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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第6章 「愛のレッスン」より6-5-B本文
第6章 6-5-B《平安を得る為には、平安を学べるように平安を教えなさい》
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分離を信じる者たちはみな、仕返しされることと見捨てられることに対して根本的な恐れを持っています。
その人たちは攻撃や拒絶を信じているので、それらを知覚し、教え、学んでいます。
このような狂気の考えは、解離や投影の結果であることは明らかです。
あなたの教えていることがつまりあなた自身ですが、間違った教え方をすることは極めて明白であり、従って、自分自身に間違ったことを教えることは有り得ます。
私が攻撃しなかったことは明白であるにも関わらず、私に攻撃されているように思った者が大勢います。
正気を失った者は不思議なレッスンを学ぶものです。
気付くべきことは、あなたが何らかの思考体系を分かち合わない時にはそれを弱めているのだということです。
従って、その思考体系を信じる者たちは、こうしたことを自分たちに対しての攻撃だと知覚します。
この理由は、誰もがみな自分自身の思考体系と同一感を持つものであり、どの思考体系も、人が自分を何であると信じているかということがその中心にあるからです。
思考体系の中心となるものが真実ならば、そこからは真理のみを拡張します。
けれども、もし、嘘がその中心になっているならば、そこからは幻想だけが生まれていきます。
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全ての優れた教師たちは、根本的な段階での変化だけが永続すると悟っていますが、その段階から始める訳ではありません。
変わろうとする気持ちを強めることが、まず最も重要な目標となります。
それは、また決定的かつ最終的な目標でもあります。
学ぶ者の中で、変わることへの気持ちを増加させることが、確実に変化を起こす為に教師が行う必要のある全てです。
意欲が変わるとは、心が変わることです。
そして、これが必ず根本的な変化を生み出します。
なぜなら、心は確かに根本的なものだからです。
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逆転のプロセス、あるいは取り消しのプロセスにおける第一歩は、「獲得する」という概念を取り消すことです。
従って、 聖霊の最初のレッスンは「所有する為には、全ての人に全てを与えなさい」でした。
こうすることは一時的に葛藤を増すことになりがちであると私は述べておきましたが、ここでこれをより一層明らかに出来ます。
この時点では、「所有すること」と「在ること」との等しさはまだ知覚されていません。
そう知覚されるまでは、「所有すること」は「与えること」の反対であるように見えます。
従って、この最初のレッスンは辻褄が合わないように見えますが、それは葛藤のある心で学ばれているからです。
これは対立する動機があることを意味しています。
この為、こうしたレッスンはまだ一貫して学ばれることが出来ていません。
さらに、学ぶ者の心は自らの心の葛藤を投影するので、従って他の者の心に矛盾がないことを知覚せず、それにより、学ぶ者は他の者の動機について深い疑いを持ちます。
これが、最初のレッスンの学びが様々な点において最も難しいことの真の理由です。
あなたは未だに自分自身の 自我を強く認識し、他の者においても主として 自我に応答しているというのに、そのあなたが、どちらの 自我に対してもあなた自身が信じていることが真実ではないかのように対応しなさいと、教わっているのです。
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いつものことながら、物事が転倒した 自我は、この最初のレッスンを狂気だと知覚します。
事実、それが 自我にとっての唯一の選択肢です。
自我にとっては更にもっと受け入れ難い別の可能性は、明らかに、 自我の方が狂っているというものだからです。
ここでも 自我が下す判断は、いつものように、 自我というものの本質によってあらかじめ決まっています。
それでも思考する者の心の変化に従って、根本的変化は依然として起こるでしょう。
それまでの間、学ぶものは、次第に明確になっていく 聖霊の声に耳を傾けずにはいられなくなります。
ということは、しばらくの間は、その人は矛盾する教えを受け取り、その両方を受け入れるということです。
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二つの相入れない思考体系の間の葛藤から抜け出す方法は、明らかに、一方を選んで、他方を放棄することです。
もし、あなたが自分の思考体系と一体感を持っており、そしてそれは避けられないことではありますが、その上、もしあなたが全く一致しない二つの思考体系を受け入れているなら、心に平安を得るのは不可能となります。
あなたがその両方教えるならば、そしてその両方を受け入れる限り必ずそのように教えることになりますが、その時あなたは葛藤を教えており、またそれを学んでいることになります。
しかし、あなたは確かに平安を望んでいます。
そうでなければ、平安を代弁する声に助けを求め頼むことはしなかったでしょう。
その声が与えるレッスンは狂気ではありません。
葛藤こそが狂気なのです。
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正気と狂気の間に葛藤は有り得ません。
一方だけが真実であり、従って、一方だけが実在します。
自我は、どちらの声が真実であるか、それを決めるのはあなた次第だとあなたを説得しようとしますが、 聖霊は、真理は神によって創造されたのだから、あなたの決断がそれを変えることは出来ないと、あなたに教えます。
あなたが 聖霊の声の静かな力と、その少しの欠点もない完全なる一貫性に気付き始めるにつれて、あなたの心にも、あなたは自分の為に為された変更不可能な決められていることを取り消そうとしていることが必ず分かり始めます。
だからこそ私は以前、 聖霊にあなたに変わって神を選ぶ決断をしてもらうことを思い出すようにと、あなたに勧めたのです。
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あなたは狂気の決断をするようにと求められてはいませんが、そう考えることはできます。
しかし、神の被造物とは何なのかをあなたが自由に決められると信じることは、狂気に違いありません。
聖霊は葛藤をありのまま正確に知覚します。
従って、 聖霊の第二のレッスンは次のようになります。
平安を得る為には、平安を学べるように平安を教えなさい。
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これは依然として予備的な段階での一歩と言えます。
「所有すること」と「在ること」が未だ等しく扱われていないからです。
しかし、これは第一のステップよりは進歩したものです。
第一のステップは、実際には思考の逆転の始まりに過ぎません。
第二のステップは、あなたが望むことについての肯定的宣言です。
つまり、これは葛藤から抜け出す方向への一歩と言えます。
二つのうちどちらか一方を選択することが考慮されて、そのうちの一つが、より望ましいものとして選ばれたということを意味するからです。
それにも関わらず、「より望ましい」という言葉は未だ望ましいものに度合の差があると暗に意味しています。
従って、このステップは究極的な決断の為に欠かせないとはいえ、最終的なステップではないことは明らかです。
奇跡には難しさの順序はないということが、まだ受け入れられてはいません。
なぜなら、一つの心で望まれたことであれば難しいことは何一つないからです。
一つの心で望むことは創造することであり、神自らあなたを創造者として創造したとすれば、創造することが難しいはずがありません。
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それならば、第二のステップは未だ知覚的なものです。
とはいえ、それは神の知り方を反映する統一された知覚へ向かう大きな一歩です。
あなたがこの一歩を踏み出し、この方向に進み続ける時、あなたは自分の思考体系の中心に向かって押し進むことになり、そこで根本的な変化が起こるでしょう。
第二ステップにおける進歩は途切れ途切れですが、第二ステップは第一ステップから導き出され落ち着くところなのだから、第一ステップよりも容易です。
それが次に続くに違いないと気付くならば、それは、 聖霊が自分を導いてくれるという自覚が高まっていることを実証するものです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第6章 「愛のレッスン」目次
6-5-B 平安を得るためには、平安を学べるように平安を教えなさい