Contents
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章21-5本文
第21章 21-5 理性の機能
ACIM-Text- chapter21-5-1
知覚は選択をします。
そして、あなたの見ている世界を作り出します。
知覚は、文字通り、心が指示する通りにそれを選び出します。
大きさや形や明るさの法則も、もし他の条件が同じだったなら、おそらく適用されるでしょう。
なぜなら、あなたが見過ごしたいと思っているものよりも、探しているもののほうが、あなたに発見される可能性が遥かに高いからです。
神を代弁する静かな囁き声は、それを聞きたいと思う者たちには、いかなる 自我の金切り声や無意味なわめき声によっても、かき消されることがないものです。
知覚とは、選択であり、事実ではありません。
しかし、あなたが今までに認識している以上に遥かに多くのことが、この選択に依存しています。
なぜなら、あなたが聞く事を選択する声と見る事を選択する光景に、あなた自身の本性についてのあなたの信念全体が、全面的に依存しているからです。
知覚は、こうしたことの証明するに過ぎず、決して実相を証明にするものではありません。
とはいえ、知覚は、実相についての自覚が可能となる状況、あるいはその自覚が絶対に自覚し得ない状況を、あなたに見せることは出来ます。
ACIM-Text- chapter21-5-2
実相が実相であるために、あなたからの協力は必要とはしません。
しかし、あなたが実相について自覚するには、あなたからの助けが必要です。
というのは、それはあなたによる選択だからです。
自我が言う事に耳を貸し、 自我が命じるままに見るならば、あなたが自分自身を、ちっぽけで、傷つきやすく、臆病者だと見ることは確実です。
意気消沈や、無価値感や、儚さや虚しさの感情などを経験するでしょう。
自分の事を、自分よりも遥かに強力で、自分には到底手に負えない勢力を前にした非力な餌食であると、信じるでしょう。
その上、あなたの作り出した世界があなたの運命を操っていると思うようになるでしょう。
なぜなら、これがあなたの抱く信となるからです。
しかし、それがあなたの信であるからといって、それが実相を作り出すと信じてはなりません。
ACIM-Text- chapter21-5-3
それとは別に、あなたの自由を内包する心眼と声があり、ただあなたに選択されるのを待っています。
そして、もしあなたがその心眼と声に信を置くなら、あなたは自分の中にもう一つの自己を知覚するでしょう。
このもう一つの自己は、奇跡を自然なものと見なします。
その自己にとって、奇跡は 身体にとっての呼吸と同じくらい単純で自然なものです。
奇跡は、助けを求める呼び掛けに対する明確な応答であり、その自己からの唯一の応答です。
奇跡は、 自我にとっては不自然なものに見えます。
なぜなら、どうやって分離した心同士が互いに影響を与え合えるのか、 自我には理解できないからです。
実際、分離している心にはそれが出来ません。
ただし、心が分離すること自体が不可能なのです。
このもう一つの自己は、このことを完全に自覚しています。
それ故に、その自己は、奇跡は他者の心に影響を及ぼすのではなく、自らの心のみに影響を及ぼすと認識しています。
奇跡は常にあなたの心を変えます。それ以外には心はありません。
ACIM-Text- chapter21-5-4
あなたは、分離の想念がどれほど大きく理性の邪魔をしてきたか、気づいていません。
理性は、あなたが自分の自覚から切り離してしまったもう一つの自己の中にあります。
そして、あなたが自らの自覚の中に留まらせたものは、理性を用いる能力がありません。
どうして理性を欠いた心の断片が、理性とは何かを理解したり、理性が与える情報を把握したり出来るでしょうか。
その断片の中には、ありとあらゆる種類の疑問が生じるかもしれません。
しかし、もし根本的な疑問が理性から生じているとすれば、心のその部分がそれを問うことはありません。
理性から生じる全てがそうであるように、根本的な疑問も明瞭かつ単純であり、問われないままに留まります。
しかし、理性がそれに答えられないものと思ってはなりません。
ACIM-Text- chapter21-5-5
あなたの 救済のための神の計画が、あなたの意志と同意なしに確立されたということは有り得ません。
それは、神の子によってすでに受け入れているはずのものです。
神の子は、神が神の子に意志するものを必ず受け取るからです。
神が神の子を離れて単独に意志することはなく、神の意志がその成就の時を待つということもありません。
したがって、神の意志につながったものは、永遠なるものであり、今もあなたの中にあるはずです。
あなたは、 聖霊が留まることの出来る場所を取っておいたに違いなく、そこに 聖霊は留まっています。
聖霊に対する必要が生じ、それが瞬時にして満たされた時以来、 聖霊はそこに存在してきたはずです。
もし、あなたが耳を傾ければ、あなたの理性があなたにこれを告げるはずです。
しかし、それは明らかに 自我の論法とは違っています。
あなたの理性が、 自我には異質なものだということが、あなたが 自我の中に答えを見つけることはないという論証です。
ですが、理性がそういったものだとすれば、答えは必ず存在しているはずです。
そして、答えがあなたのために存在しており、あなたを自由にするという事がそれに与えられている目的なら、あなたはそれを見出すための自由があるはずです。
ACIM-Text- chapter21-5-6
神の計画は、単純であり、絶対に堂々廻りをしたり、自己破綻をきたしたりしません。
神には、自己を拡張させるもの以外のいかなる想念もなく、これにはあなたの意志も含まれているはずです。
ということは、あなたの中には神の意志を知っており、それを分かち合っている部分があるはずです。
そうでしか有り得ないものについて、本当にそうであるかどうかなどと問うことは、意味がありません。
しかし、そうであるものをなぜあなたが自覚していないかを問うことには意味があります。
なぜなら、もしあなたの 救済のための神の計画が完全であるのなら、この問いには答えがあるはずだからです。
そして、その源は不完全性を知らないものであるので、その計画は完全なはずです。
ACIM-Text- chapter21-5-7
一体その源の中以外のどこに、答えがあるでしょう。
そして、その答えがある場所以外のどこに、あなたがいるでしょうか。
これと同じ源の真の結果の一つでもあり、その答えそのものであるあなたのアイデンティティーも、したがって一緒に存在し、同じもののはずです。
もちろん、あなたはこのことを知っています。
そして、知っているのは、これだけではありません。
しかし、叡智はどの一部分であれ、叡智全体と同様に、乖離を脅かします。
そして、そのどの部分も、全体と一緒に訪れます。
そして、ここにあるのが、あなたが受け入れることの出来る一部です。
理性のために語る証言は明白であるので、あなたは理性が指し示すものを見ることが出来ます。
ただ完全に気が狂っている者たちだけが、それを無視することが出来ますが、あなたは既にそうしたところは通り越しています。
理性とは、それ自体で 聖霊の目的に仕える手段です。
それは、他の手段のように、罪のゴールという観点から解釈し直されたり、新たに方向づけされたりはしません。
それというのも、理性は、 自我による手段の範囲を越えているからです。
ACIM-Text- chapter21-5-8
信と知覚と信念が、間違った対象に向けられることは有り得ることであり、真理のためと同様に、老獪な詐欺師の必要を満たすために働く事も出来ます。
しかし、狂気の中に理性の居場所はなく、狂気の目的に合わせるために理性を調整することも出来ません。
狂気の中では信と信念も強力であり、心が価値のあると見なしたものに向かって知覚を導きます。
しかし、理性は全くこの中には入っていきません。
というのも、もし理性が適用されたなら、その知覚はたちまち崩壊するからです。
狂気は、全面的に理性の不在に依っているので、その中に理性はありません。
自我は、決して理性を用いることはありませんが、それは理性が存在していることが分かっていないからです。
部分的に狂っている者なら理性に近づく事ができ、その人たちだけが理性を必要としています。
叡智は理性に依存せず、狂気は理性を締め出します。
ACIM-Text- chapter21-5-9
心の中で理性が存在している部分は、父の意志と一つに結ばれているあなたの意志で、狂気を取り消すことに捧げられています。
聖霊の目的は、受け入れられ、同時に達成されています。
理性は、狂気にとっては異質なものであり、理性を用いる者たちは罪に対して適用できない手段を獲得しています。
叡智は、いかなる種類の達成をも遥かに越えたものです。
しかし、理性は、あなたが叡智に対して閉じた扉を開くために役立つことが出来ます。
ACIM-Text- chapter21-5-10
あなたはそのすぐ近くまで来ています。
信と信念の向きが変わり、あなたは 自我が絶対に尋ねることはない質問をしました。
その質問は、自分が何か知らずとも自分に属しているに違いない何かから生じてきたはずだと、今あなたの理性はあなたに告げていないでしょうか。
理性に支えられた信と信念は、間違いなく変化した知覚へと導きます。
そして、この変化において、心眼のための場が空けられます。
心眼は、それが仕えている目的と同じように、それ自体もその達成のための全ての手段を遥かに越えて、拡張していきます。