがこの世界において、何に対しても期待して労力やお金を注ぎ込んでいないのなら、貧しい人々に自分たちの宝がどこにあるか教えることができる、ということです。
貧しい人々とは、単に間違って投資してしまった人たちに過ぎませんが、貧しい身の上であることは確かです。
その人たちは必要に迫られているので、手助けをしてあげるようにとあなたのもとによこされたわけです。あなたもその人たちの中にいるからです。
もしあなたが、その人たちの貧しさを共有したくないとするなら、あなたは学ぶべき教訓をいかに申し分なく学んだことになるか、よく考えてみなさい。
貧しいとは不足しているということなので、必要なものは一つしかないので不足するものも一つしかないからです。
ACIM-Text- chapter12-3-2
あなたが自分ではしたくないと思う何かを、あなたにしてほしいと執拗に求める兄弟がいると仮定してみましょう。
その人の執拗さがあなたに教えているのは、その人は救済がその中にあると信じているということです。
あなたがそれを何としても断ろうとして、一瞬反感を抱いたとすれば、あなたは自分の救済がそれを行わないことの中にあると信じていることになります。
そこであなたは、その兄弟のと同じ間違いをしていることになり、その兄弟の過ちを二人にとって真実にしています。
主張するということは何かをあてにして期待することを意味し、自分で投資するものはいつでも自分の救済についての考えに関連しています。
質問には必ず二つの面があり、最初のは何を救うべきなのか、という質問です。
そして二番目は、どうすればそれを救えるだろうか、という質問です。
ACIM-Text- chapter12-3-3
あなたが兄弟に怒りを覚えるときにはいつでも、それがどんな理由にせよ、あなたは自我を救うべきだと信じています。
それも、攻撃によって救うべきだと信じているということです。
もし、兄弟が攻撃するとすれば、あなたはこう信じることに同意しており、あなたが攻撃するのなら自分でそのような信念を強化していることになります。
攻撃する者たちは貧しいということを覚えておきなさい。
貧しさ故に、ただで貰えるものを求めるのであり、さらに貧しくなることなど求めはしません。
その人たちを助けることのできる者が、もしその人たちの貧しさは自分の貧しさであるように受け入れるとすれば、破壊的に振る舞っているのは確かです。
もしあなたが、その人たちがしたように、投資してさえいなかったなら、決してその人たちの要求を見落とすことなど思いついていなかったでしょうに。
ACIM-Text- chapter12-3-4
重要なこととそうでないことを見分けなさい。
そして、もしあなたの兄弟たちが何か「とんでもないこと」を頼むなら、それはどうでもいいことなのだから頼まれたとおりにしなさい。
それを拒否するなら、あなたが反対しているということなので、自分にとってそれがどうでもいいとは言えないと思っていることを立証しています。
したがって、そうした願いをとんでもないことにしたのは、ほかでもない自分であり、兄弟からの願いは一つ残らずあなたのためです。
なぜ、そうした願いを聞き入れないと言い張るのでしょうか。
そうするということは、自分自身を拒むことなので、二人を貧しくすることになるというのに。
その兄弟はあなたと同じように救済を求めています。
貧困は自我のものであり、決して神のものではありません。
何が大切なのか、それに気づき、それ以外には何一つ受け入れたいと思わない者は、「とんでもない」要求など言い出したりしません。
ACIM-Text- chapter12-3-5
救済は心のためであり、それは平安を通して得られます。
これこそ救済を得られる唯一のものであり、それを救うただ一つの道です。
愛以外のどんな反応にせよ、それが生じるというのは「何が」、「どのようにして」救われるのかを混同するからであり、こうしたことがその唯一の答えだと言えます。
決してこのことを見失わないようにし、また一瞬たりとも、別の答えがあるなどと自分に絶対信じさせたりしてはなりません。
あなたはきっと自分自身を貧しい者のうちだと考えるでしょう。
そして、そうした貧しい者たちは、自分がすでに満ちあふれる状態にあり、救済を得ているということを理解しないからです。
ACIM-Text- chapter12-3-6
自我と一体感をもつとすれば、それは自分自身を攻撃し、自らを貧しくさせることです。
だから、自分を自我だと思う者は誰もがみな、恵まれていないと感じたりします。
そのあと、その人は憂うつになったり憤りを感じます。
それは、真の自己愛を自己嫌悪と取り替えて、自分自身に恐れを抱いたからです。
こうしたことを自分で悟ってはいません。
たとえ心が落ち着かないとよくわかってはいても、そのもとが自分自身、自我と同一感を持っていることだとは知覚しないし、それをいつもこの世界とある気違いじみた「取り決め」をすることで処理しようとします。
その人は、必ずこの世界は自分の外側にあるものと知覚します。
そうすることは、自分が順応するために極めて重要だからです。
自分の外側にある世界などないので、自分がこの世界を作るのだということを、その人は悟っていないのです。
ACIM-Text- chapter12-3-7
神の子の抱く愛に満る思いのみがその世界の実体だとすれば、実相の世界は神の子の心の中にあるはずです。
狂気の思いも、神の子の心の中にあるに違いありません。
しかしこれほど大きな内面的葛藤にその人は耐えることはできません。
分離した心が引き起こされ、その心自体、完全に対立する思いを包含していると認めることは、耐えられないことです。
したがって、心はその真実の姿ではなくて、分離した姿を投影します。
あなたが、あらゆるものを自分の外側にある世界として知覚するのは、単に自分の自我との一体感を持続しようとする試みに過ぎません。
誰もがみな、そのような一体感をもつことが救済だと信じるからです。
しかし、何が起こったのかよく考えてみて欲しいのです。
思いは、それを思い付いた人に何らかの影響をもたらすことは確かだからです。
あなたは自分で知覚している世界と合わなくなっていますが、それはその世界は自分に敵対していると思っているからです。
これは自らしでかしたことの当然の結末です。
内的なものに敵対するものを外に向けて投影したので、それをこのような風に知覚せざるを得ないのです。
だから、あなたは自分の憎しみは心の中にあり、外にあるのではないと悟らなければなりません。
そうして、初めてそれを除くことができ、そうした憎しみを除かなければいけないという理由は、そうしてこそ世界を本当にあるがままに知覚できるからです。
ACIM-Text- chapter12-3-8
前に私が述べたことですが、神はその世界を愛されたのでそれを一人子に与えてくれました。
神は確かに実相の世界を愛しており、その真実の姿を知覚する者たちは死の世界を見ることはできません。
というのも、死は実相の世界には属さないし、そこでは全てのものが永遠なるものを反映しています。
神は、あなたが自らの分離した心から作った世界、それは死を象徴する世界ですが、それと引き替えに実相の世界を与えてくれました。
というのは、もしあなたが実際に自分自身を神の御心から分離させることができるとすれば、あなたは死んでしまうからです。
ACIM-Text- chapter12-3-9
あなたが知覚する世界というのは分離から成る世界です。
おそらく、あなたは自分の父を否定するためなら、死を受け入れることさえいとわないでしょう。
しかし、神はそうさせるつもりではないので、そうなってはいません。
あなたには、やはり神に逆らって意図することなどできず、それがあなたに自分で作り出した世界を制御できないわけでもあります。
そのような世界は、神に似たものになりたくないという強い望みによって支配されており、そのような欲望は、意志ではないため、意志の世界ではありません。
したがって、あなたが作った世界は全くの混乱状態に陥っており、独断的かつ非常識な「法則」で支配されており、そこにはどんな意味もありません
そのような世界は自分が望まないもので作られていて、自らそれに対して恐れを抱いているので、自分の心から投影されたからです。
しかし、こうした世界はただそれを作った人の心の中にあり、それと同時にその人の本当の救済もそこにあります。
そのような世界が、自分自身の外にあると信じないことです。
ただ、それがどこにあるのか気づくことなので、その世界を制御できるようになるわけだからです。
それというのも、心はものごとを決める働きをするもので、あなたが自分の心を制御できることは確かだからです。
ACIM-Text- chapter12-3-10
自分が攻撃されているように見て取れることは、全て自分の心の中にあり、そこ以外にはないと認めるようになるなら、あなたはようやく攻撃の源を見つけたことになり、そこで始まるものはそこで終わらなければなりません。
これと同じところに救済も見いだされます。
キリストの留まる、神の祭壇がそこにあります。
あなたはその祭壇を汚しましたが、その世界を汚してはいません。
しかし、キリストがあなたのためにとその祭壇の上に贖罪を置いてくれています。
その世界についてあなたが知覚していることを、この祭壇に持ってきなさい。
それは真理への祭壇だからです。
そこでは、自分の心眼によって心に見えるものが変わっていると分かり、正しく見ることができるようにもなります。
神とその神の子とが平安の内に住んでおり、あなたも歓迎されているこの場所から、あなたは平安のうちに外に目をむけ、この世界を正しく見るでしょう。
けれども、その場所を見つけるためには、自分で投影するままの世界に対する思い入れを放棄しなければいけません。
そして、聖霊が実相世界を神の祭壇からあなたのもとへと拡張させることを可能にしなければなりません。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編12章 「聖霊のカリキュラム」目次