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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編12章 「 聖霊のカリキュラム」より
12章12-4 求めることと見いだすこと
ACIM-Text- chapter12-4-1
愛は危険なものだと 自我は確信しており、このことが必ず 自我の教えの中心となります。
自我はそれを決してこのような風には言いません。
それどころか、 自我こそが 救済だと信じる者は、一人残らず愛を捜し求めそれに情熱を傾けているように見えます。
その 自我は、とても積極的に愛を追求するよう励ましはしますが、それを見出すことはないという但し書を一つ付けています。
自我の指図は次のように簡単に要約できます。
「探せよ、されど見つけることなかれ」、と。
自我があなたに差し出す約束はこれひとつ、この約束は守るつもりでいます。
それというのも、 自我は自らの目標を狂信的なしつこさで追うし、それの判断力はひどく損なわれていても、完全に一貫しているからです。
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したがって、 自我の行う探求は挫折すると決まっています。
それに 自我は、それ自体あなたが同一化したものだとも教えるので、そのような 自我が導き手としてあなたを導く旅路は、自滅的だと見て取れる旅で終わるに違いありません。
というのも、 自我は愛することができなにので、それが死に物狂いで愛を捜すうちにも、見いだすのを恐れているものを求めているのです。
自我は、あなたの心の部分だからそれを捜すことは必然的であり、その 自我はそれの源のおかげで、完全に分離してはいません。
そうでなければ、 自我を少しも信じることはできないでしょう。
そのような 自我を信じた上で、それが存在することにするのはあなたの心だからです。
けれども、 自我の存在を否定する力を持っているのもあなたの心であり、 自我にすすめられて出発した旅路が何なのか、それをはっきり悟った時、あなたはきっと 自我の存在を否定するようになることでしょう。
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誰一人、自分をことごとく挫折させてしまいそうなものを、見つけたいと思う者などいないということはきっと明らかでしょう。
愛することができないので、 自我は愛の面前でその愛に少しも応じることができず、全くその場に相応しいとは言えないものになるでしょう。
そこで、あなたは 自我に案内されるのを諦めなければなりません。
その 自我は、あなたに必要な反応を教えてはいないということが極めて明瞭だからです。
その結果、 自我は愛をゆがめ、愛は実のところ 自我が教えることのできる反応などを呼び起こすものだと教えようとします。
ではそのような教えにしたがえば、あなたは愛を捜し求めはするでしょうが、それに気づかないでいることになるのです。
ACIM-Text- chapter12-4-4
自我は、空虚で憂鬱な思いをせずにはいられないような旅路へと、あなたを向けずにはおきません。
それがあなたに十分分かるでしょうか。
探しても見いだせないのでは決して喜べはしません。
このような約束をあなたは守るつもりでしょうか。
聖霊があなたにもう一つ別の約束、喜びへつながる約束を差し伸べてくれます。
その約束はいつも、「求めよ、そうすれば必ず見いだす」というものであり、 聖霊の導きのもとであなたが挫折することは有り得ません。
聖霊のは為し遂げるための旅路であり、 聖霊はあなたの前におく目標を、自らあなたのものにしてくれます。
聖霊は、自ら父の愛をもって愛する神の子を決して欺むいたりしないからです。
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あなたが旅路に乗り出すことになるのは確かです。
この世界では自分の国にいるような気がしないからです。
だから、あなたは自分の国がどこにあるのかよくわかっていてもいなくても、それを捜し求めようとするでしょう。
それが自分の外側にあるものと信じるのならその探究は無駄になります。
その国が無いところにそれを求めようとするからです。
あなたは自分の国が内側にあるとは信じないので、どのようにしてそこを見るのか覚えてはいません。
けれども、 聖霊がそれをあなたのために覚えていて、あなたを自国へと導いてくれる、そうすることこそ 聖霊の使命だからです。
聖霊は自らの使命を果たすとあなたにも自分のを教えてくれます。
それというのも、あなたの使命というのは 聖霊のと同じだからです。
自分の兄弟たちを自国へと導くことによって、あなたはただ 聖霊のあとについて行くことになるのです。
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あなたの父が与えてくれている導き手を見なさい。
そうすれば、自分には永遠の生命があると分かるかもしれません。
死、は父の意志ではないばかりか、あなたの意志でもないのです。
そして、何にせよ真実であるものこそ父の意志です。
あなたは生命に対してその代償を払うことはありません。
それは、自分に与えられたものだからです。
しかし、死の代償を払うのは確かです。
それも極めてきびしい代償です。
もし、死があなたの宝なら、それを買うために他のものを全て売るでしょう。
そして、それを買ったものと信じるようになります。なぜなら他のものは一つ残らず売り払ったからです。
ところが、あなたには神の国を売ることなどできません。
自分が継承したものは、買うことなどできないばかりか売ることもできなません。
神の子としての身分にあって、相続権を奪われたものなど有り得ません。
なぜなら、神は完全であり、神自ら拡張したものはみな神に似ているからです。
ACIM-Text- chapter12-4-7
贖罪は、あなたが完全な姿になるための代償ではありませんが、自分の完全さを自覚するための代償であることは確かです。
自分から選んで「売ろうとした」ものは、あなたのために取っておかれなければならありませんでした。
それを自分で「買い」もどすことはできなかったからです。
けれども、あなたはその何かに投じなければいけません。
それもお金ではなく霊(Spirit)をもってです。
というのも、霊(Spirit)は意志であり、意志をはたらかせることこそ神の国への「代価」だからです。
あなたの継承したものは、あなたが自ら贖われていると再認識するだけで自分のものになるようにと用意されています。
聖霊が永遠の生命へと導いてはくれますが、あなたは自分で死に投資することを放棄しなければなりません。
さもければ、生命が自分を四方から取り囲んでいるにも関わらず、あなたにはそれがわからないでしょう。
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