奇跡講座テキスト編6章6-1 十字架刑のメッセージ

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第6章 「愛のレッスン」より6-1本文

 

第6章 6-1 十字架刑のメッセージ

ACIM-Text- chapter6-1-1

学ぶという目的の為に、十字架刑についてもう一度考えてみましょう。

以前に、私がこの話題について長く留まらなかったのは、あなたがそこに恐ろしい意味合いを連想するかもしれないという理由からでした。

今までは、それが処罰の一形態ではないということのみを強調しました。

しかし、何事も否定文だけを用いて説明することは出来ません。

十字架刑には全く恐れを伴わない肯定的な解釈が成り立ち、したがって、正しく理解されさえすれば、それが教える内容において全く恵み深いものです。

 

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十字架刑は極端な例以上のものではありません。

その価値は、他のあらゆる教育手段の場合と同様に、それがどのような種類の学びを容易にするかという点にあります。

それは誤解されやすいことであり、実際にずっと誤解されてきました。

これは、ただ恐れている者は、恐れを抱いて知覚しがちだからです。

既に述べたように、あなたはいつでも私に呼びかけて私の決心を分かち合い、それによりその決心を強めることが出来ます。

私はまた、十字架刑とは一なる子に必要な最後の無益な旅路であったと述べ、それを理解する者は誰でも、恐れから解放されることを意味するとも述べました。

私は以前、 キリストの復活だけを強調しましたが、十字架刑の目的、および、それが実際にいかにして復活へと導いたかについては明らかにしていませんでした。

それでも、それはあなた自身が生きる為に役立つのは確かであり、もしあなたが恐れずにそれについてよく考えてみるなら、教師としてのあなた自身の役割を理解する助けとなるでしょう。

 

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おそらくあなたは長い間、まるで自分自身が十字架に掛けられているように反応してきたことでしょう。

これは、分離している者たちに著しく目立つ傾向であり、そのような人は自分で自分に何を行ったのかを考えてみることを拒否します。

投影とは怒りがあることを意味し、怒りは猛攻撃にまで走らせ、猛攻撃は恐れを抱くことを避けることは出来ません。

十字架刑の真の意味は、数人の神の子らから他の一人に対して為された攻撃の見かけ上の激しさにあります。

もちろん、そのようなことは実際には不可能であり、不可能なこととして十分に理解される必要があります。

そうではければ、私は学習の模範として役に立てません。

 

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究極的には、攻撃を加えることが出来るのは 身体に対してのみです。

一つの 身体が別の 身体に攻撃を加えることや、それを破壊することさえ出来るということは、ほとんど疑いの余地はありません。

しかし、もし破壊すること自体が不可能だとするならば、破壊出来るものは何であれ、実在するものでは有り得ないということになります。

したがって、 身体が破壊されても、怒りは正当化出来るものではありません。

それが正当化出来るとあなたが信じる度合いに応じて、あなたは偽りの前提を受け入れているのであり、それを他の者に対して教えていることになります。

十字架刑が教えるはずだったことは、そもそもあなたが迫害されることなど有り得ないので、迫害の中にどのような形の攻撃も知覚する必要はないということでした。

あなたが怒りを持って応答するなら、あなたは自分を破壊され得るものと同一視しているに違いありません。

したがって、狂気の見方で自分自身を見ていることになります。

 

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私はあなたと同じであり、あなたも私と同じであるということを、私は明確にしました。

しかし、私たちが根本的に平等であるということは、一緒に決断することによってのみ実証されます。

もし、あなたがそれを望むなら、自分は迫害されていると知覚する自由があります。

しかし、あなたがその様に反応しようと選択する時、私はこの世界が裁く通りに迫害されましたが、私自身は自分の為にそのような評価を共有しなかったということを思い出すとよいでしょう。

そして、私はそれを共有しなかったので、それを強化しませんでした。

したがって、私は攻撃について異なった解釈を提案したのであり、この解釈をあなたと分かち合いたいと思っています。

もし、あなたがこの解釈を信じるなら、あなたは私がそれを教えるのを手助けすることになります。

 

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以前私が述べたように、「あなたは自分の教える通りに学ぶ」のです。

もし、あなたがまるで自分が迫害されたかのように反応するなら、あなたは迫害を教えていることになります。

このようなレッスンは、もし自らの救いを実現しようとするのなら、神の子が教えたいと思うべきレッスンではありません。

むしろ、あなた自身の完全に守られているという、あなたの中にある真理を教えなさい。

そして、それは襲われることなどあり得ないと悟りなさい。

自分でそれを守ろうとしてはなりません。

そのようなことをするなら、それが襲われることが可能であると信じていることになります。

あなたは、十字架につけられることなど求められていません。

それは、私自身が教える為に役立てたことです。

あなたは、ただ、誤って知覚してしまいたくなる誘惑がはるかに少ない情況で、私の手本に従うことと、そのような誘惑を怒りの誤った正当化として受け入れないことが求められているだけです。

正当化出来ないものが正当化される理由などありません。

それがあると信じてはなりません。

そして、それがあると教えてはなりません。

あなたは自分が信じていることを教えるということを、常に覚えておきなさい。

私と共に信じて欲しいのです。

そうすれば、私たちは教師として対等になるでしょう。

 

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あなたの復活とは、あなたが再び目覚めることです。

私は再生の為の模範ですが、再生そのものは、単に、あなたの心が自分の中に既にあるものに気付くことに過ぎません。

それを、神自らがそこに置きました。

それ故に、あなたの心の中にあるものは永遠に真実です。

私はそれを信じました。

したがって、それを私にとっての真実として受け入れました。

神の王国の名において、兄弟たちに私がそれを教えるのを手助けして欲しいのです。

しかし、先ず、あなたにとってそれが真実であると信じなさい。

そうでなければ、あなたは間違って教えることになります。

いわゆる「ゲッセマネの園での苦悶」について、兄弟たちはその間ずっと眠っていましたが、私は自分が見捨てられることなど有り得ないと知っていたので、彼らに腹を立てることは出来ませんでした。

 

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私の兄弟たちが、一つの声だけを聞くという私の決断を分かち合わない時、私は残念に思います。

それがその人らを教師としてもまた学ぶ者としても弱くさせるからです。

けれども、兄弟たちが真に自分自身や私を裏切ることは出来ず、私は依然としてその兄弟たちの上に私の教会を建てなければならないと知っています。

これに関して選択の余地はありません。

なぜなら、あなただけが神の教会の土台となることが出来るからです。

教会とは祭壇がある場所であり、その祭壇の存在こそが教会を神聖なものにします。

愛を呼び起こさせないような教会には、神が意図された目的の為に役立っていない隠れた祭壇があります。

私はあなたの上に神の教会を築かなければなりません。

なぜなら、私を模範として受け入れる者たちは文字通り私の弟子たちだからです。

弟子たちとは従う者たちのことであり、もし弟子たちが模範とする者が、ありとあらゆる意味において弟子たちから苦痛を取り去ることを選んだのに、その人に従わないとすれば、賢明とは言えません。

 

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私は、あなた方と私自身の為になるようにと、 自我の判断によれば最も悪虐無道な攻撃でさえ、問題にならないと実証することを選択しました。

この世界がこうした事柄を判断するところによれば、そして神がそれらを知るところとは違う見方によれば、私は裏切られ、見捨てられ、鞭で打たれて身を裂かれ、ついには殺されたということになります。

これは、ただ他の者たちが私に投影したことによるのは明らかでした。

私は誰一人傷つけたことはなく、多くの者を癒したからです。

 

ACIM-Text- chapter6-1-10

私たちは同じ経験をする必要はありませんがそれでも学ぶ者として同等です。

あなたが私の経験から学ぶことが出来、それによって再び目覚めることが出来る時、 聖霊は喜びます。

それが、私の経験の唯一の目的であり、私が「道であり、真理であり、生命である」と知覚され得る唯一の方法です。

あなたが一つの声にのみ耳を傾ける時、あなたは決して犠牲を払うように要求されることはありません。

それどころか、他の者たちの中の 聖霊から聞くことが出来るようになり、あなたはその人たちの経験から学ぶことが出来、その人たちの経験をあなた自身が直に経験することはなくても、それらから役立てることが出来ます。

なぜなら、 聖霊は一つであり、耳を傾けようとする者は誰でも、必然的に 聖霊の道を全ての者に実証するように導かれるからです。

 

ACIM-Text- chapter6-1-11

あなたは迫害されてはいません。

また、私も迫害されませんでした。

あなたは私の経験を繰り返すように求められているのではありません。

なぜなら、私たちが共有している 聖霊が、それを不要にするからです。

しかし、私の経験を前向きに用いる為には、それをどのように知覚するかにおいて、あなたは依然として私の例に倣う必要があります。

私の兄弟であり、あなたの兄弟でもある者たちは、正当化できないものを正当化することに絶えず躍起になっています。

私が学んだが故に教えなければならない一つのことは、 聖霊の判断に不相応な知覚はどれも正当化出来ないというものです。

私は、これが真実であるということを極端な事例で示すことを引き受けましたが、その理由は単に、怒りや攻撃に屈服してしまいたくなる誘惑がそれほど極端ではない状況にいる者たちにとって、それがよい教えの手助けとして役立つからでした。

私は、神の子の誰一人苦しむべきではないということを神と共に意志しています。

 

ACIM-Text- chapter6-1-12

十字架刑は投影の象徴であるから、それを分かち合うことは出来ません。

しかし、一なる子が自らの全一性を知ることを可能にする為には、神の子一人ひとりが再び目覚めることが必要であるから、復活は分かち合いを象徴します。

これのみこそが叡智です。

 

ACIM-Text- chapter6-1-13

十字架刑が教えることは、次の通り、完全に明瞭です。

 

愛だけを教えなさい。

なぜなら、あなたは愛そのものだからです。

 

ACIM-Text- chapter6-1-14

もし、あなたが十字架刑についてこれ以外の解釈をするなら、あなたはそれを、その本来の意図した平安への呼びかけとしてではなく、攻撃を働く為の武器として使っています。

使徒たちは幾度も繰り返しそれを誤解しましたが、その理由は、他の誰もが誤解する理由と同じです。

使徒たち自身の愛が完全なものではなかったので、投影し易くなっていました。

また、自分たちが恐れていたからこそ、神からの報復の手段として「神の怒り」に触れると語りました。

また、十字架刑についても全く怒りを感じずに語ることは出来ませんでした。

なぜなら、自らの罪悪の感覚が自らを怒らせたからです。

 

ACIM-Text- chapter6-1-15

これらは新約聖書の上下が転倒した考え方のいくつかの実例です。

しかし、本当はその福音は愛の教え以外の何ものでもありません。

もし、使徒たちが罪悪感に苛まれていなかったなら、「私は平和をもたらす為に来たのではなく、剣をもたらす為に来たのです」と私が語ったと、決して引用することはなかったはずだからです。

これは、私が教えた全てのことと正反対であるのは明らかです。

また、使徒たちが私を本当に理解していたなら、ユダに対する私の反応を、聖書にあるように描写しなかったでしょう。

私が裏切りを信じていなければ、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」と私が言ったはずがありません。

私はそのような裏切りを信じていなかったということが、十字架刑が伝えている教えの全てです。

私がユダの上に呼び起こさせたと言われている「罪の報い」も、同じ間違いでした。

ユダは私の兄弟であり、私と同様に一なる子の一部である神の子でした。

罪の宣告は不可能だと実証しようとしていたその私が、ユダに罪の宣告をするということが、有り得るでしょうか。

 

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あなたが使徒たちの教えを読む時には、当時はまだ使徒たちは私に従う覚悟が完全に出来ていなかった為に、後になって理解出来るようになることがたくさんあると、私自身が使徒たちに語ったことを思い出しなさい。

私はあなたを一つの思考体系に導こうとしていますが、あなたはその思考体系の中にどのような恐れも入り込ませずにいてほしいのです。

私は殉教者を求めているのではなく、教師を求めています。

誰一人、罪の罰を受けることはなく、神の子たちは罪人ではありません。

どのような処罰の概念にも必然的に責任を問う為の投影を含み、それにより責任を問うことは正当化できるという想念が強化されます。

その結果引き起こされるのは責任を問うことについての教えです。

なぜなら、全ての行いは、その動機となっている信念を教えるからです。

十字架刑は、明らかに互いに対立した思考体系の結果でした。

それは、 自我と神の子との間にある「葛藤」のように見えるものの完璧な象徴です。

こうした葛藤は、今も同じく真実であるかのように思えますが、それが教えることは、その時と同じように今も、学ばなければなりません。

 

ACIM-Text- chapter6-1-17

私に感謝する必要はありませんが、あなたは感謝する能力が衰えているので、それを育む必要があります。

そうでなければ、あなたは神に感謝することが出来ないでしょう。

神は、あなたからの感謝を必要としてはいませんが、あなた自身がそれを必要としています。

あなたは、有り難く思わない対象を愛することは出来ません。

恐れが感謝を不可能にするからです。

あなたが自分の真の姿を恐れているなら、それを有り難く思うことはなく、したがってそれを拒絶するでしょう。

その結果、あなたは拒絶を教えることになります。

 

ACIM-Text- chapter6-1-18

神の子たちの力は常に今ここにあります。

なぜなら、神の子たちは創造する者として創造されたからです。

互いに与える影響力は限りないものであり、それは共有する救いの為に使われなければなりません。

各人が、あらゆる形の拒絶が全て無意味だと教えるようにならなければなりません。

分離とは、拒絶の意向です。

あなたはそれを教える限り、それを自ら信じるでしょう。

これは神の考え方とは異なります。

もし、あなたが再び神を知るようになりたいなら、あなたも神のように考えなければなりません。

 

ACIM-Text- chapter6-1-19

聖霊とは、父なる神と分離した神の子たちとの間のコミュニケーションの絆であることを思い出しなさい。

もし、あなたが 聖霊の声に耳を傾けるなら、あなたには、自分が傷つけたり傷つけられたりすることもあり得ないと分かり、また、こうしたことを多くの者たちも自分で聞くことが出来るようになる為の助けとして、あなたからの祝福を必要としていることが分かるでしょう。

あなたが神の子たちの中にこの必要だけを知覚し、それ以外のことには応じない時、あなたは私から学んだことになり、私と同様に熱意を持って自分の学んだことを分かち合おうとするでしょう。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第6章 「愛のレッスン」目次

6-0  序論

6-1  十字架刑のメッセージ

6-2  投影に代わる選択肢

6-3  攻撃の放棄

6-4  唯一の答え

6-5   聖霊のレッスン

6-5-A  所有する為には、全ての人に全てを与えなさい

6-5-B  平安を得るためには、平安を学べるように平安を教えなさい

6-5-C  神と神の国を守る為だけに警戒していなさい 

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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