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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第20章 「 聖霊の心眼」20-7本文
第20章 20-7 手段と目的の一貫性
ACIM-Text- chapter20-7-1
これまでに、手段と目的の不一致についても、あなたの神聖な関係が喜びだけをもたらせるように手段と目的を一致させるやり方について、私達は多くを語ってきました。
しかし、私達はまた、 聖霊のゴールを果たすための手段は、 聖霊の目的と同じ源から来るということも述べました。
単純で単刀直入なこのコースには、一貫性のないものは何一つ含まれていません。
矛盾のように思えることや、あるいはあなたが他の箇所より難しいように感ずる部分は、単に手段と目的がまだ一致していない領域を示しているに過ぎません。
そして、これが多大な不快感をもたらします。
しかし、そうである必要はありません。
このコースは、ほとんど何もあなたに要求していません。
これほど要求が少ないコースや、これより多く与えるコースを想像することは不可能です。
ACIM-Text- chapter20-7-2
一つの関係の目指すものが、罪から神聖な状態へと急激に変化した後に続く不快な時期は、今や終りに近づいているかもしれません。
今でもそれを経験しているとしたら、その分だけ、目的を変化させた 聖霊に手段を任せることを拒否しているのです。
自分がそのゴールを望んでいることを、あなたは認識しています。
それならば、あなたはその手段も、自ら進んで受け入れようとは思わないでしょうか。
もし、あなたがそう思わないとすれば、私達はあなたが矛盾しているということを認めましょう。
目的というものは、手段によって達成されるものであり、もしあなたが目的を望むのなら、その手段も望もうとしなければなりません。
誠実な者であれば、「私は何よりもこれを望んでいるが、それを手に入れるための手段は学びたくない」などと、一体誰が言うことが出来るしょうか。
ACIM-Text- chapter20-7-3
ゴールを達成のために、 聖霊は本当に僅かしか求めていません。
手段を与えるにあたって、それ以上を求めていません。
手段はゴールの対して副次的なものです。
そして、あなたが躊躇しているとすれば、その理由は、手段ではなく目的があなたを恐れさせているからです。
このことを覚えておきなさい。
そうしないと、あなたは手段が難しいと信じ込む間違いを犯すことになるからです。
しかし、もし、手段が単にあなたに与えられるのだとすれば、どうしてそれが難しいということがあるでしょうか。
手段がゴールを保証するのであり、手段はゴールと完全に一致しています。
手段をもう少し詳しく検討する前に思い出すべきことは、もし、手段が不可能だとあなたが思うとしたら、目的を望むあなたの気持ちが揺さぶられたということです。
なぜなら、ゴールが達成可能なものであるなら、そのための手段もまた可能なものに違いないからです。
ACIM-Text- chapter20-7-4
あなたの兄弟を罪なき者と見ておきながら、その人を 身体として見るということは不可能です。
このことは、聖性というゴールと完璧に一致していると言えないでしょうか。
なぜなら、聖性とは、単に罪の結果が取り除かれたことによりもたらされるものであり、それにより常に真実であったものが認識されるに過ぎないからです。
罪のない 身体を見ることは不可能です。
というのも、聖性とは肯定的なものであり、 身体とは単に中庸なものに過ぎないからです。
身体は罪深くありませんが、無罪でもありません。
ただ無に過ぎない 身体に、 キリストの属性や 自我の属性を注ぎ込んでみても意味はありません。
どちらの場合も、それぞれの属性をそれらが存在し得ないところに置くことになるので、誤りとならざるを得ません。
そして、両方とも、真理という目的のためには、取り消される必要があります。
ACIM-Text- chapter20-7-5
身体こそが、神聖ではない関係を実在するかのように見せるために 自我が用いる手段です。
神聖ならざる瞬間とは、すなわち 身体の時間です。
しかし、ここにおいての目的は、罪です。
それは、ただ幻想の以外では達成できず、したがって、兄弟は 身体だという幻想は、非聖性という目的に極めて適したものです。
この一貫性を理由に、その目的が大切にされている間は、その手段も疑問視されないままになります。
見ることは、願望に即したものになります。
なぜなら、視覚は常に要求に対し副次的なものだからです。
それ故に、もしあなたが 身体を見ているのなら、あなたは心眼ではなくて裁きを選んだのです。
なぜなら、関係と同じく、心眼にも順序はないからです。
あなたは、見ているか、見ていないか、そのどちらかです。
ACIM-Text- chapter20-7-6
兄弟の 身体を見ている者は、その人に裁きを下したのであり、その人を見てはいません。
実際にはその人に罪ある者として見ているのではなく、その人を全く見ていないということです。
罪悪という闇の中では、その人は目に見えないものです。
闇の中では、その人について想像されることしか出来ず、そこではあなたがその人について抱いている幻想が、その人の実相に見合ったものにされてはいません。
ここでは、幻想と実在が隔離されています。
ここで幻想は決して真理のもとに運ばれることはなく、常に真理から隠されています。
そして、この闇の中で、あなたの兄弟の実相は 身体だと想像されていて、他の 身体と関わる神聖ではない関係の中にあり、死ぬまでの一瞬の間、罪の原因に仕えるものだと想像されています。
ACIM-Text- chapter20-7-7
こうした虚しい想像力と心眼との間には、明らかな違いがあります。
その違いは、それら自体の中にあるのではなく、それらの目的の中にあります。
両方とも、それらを採用する目的にとっては適切な手段です。
どちらの手段にせよ、もう一方の目的に仕えることは出来ません。
なぜなら、それぞれが目的の選択であり、それぞれの手段のために採用されるものだからです。
いずれも意図する目的がなければ意味が無く、その意図から切り離した単独のものとして価値を認めることは出来ません。
ゴールの価値が認められるからこそ、手段というものが実在するかのように見えるのです。
そして、ゴールが罪でない限り、裁きには何の価値もありません。
ACIM-Text- chapter20-7-8
身体は、裁きを通してしか見ることは出来ません。
身体を見るということは、あなたには心眼が欠けており、 聖霊があなたに差し出している目的に役立つ手段を、あなたが否定しているというしるしです。
神聖な関係が、その目的を罪の手段によって達成するなどということがどうして出来るでしょうか。
裁きとは、あなたが自分自身に教え込んだものであり、心眼とは、あなたが教えたものを取り消そうとする 聖霊から学ばれるものです。
聖霊の心眼は罪を見ること出来ないので、 身体を見ることも出来ません。
こうして、 聖霊の心眼はあなたを実相へと導いていきます。
あなたの神聖な兄弟を見ることが、あなたの解放であり、神聖な兄弟は幻想ではありません。
その人を闇の中で見ようとするのはやめなさい。
そこでは、その人についてあなたが想像することは実在しているかのように見えるからです。
あなたは、その人を締め出すために目を閉じてしまいました。
それがあなたの目的でした。
そして、この目的に意味があるように思えているうちは、それを達成するための手段は見る価値があると評価され、そのためにあなたは見ることはないでしょう。
ACIM-Text- chapter20-7-9
あなたの質問は、「どうすれば兄弟を 身体なしに見ることが出来るか」であってはなりません。
ただ「私は本当にその人に罪なき者と見たいだろうか」とだけ問いなさい。
そして、それを問うときに忘れてならないことは、その人の無罪性があなた自身の恐れからの脱出だということです。
そのための手段が心眼です。
なぜなら、見ることの出来る者が眺めるのは、まさしく罪なき者だからです。
愛する者は、裁くことが出来ません。
そして、その人が目にするものは咎めから自由です。
その人が見るものは、その人が自分の作り出したものではありません。
その人が見ることを可能にした心眼と同じく、それはその人が見るようにと与えられたものだからです。
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