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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第21章 「理性と知覚」21-3
第21章 21-3 信と信念と心眼
ACIM-Text- chapter21-3-1
全ての特別な関係は、罪がそのゴールとなっています。
なぜなら、そうした関係は実相との取引であり、実相に向けて見せかけ上の結び付きが調整されるからです。
取引するというのは、限界を定めるということであり、制限を付けた形で自分の関わる兄弟の全てを、あなたは憎んでいます。
あなたは、時に支払いを自分自身に要求し、多分それよりも頻繁に他人に支払いを要求して、「公平さ」という名のもとに取引を保とうとするかもしれません。
こうして、「公平さ」を理由に、あなたはその関係に受け入れられている目的がもたらす罪悪感を緩和しようと企てます。
それ故に、聖霊はその関係の目的を、聖霊にとっては有益で、あなたにとっては無害なものへと変えなければなりません。
ACIM-Text- chapter21-3-2
もし、あなたがこの変化を受け入れるなら、あなたは真理のために場所を開けるという考えを受け入れたということです。
罪の源というものは消え去りました。
あなたは未だに自分がその結果を体験しているように想像するかもしれませんが、それはあなたの目的ではないので、もはやあなたはそれを望んでいません。
誰も、ある目的を望んでいるうちは、それを別のものに取り替えさせたりはしません。
なぜなら、心が受け入れているゴールほど大事にされ護られるものはないからです。
不本意にであっても、幸せにであっても、心は常に信と、信が必ずもたらす粘り強さで、それに従います。
信の力は、信が罪に置かれている場合には、決して認識されまません。
しかし、信が愛に置かれている場合は、信の力は常に認識されます。
ACIM-Text- chapter21-3-3
信じることが山をも動かせるということが、どうしてあなたにとっては不思議なことなのでしょうか。
これほどの力には、それくらいのことはほんのささやかな芸当に過ぎません。
なぜなら、信とは、神の子が自分は鎖で縛られていると信じている限り、ずっと神の子を鎖につなぎとめる事が出来るほどのものだからです。
そして、神の子が鎖から解き放たれるとしたら、その理由は単に、その人がもう鎖を信じないからであり、鎖が自分を捕縛できるという信を徹回し、代わりに自分の自由に信を置いたからです。
相対立した二つの方向に、同等の信を向けることは不可能です。
罪に信を抱くとすれば、あなたは聖性からその信を取り上げます。
そして、あなたが聖性へと差し出すものは、罪から取り去られます。
ACIM-Text- chapter21-3-4
信と信念と心眼は、聖性というゴールが成し遂げられるための手段です。
これらを通して、聖霊はあなたを実相世界へと導き、あなたの信が置かれていた幻想から遠ざけます。
これが聖霊の指し示す方向であり、聖霊が見る唯一の方向です。
そして、あなたが横道に逸れる時にはと、聖霊は進むべき方向一つしか無いことを思い起こさせます。
聖霊の信と信念と心眼は、全てあなたのためのものです。
あなたが、自分のものに代わってそれらを全面的に受け入れた時には、もはやあなたにとってそれらの必要はなくなっています。
なぜなら、信と心眼と信念というものは、ただ確かさの状態に達するまでにのみ意味があるものだからです。
天国では、それらのものは知られざるものです。
とはいえ、天国はそれらによって到達されるのです。
ACIM-Text- chapter21-3-5
神の子が信に欠けるという事は有り得ませんが、その人が信をどこに置くかを選択することは出来ます。
不信とは、信の欠如ではなく、何も実在していないものに対して信が置かれているということです。
幻想に向けられた信に力がない訳ではありません。
なぜなら、神の子はそれによって自分が無力だと信じることになるからです。
こうして、その人は自分自身には信を抱いていませんが、自分自身についての幻想には、強い信を抱いています。
というのも、信と知覚と信念というものは、確かさを失って罪を見つけるための手段として、あなたが作り出したものだからです。
この狂った方向性があなたの選択だったのです。
そして、自分が選択したものに対しての信頼によって、あなたは自分が望んだものを作り出したのです。
ACIM-Text- chapter21-3-6
聖霊は、あなたが罪を求めてそれを見出すために使ってきた全ての手段に対して、その使い道をもっています。
ただし、聖霊がそれらの手段を使う時、それらは罪から遠ざかる方向へと導いていきます。
なぜなら、聖霊の目的は真逆の方向にあるからです。
あなたが使う手段は、聖霊には見えますが、あなたがそれを作り出した目的は見えません。
聖霊は、それらをあなたから取り上げようとはしません。
聖霊は、あなたのために意図するものをもたらす手段としてそれらの持つ価値が見えているからです。
あなたは、兄弟たちの中から誰かを選び出し、その人たちと共に罪を追求するための手段として知覚を作り出しました。
聖霊の見る視点からは、知覚とは心眼に映る神聖な関係だけがあなたが見たいものの全てであると、あなたに教えるための手段と見なしています。
そうなると、あなたは自分の欲求に基づいて聖性を欲し、聖性を信頼し、聖霊に自分の信を捧げることになります。
ACIM-Text- chapter21-3-7
かつて罪に仕えていた全ての手段が、聖性に向けられるなら、信と信念は心眼に付随するものになります。
あなたが罪だと思っているものは制限であり、あなたは自分が身体であるという制限を下そうとします。
なぜなら、罪のための手段があなたにとって大切なものだからです。
そのように身体はあなたからの信と信念の対象となっています。
しかし、聖性は、恐れを兆候としてではなく、兆候の源において取り除くことで憎悪を取り除き、兄弟を自由にします。
ACIM-Text- chapter21-3-8
兄弟たちを身体から自由にしようとする者たちに、恐れはありえません。
その人たちは、全ての制限が取り除かれる事を選択することによって、罪のための手段を放棄しています。
聖性の中で兄弟たちを見たいと望む時、その人たちの信念は信の力で、心眼を遮るものではなく支えるものとして、身体を遥かに越えたところを見るものとなります。
しかし、その人たちは先ず最初に、自分の信が世界についての自分の理解をどれだけ限定していたかを認識することを選択し、もし別の見方が与えられたなら、信の力をその見方へと移したいと望んだのです。
この決断に続いて生じる奇跡もまた、信によって生じます。
なぜなら、罪から視線を離すという選択をする全ての者は、心眼を与えられ、聖性へと導かれるからです。
ACIM-Text- chapter21-3-9
罪を信じる者は、聖霊が犠牲を求めると考えずにはいられません。
なぜなら、その人たちは、そうすることが自分の目的が達成される方法だと思っているからです。
兄弟よ、聖霊は犠牲が何ももたらさないことを知っています。
聖霊は何一つ取引をしません。
そして、もしあなたが聖霊を限定しようとすれば、あなたは恐れるがゆえに聖霊を憎むでしょう。
聖霊があなたに与えた贈り物は、天国の外で存在するいかなるものにも優るものです。
それを認識する瞬間はもうすぐです。
既につながっているものに、あなたの自覚をつなげなさい。
あなたが兄弟に与える信が、これを成し遂げることが出来ます。
世界を愛する存在が、あなたのために、一点の罪もない世界を見ており、それを包んでいる無垢性が、その光景を天国と同じくらい美しいものにしています。
ACIM-Text- chapter21-3-10
あなたが犠牲に信を置いているので、犠牲はあなたの目には大きな力を持つものに映っています。
ただし、あなたはかえってそのために自分が見ることが出来なくなっていることに気づいていません。
犠牲とは、ある身体に対して別の身体から強要されるものです。
心そのものは、犠牲を要求することも受け取るとこも出来ません。
そして、同じことが身体にも言えます。
その意図は心の中にあるのであって、心はそれ自体が信じている罪のための手段を実行するために身体を使おうとします。
したがって、心と身体がつながっているということが、罪に価値を置く者たちにとって、抱かずにいられない信念です。
そして、その上、犠牲はいつも決まって制限のための手段であり、ひいては憎悪を促すものです。
ACIM-Text- chapter22-3-11
あなたは、こうしたことに聖霊が関心を持つと思うのでしょうか。
あなたをそこから導き出すことを目的としている聖霊が、それをあなたに与えるようなことはしません。
あなたは、聖霊があなたに良かれと思ってあなたから奪おうとすると思っています。
しかし、「善き事」と「奪われる事」とは正反対であって、両者を意味ある形で結びつけることは出来ません。
それはまるで、月と太陽は夜と昼に現れるので、一体であり、両者がつながっているはずだと言うようなものです。
しかし、一つが見えるということは、もう一つの方が視界から消えたというしるしです。
それに、光を放つものが、闇の中でしか見えないものと一つになるということも不可能です。
どちらも他方に犠牲を要求することはしません。
しかし、いずれも他方の不在の上に成立しています。
ACIM-Text- chapter22-3-12
身体は、罪への生け贄として作り出されたのであり、闇の中では今もそのように見えています。
ところが、心眼の光の中では、それとはかなり違う見方で見られます。
あなたは、聖霊のゴールに仕えるために身体に信を置き、目の見えない者たちが見えるようになるのを助けるための手段となる力を、身体に与える事が出来ます。
しかし、見えるようになった者たちが見る時、その人たちはあなたと同じように身体を看過します。
あなたが身体に与えた信と信念は、身体を越えたところに属しています。
あなたは知覚と信念と信を、心から身体へと与えたのです。
今、それらが、それらを生み出したものへと戻されるようにしましょう。
それらを生み出したものは、今でも自ら作り出したものから自分を救うために、それらを使うことが出来ます。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章「理性と知覚」目次