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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第30章「新たなる始まり」30-6本文
第30章30-6 赦しの正当性
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怒りは決して正当化されません。
攻撃には根拠が何もありません。
ここにおいて恐れからの脱出は始まり、いずれも完結します。
ここで、恐怖の夢と交換に 実相世界が授けられます。
というのも、このことの上に 赦しが成立するので、ごく自然なものだからです。
あなたは、攻撃が当然で、それが正当化される状況で 赦しを差し出すよう求められている訳ではありません。
なぜなら、そうすることは、実際にそこにあるものを大目に見ることによって罪を赦すという意味になってしまうからです。
これは 赦しではありません。
それが想定していることは、「あなたによる 赦しは正当化できない形で応じることになり、それにより、それは実際に為された攻撃に対する答えとなる」ということだからです。
このようにして 赦しは、それに相応しくないところに授けられることによって、不適切なものだということになります。
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赦しは常に正当です。
それには確かな根拠があります。
あなたは、赦すべきできないものを赦すのではなく、罰を必要とする真の攻撃を大目に見るのでもありません。
救済は、実在するものに対して不適切であるような、不自然な対応をするよう求められることの中にある訳ではありません。
そうではなく、もとより起こってはいないことを知覚しないことにより、実在しないものに対して適切に応答するようにと、あなたに求めるだけです。
もし 赦しが正当でないとしたら、攻撃に対して 赦しで応じる時、あなたは自分の権利を犠牲にするように求められていることになります。
しかし、あなたに求められているのは、誤りに基づいている苦悩の対しての、すなわち助けを求めている苦悩への自然な反応として、ただ 赦しを見る事だけです。
赦しだけが唯一の正気の応答です。
それは、あなたの権利が犠牲にされないよう守っています。
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このように理解することこそ、 実相世界を生起させて、恐怖の夢と入れ変わらせる唯一の変化です。
攻撃が正当化されない限り、恐れが生じることはあり得ず、また、もし恐れに実在する根拠があるとすれば、 赦しには何の根拠もないことになります。
赦しの土台は、非常に実在性があり十分に正当と認められるものだとあなたが知覚した時、 実相世界が達成されます。
あなたがそれを不当な贈り物だ見なしている間は、それはあなたが「赦そう」としている罪悪感を支持しているものとならざるを得ません。
正当でない 赦しは攻撃です。
そして、これがこの世界が与えることの全てです。
世界は時に「罪人たち」に 赦しを与えることがあるとしても、その人たちが罪を犯したことはいつまでも覚えています。
したがって、その人たちは世界が与える 赦しには値しないことになります。
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これは、罪の感覚を生かし続けるために世界が用いている偽りの 赦しです。
そして、神を義なる存在と認識すれば、神による 赦しが実在するということはあり得ないように思えます。
このようにして、 赦しを不相応なものと見る事は、確実に神に対する恐れという結果をもたらします。
自分自身を有罪と見なす者は、誰であれ神を恐れずにはいられません。
しかし、もしその人が赦すことが出来れば、このジレンマから救われます。
心は、自ら見ている通りに自らの創造主のことを思わざる得ません。
兄弟が 赦しに値するという事が理解できれば、あなたは 赦しはその人の権利であるのと同様にあなたの権利でもある事を学んだのです。
それに、あなたは、兄弟に相応しくない恐ろしい裁きを神があなたに下そうと意図していると考えることもありません。
なぜなら、あなたに相応しいことはその人にも相応しいこと以上でも以下でもないということが、真実だからです。
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当然のものとして認識された 赦しは、癒しをもたらします。
それは、幻想を看過する強さを奇跡に与えます。
このようにして、あなたは自分も赦されているに違いないということを学びます。
看過することの出来ない外観というものはあり得ません。
もしそのようなものがあったとしたら、まず最初に、 赦しの及ばないような何らかの罪が存在していなければならないことになります。
ただの間違い以上の誤りがあることになり、それは不変かつ永遠であり、訂正も脱出も不可能な特別な形をした誤りというものが存在することになります。
それは、被造物を取り消し、それに取って代わる世界を作り出し、神の意志を打ち砕く力を持った一つの間違いがあることになります。
こうしたことが可能であった場合にのみ、奇跡に逆らって存続し、奇跡によって癒されることもない外観というものがあり得ることになります。
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偶像崇拝があなたの望んでいるものだということの確かな証拠としては、「 赦しが癒せないような何らかの形の病気や侘しさといったものが存在する」という信念以上のものはありません。
これは、あなたがいくつかの偶像は持ち続けたいと思っていて、今のところ全ての偶像を手放す準備が出来てはいないという意味です。
そのようにして、あなたはいくつかの外観は実在していて、それらはただの外観などではないと考えます。
外観の中には他のものに比べて見過しにくいものがある、という固定観念が意味していることについて騙されてはなりません。
それが意味しているのは、常に、あなたが 赦しは限定されていなければならない、と考えているということです。
そして、あなたは偏った 赦しと罪悪感からの限定的な脱出というゴールを自分に設定したのです。
これが、あなた自身と、あなたから分離しているように見える全ての者に対する偽りの 赦しではくて何でしょう。
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奇跡は、あらゆる形の病気を癒せるか、さもなければ癒せないか、そのどちらかだということが、真実に違いありません。
奇跡の目的が、どの形が実在しており、どの外観が真実であるかを判断することでは無いはずです。
もし一つでも外観が癒しから離れたままでなければならないとしたら、幻想の一つか真実の一部でなければなりません。
そして、あなたは罪悪感の全てからは脱出できず、その一部からしか脱出できないということになります。
あなたは、神の子を全面的に赦さなければなりません。
さもなければ、あなたは全一ではない自分像を抱き続け、内側に目を向けてそこにある偶像の全てから脱出することを恐れ続けるでしょう。
救済は、赦すことが出来ないいくつかの形の罪悪などあり得ないという信に基づいています。
それはまた、神の子についての真理に取って代わった外観などというたものはあり得ない、と信じることでもあります。
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兄弟をありのままに見たいという気持ちで、その人を見なさい。
そして、その人の一部を、その人が癒されてほしいというあなたの気持ちから除外してはなりません。
癒すとは全一にするということです。
そして、全一なるものには、除外されて欠陥している部分はあり得ません。
赦しが土台としているのは、このことを認識することであり、さらには、奇跡が癒す力を発揮できないいくつかの病気の形態といったものがあり得ないということを、喜ぶことです。
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神の子は完全無欠です。
さもなければ、その人は神の子ではあり得ません。
それに、もしあなたが、その人は罪悪感のあらゆる形や形態から脱出するに値しないと考えるなら、あなたはその人を知ることはないでしょう。
もしあなたが自分自身についての真実を知りたければ、その人について次のように考える以外ありません。
父よ、あなたの完全無欠な子に感謝します。
そして私は、その人の栄光の中に、自分自身の栄光を見るでしょう。
ここに、神の意志に打ち勝つことは出来るようないかなる形の悪も存在しないという、喜ばしい声明があります。
すなわち、あなたの願望をもってしても、罪悪は幻想を実在のものにすることは成功しなかったということの喜ばしい確信です。
そしてこれは、真理についての簡潔な声明ではなくて何でしょう。
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自分の内にこの希望を携え、兄弟を見なさい。
そうすればあなたは、その人はその人の中にある真実を変化させられるような誤りを犯すことは出来なかった、ということを理解するでしょう。
何の結果も与えられていない誤りを犯すことは出来なかった、ということを理解するでしょう。
しかしあなたは、神の子を偶像にする力を持っていると見なすものを、赦すことはしないでしょう。
その人はあなたにとって、刻まれた像となり、死のしるしとなっているからです。
これがあなたの 救済者でしょうか。
その人の父は、我が子について間違っているでしょうか。
それとも、あなたの 救済と解放のために、あなたが癒すようにと与えられた存在について、あなたが欺かれてきたのでしょうか。
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