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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第5章 「癒しと全一性」より5-5 本文
第5章 5-5 自我による罪悪の利用
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自我が罪悪感をどのように利用するのか、それが明らかにされるなら、おそらく、私たちの話し合ってきた概念のいくつかがより明らかになり、あなた個人にとっても意味のあるものとなるでしょう。
自我の目的は恐れです。
なぜなら、恐れている者だけが利己的になることがあるからです。
自我の論理は、 聖霊の論理と同じく非の打ちどころがありません。
というのも、あなたの心は、自らの選択次第で、天か地のどちら側にでもつける手段を自由に使えるからです。
しかしここでも、そのいずれもあなたの内にあるということを思い出しなさい。
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天国に罪悪はありません。
なぜなら、神の国は贖罪を通して達成されるからです。
そして贖罪は、あなたを解放し、あなたが創造出来るようにします。
ここでは「創造」という言葉が適切です。
その理由は、あなたの作り出したものが一度 聖霊によって取り消されたなら、祝福されている残りの部分が回復されるので、それが創造を継続していくからです。
真に祝福されている者は、罪悪感を生み出すことは出来ず、喜びを生み出さずにはいられません。
そうなれば、それは 自我により傷つくことのあり得ないものとなります。
なぜなら、その平安は攻撃不可能なものとなるからです。
それは全一であるから、亀裂が入ることはありません。
罪悪感は常に亀裂を引き起こします。
恐れを引き起こすものは全て分割の法則に従うので、分断をもたらします。
自我が分離の象徴だとすれば、それはまた罪悪の象徴でもあります。
罪悪とは、単に神から生じたものでないというだけのものではありません。
それは、神に対する攻撃を象徴するものです。
このような概念は、 自我以外のものにとっては全く無意味ですが、それを信じる 自我の信念の力を過小評価してはいけません。
これが全ての罪悪感を生じさせている信念です。
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自我とは、分離を信じている心の部分です。
自らが神を攻撃していると信じることなくして、神に属する一部がどのようにして自分を神から切り離すことが出来るでしょうか。
私たちは以前、権威の問題について、それは神の力を奪うという概念に基づくものだと話したことがあります。
自我は、それをあなたが行ったと信じていますが、その理由は、 自我は自分があなただと信じているからです。
もし、あなたが自分を 自我と同一視するなら、あなたは自分自身を有罪だと知覚せざるを得ません。
あなたが自分の 自我に応答するときはいつでも、罪悪感を経験することになり、罪の報いを恐れることになります。
自我とは、全く文字通りの意味において恐ろしい想念です。
正気の心にとっては神を攻撃するなどという考えがどれほど馬鹿げたものであろうと、 自我は正気ではないということを決して忘れてはなりません。
自我は、妄想的体系を表し、その体系を代弁して語ります。
自我の声に耳を傾けるということが意味しているのは、あなたが神を攻撃することが可能だと信じ、神の一部があなたによって無理やり引き離されていると信じているということです。
それに続くのは外からの報復に対する恐れです。
なぜなら、その罪悪感はあまりにも過酷なものであるため、投影せざるを得ないからです。
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あなたが自分の心の中に受け入れるものは全て、あなたにとっては実在するものとなります。
あなたがそれを受け入れるということがそれを真実にします。
もし、あなたが自分の心の中で、 自我を王座に据えるなら、それが入ってくるのをあなたが容認したことによって、それがあなたの実在とされます。
なぜなら、心には実在を創造する能力も幻想を作り出す能力もあるからです。
前にも私は述べましたが、あなたは神と共に考えることをを学ばなければなりません。
神と共に考えるとは、神と同じように考えるということです。
これは自然なことであるから、罪悪感ではなく喜びを生み出します。
罪悪感は、あなたの思考が不自然であることの確かなしるしです。
不自然な思考とは罪を信じることなので、それには常に罪悪感が伴うでしょう。
自我は、罪を愛の欠如とは知覚せず、積極的な攻撃の行為として知覚します。
自我が生き残る為には、これが必要なのです。
なぜなら、罪とは愛の欠如であると見なすや否や、あなたは自動的にそのような状態を改めようと試みるからです。
そして、あなたはそれに成功するでしょう。
自我はこれを破滅と見なしますが、あなたはそれを解放と見なすことを学ばなければなりません。
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無罪の心が苦しむことはありません。
そうした心は正気であり、 身体を癒します。
その心自身が癒されているからです。
正気の心は、病など思いつくこともできません。
なぜなら、人や物を攻撃することなど思いもつかないからです。
私は以前、病とは魔術の一形態だと述べたことがあります。
しかし、魔術的な解決法の一つの形だと言う方が適切かもしれません。
自我は、自らを罰することによって、神による処罰を軽減出来ると信じています。
しかし、ここにおいてさえ 自我は傲慢です。
それは、処罰する意図を神の属性として、その後、この意図を奪って自分自身の特権とします。
自我は、自らが神に属する機能だと知覚するものの一切を、奪おうとします。
それというのも、 自我は完全な忠誠だけが信頼出来ると認識しているからです。
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あなたが神の法則に逆らえないのと同様に、 自我にもそれは出来ません。
しかし、あなたと同様に、 自我も自分の望む通りにそれらを解釈することは出来ます。
それ故に、「あなたは何を望むのか」という質問に答えなければなりません。
あなたは毎分毎秒それに答えており、一瞬一瞬の決断が、必ず何らかの結果をもたらすことになる一つの裁きです。
その結果は、その決断を変えるまでは自動的に続いていきます。
しかし、二つの選択肢のうちの一方を選ぶこと自体、変更出来ないものだということを覚えておきなさい。
この二つが、心が受け入れて従うことができる選択肢の全てです。
一方は神が創造したので、あなたがそれを根絶すること出来ません。
もう一方はあなたが作り出したので、あなたにそれが出来ます。
神が創造するものだけが、撤回することは出来ず、不変です。
あなたが作り出したものはいつでも変更することが出来ます。
なぜなら、神と同じように考えていない時、あなたは実際に何も考えていないからです。
妄想的な考えは、実在する想念ではありません。
ただし、あなたはそのような想念を信じることは出来ます。
しかし、あなたは間違っています。
想念の機能は神から生じ、神の内にこそあります。
神の想念の一部であるあなたは、神から離れて考えることは出来ません。
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分別のない想念とは、混乱した想念です。
あなたの想念は神によって創造されたので、神自らがあなたの想念に正しい筋道を与えています。
罪悪感というものは常に、あなたがこのことを知らないというしるしです。
また、それは、あなたが神から離れて考えることが出来ると信じ、そうしたいと望んでいることも示しています。
混乱した想念の一つひとつは、どれも全て始めに罪悪感が伴い、その持続においても罪悪感によって支えられています。
自分で自分の想念に正しい筋道を与えていると信じ、したがって、それらの想念が指示することに従わなければならないと信じている者たちは、罪悪感を免れることは出来ません。
こうしたことが、自分の誤りに対して責任を感じることになるのですが、このような責任を受け入れることによって自分が無責任に反応しているのだということは認識していません。
奇跡を行う者にとって唯一の責任が自分自身の為に贖罪を受け入れることだけだとすれば、そして確かにそうであることを私が請け合いますが、それなら、何が贖われるのかについての責任は、あなたにあるはずがありません。
そのような板挟みのような状態は、取り消しという解決法を受け入れることによってしか解決することは出来ません。
あなたの間違った思考が取り消せないものだとしたら、そのような思考の全てから生じた結果について、あなたは確かに責任を負わなければならなくなります。
贖罪の目的は、清められた形においてのみ過去を保持することです。
混乱した想念の為の治療法をあなたが受け入れるなら、そしてその治療法の効能が疑いのないものであるなら、どうしてその症状が持続することができるでしょう。
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分離したままでいるという決断を持ち続けることが、罪悪感が継続していることの唯一の理由です。
このことについては前に述べたことがありますが、この決断がもたらす破壊的な結果については強調していませんでした。
心が下すいかなる決断も、行為と経験の両方に影響を及ぼします。
あなたは自分の望むことを期待します。
これは妄想的なことではありません。
あなたの心は確かにあなたの将来を作るのであり、もし心が最初に贖罪を受け入れるなら、心は今直ぐにでも完全な創造へと向けることになるでしょう。
心はまた、贖罪を受け入れた瞬間、完全な創造へと戻るでしょう。
混乱した想念を手放したことで、想念の正しい筋道が極めて明白となります。
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