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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編12章 「 聖霊のカリキュラム」より
12章12-7 内面を見る(その1)
ACIM-Text- chapter12-7-1
奇跡は正しい指導の下で学んだということを実証します。
それというのも、学んでいることは目に見えないのであり、何を学んだのかはただその結果によって認めることができるだけだからです。
学んだことの概念は、あなたがそれをもっといろいろな事態において使うにつれて実証されます。
奇跡を全ての事態に対して適用するなら、『奇跡には難しさの順序はない』ということを自ら学んだと気づくようになります。
奇跡を適用できない事態は無く、どのような事態にもみな奇跡を適用することによって、あなたは 実相の世界を得るでしょう。
こうした神聖な知覚の仕方をすることで自分が完全になれるのであり、あなたが自分自身のために贖罪を受け入れることで、その贖罪は、 聖霊があなたの祝福を受けるようにとあなたのもとへ寄越す一人ひとりのために光を放つことでしょう。
神の子は誰もが皆、自分の中に神の祝福を見いだせ、あなたが神の子供たちを祝福するということこそ、あなた自身神に祝福されているということです。
ACIM-Text- chapter12-7-2
世界中の誰もが皆、世界は贖われていると認めるためには、その贖いのために自分の役割を果たさなければならないのです。
あなたは目に見えないものを見ることなどできません。
けれども、もしそうした目に見えないものの結果を見るなら、それがそこにあるに違いないと分かります。
それが何をするかを知覚するので、それの存在を認識します。
そのうえ、何をするかによってそれが何なのか分かってきます。
あなたは自分の力というものを見ることはできませんが、その力があなたに行動できるようにするので、そうした力が自分にあるという自信がついてきます。
そして自分の行動の成果というものは確かに見ることができます。
ACIM-Text- chapter12-7-3
聖霊は目には見えませんが、その存在が及ぼした結果などを見ることができ、それを通してあなたには 聖霊がそこにあると分かるようになります。
聖霊があなたに行えるようにできることは、この世界に属すことでないのは明らかです。
奇跡は、この世界が判断するところの実在の法則をことごとく破るからです。
時間や空間の法則、大きさや質量の法則などことごとく超越しています。
聖霊があなたに可能にさせることは、そうしたことを全て越えているのは明白だからです。
聖霊の影響力を知覚するなら、その 聖霊がどこにいるはずなのか理解するようになり、ついには 聖霊が何なのか分ってきます。
ACIM-Text- chapter12-7-4
あなたは 聖霊を見ることはできませんが、その顕現、つまりそれがはっきり何らかの形に現れたものなどを見ることはできます。
そして、そうしたものを見なければ 聖霊がそこにあるとは認識しないでしょう。
奇跡が 聖霊のあかしであり、その存在を物語ります。
あなたに見えないものは、それを物語るあかしを通してのみ、自分にとって本物になります。
あなたは自分に見えないものに気づくことができる訳であり、その存在があなたを通してはっきり現れてくるにつれて、それが自分にとっては思わず釣り込まれそうになるほど本物にもなりえます。
聖霊のなせるわざを行きなさい。
あなたは 聖霊の機能を分かち合うからです。
天国におけるあなたの機能は創造であり、地上での機能は癒しです。
神は自らの機能をあなたと天国で分かち合い、 聖霊は自らのをあなたと地上で分かち合うことになります。
自分に他の機能があると信じるうちは、あなたは矯正を必要とします。
そのような信念は。平安を台無しにし、それになるのは 聖霊の目的に対して正反対の目標だからです。
ACIM-Text- chapter12-7-5
あなたは自ら期待するものを見て、自分で招くものを期待します。
あなたが知覚することは、自分が招来した結果であり、自らそれに来てほしいと呼びにやったままの姿でやって来ます。
誰の顕現をあなたは見るつもりでいるのでしょうか。
誰が存在するものと確信するのでしょうか。
あなたは自ら形に現すものを信じるのであり、自分で外に見るように中を見るようになるからです。
外の世界に目を向けるにつけ、二通りの見方があなたの心の中にあり、あなたの知覚することがどちらの手引きを自分で選んだのか映し出してくれます。
ACIM-Text- chapter12-7-6
私が 聖霊の顕現であり、あなたが私を見るとすれば、それはあなたが 聖霊を招いたからということになります。
聖霊は、自らの証人たちをあなたに送るつもりなので、あなたはただそうした証人たちに目を向けさえすればいいのです。
自ら求めるものをあなたは見るということ、いつも覚えておきなさい。
自分の求めるものを見出すようになるからです。
自我はそれが求めているもの、ただそれだけを見つけます。
愛を見出すことはありません。
それは 自我が求めているものではないからです。
しかし、求めることと見出すことは同じであり、もし二つの目標を求めるのなら、両方とも見出せます。
ところが、あなたはどちらも見分けがつかなくなってきます。
あなたは両方とも欲しいので、どちらも同じものだと思うようになります。
心というものは常に融和しようと努めます。
ところが、もしその心が分離しており、そうした分離を保ちたいと思うとすれば、その心は目標を一つだと思えるようにすることによって、一つの目標を持つものとまだ信じようとするでしょう。
ACIM-Text- chapter12-7-7
前に私が述べたことですが、あなたが何を投影したり拡張したりするか、それは自分次第です。
しかし、どちらか一方にしなければいけません。
それが心の法則だからです。
そして、外に目を向ける前に内面を見つめる必要があります。
内面を見つめる際に、あなたは見るための導き手を選ぶことになります。
そのあと外に目を向け、その導き手を証明するものを見るからです。
だから、自分で求めるものを見出すのです。
あなたは自分自身の中に欲しいと思うものを、形あるものに現すでしょう。
そして、そうしたものを自分をとりまく世界から受け入れることになるというのも、自らそれを望んでそこに置いたからです。
あなたは自分の欲しくないものを投影していると思うとしても、そうするのはまだあなたが本当はそれを望んでいるからです。
こうしたことが直接、ものごとを切り離して考えるという結果となります。
それは二つの目標をそれぞれ異なった場所にあると見て取り、その二つを受け入れるということを意味し、それにあなたがその二つを違うように作ったので互いに別々にされています。
その後、心は分割された世界をその心自体の外側に見ますが、その内側に見ることはありません。
こうしたことが、その心に融和しているとの幻想を与える上に、一つの目標を追求しているものと信じることができるようにします。
けれども、あなたがその世界は分離しているものと知覚する限り、あなたは癒されていません。
癒されるとは一つの目標を追求することなので、あなたはただその一つを受け入れており、それだけを望むからです。
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