Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章21-7
- 第21章 21-7 答えられていない最後の質問
- ACIM-Text- chapter21-7-1
- ACIM-Text- chapter21-7-2
- ACIM-Text- chapter21-7-3
- ACIM-Text- chapter21-7-4
- ACIM-Text- chapter21-7-5
- ACIM-Text- chapter21-7-6
- ACIM-Text- chapter21-7-7
- ACIM-Text- chapter21-7-8
- ACIM-Text- chapter21-7-9
- ACIM-Text- chapter21-7-10
- ACIM-Text- chapter21-7-11
- ACIM-Text- chapter21-7-12
- ACIM-Text- chapter21-7-13
- 第21章 21-7 答えられていない最後の質問
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章「理性と知覚」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章21-7
第21章 21-7 答えられていない最後の質問
ACIM-Text- chapter21-7-1
あなたの幸せではないことの全ては、自分は無力だという奇妙な信念から生じているとは、あなたには分からないでしょうか。
力が無いということが罪の代価です。
無力さは罪の条件であり、罪が信じられるものとなるために要求する唯一の条件です。
無力な者たちだけが、罪を信じることが出来ます。
巨大さに惹かれるのは、卑小な者たちだけです。
そして、最初に自分が卑小だと信ずる者たちだけが、そこに魅力を見る事が出来ます。
神の子に対する裏切りとは、その神の子と一体感を持っていない者たちによる防衛です。
そして、あなたは、その神の子の味方にするか敵対するか、そのどちらかです。
すなわち、その人を愛するか攻撃するか、また、その人の一体性を保護するか、それともあなたの攻撃によって打ち砕かれ虐殺されたその人を見るか、そのどちらかです。
ACIM-Text- chapter21-7-2
誰も神の子が無力であるとは信じません。
それ故に、自分を無力と見ている者たちは、自分は神の子ではないと信じているに違いありません。
その人たちは神の子の敵以外の何でも有り得るでしょう。
そして、神の子の力を妬み、その嫉妬によってその人の力を恐れる者になる以外、その人たちに何が出来るでしょう。
その人たちは闇の者たちであり、沈黙の中で恐れ、孤独でコミュニケーションを行わず、神の子の力が自分たちを打ち殺すだろうと恐れて、自分たちの無力さを掲げて神の子に対立します。
その人たちは無力な者たちの軍勢に加わり、神の子を自分たちとひとつにするために、神の子に対して復讐心と敵意と悪意の戦いをしかけます。
その人たちは、自分たちが既に神の子とひとつであるとは分からず、それ故に自分たちが誰を憎んでいるのかも分りません。
その人たちは、まさに哀れな軍勢であり、各々が自分たちには共通の動機があると思っていたはずだと思い出すのと同じくらい、自分の兄弟を攻撃したり、自分自身を攻撃したりもします。
ACIM-Text- chapter21-7-3
闇の者たちは、逆上し、大声で叫び、さも強そうに見えます。
ところが、その人たちは「敵」については、自分たちがその人を憎んでいるという事以外は何も知りません。
その人たちは、憎悪の中で集結しましたが、互いに結び付き合ってはいません。
もし、結び付いていたなら、憎悪は不可能となっていたでしょう。
無力な者たちの軍勢は、強さを前にしたら解散せざるを得なくなります。
強い者は、決して裏切りません。
なぜなら、その人たちは力を夢みる必要も、その夢を実演する必要もないからです。
夢の中では、軍勢はどんな行動するでしょうか。
どのような行動でも取ります。
誰かれ構わず、手段を選ばず、攻撃しているように見えます。
夢の中には理性などありません。
一輪の花が毒矢に変わったり、子供が巨人になったり、ネズミがライオンのように吼えたりします。
その上、愛も同じぐらい容易くすぐさま憎悪に変貌します。
これでは軍勢どころではなく、狂人の集まりです。
計画的攻撃のように見えるものは、狂乱に過ぎません。
ACIM-Text- chapter21-7-4
無力な者たちの軍勢は実に弱いものです。
何の武器も持っておらず、敵もいません。
その軍勢は、確かに世界を荒らし回り、敵を探し求める事は出来ます。
しかし、そこに存在しないものを見つける事は絶対に出来ません。
確かに、敵が見つかったという夢に見ることは出来ます。
とはいえ、攻撃している最中にもこの敵は変化するので、その軍勢はすぐに他の敵を見つけようと走り回ることになり、決して勝利に安らぐことはありません。
それに、走り回っている間に、自分の必殺の攻撃を姿を変えてかわし続ける大敵を見かけたと思い、自分自身を攻撃しにかかります。
同じ敵だと認識できない程に変わり続けるこの敵は、何と手ごわいものに映ることでしょう。
ACIM-Text- chapter21-7-5
しかし、憎悪は標的を持たなくてはなりません。
敵がいなければ、罪に対する信も有り得ません。
罪を信じる者が、自分には敵はいないと信じられるでしょうか。
その人には、自分を無力にした他者などいないと認めることが出来るでしょうか。
理性は必ず、そこに見つけることが出来ないものを、いつまでも探さないようにと命じます。
しかし、その人はまず最初に罪が存在していない世界を知覚したいという気持ちを持たなくてはなりません。
どうやってそれが自分に見えるのかを理解する必要はありません。
また、その人は理解しようとするべきでもありません。
なぜなら、もし自分に理解できないものに焦点を当てるなら、その人は自らの無力さを重視するだけであり、自分の敵は自分自身の中にあると罪から告げられるのを容認する事になるだけだからです。
そうではなく、それがその人のために為されるように、その人が自分で決断するべき次の質問を自分に尋ねさせなさい。
自分を支配する世界の代わりに、自分が支配する世界を、私は望むだろうか。
自分が無力ではなく、力を持つ世界を、私は望むだろうか。
敵が存在せず、私が罪を犯すことなど出来ない世界を、私は望むだろうか。
そして、真理であるが故に自分が否定してきたものを、私は見たいだろうか。
ACIM-Text- chapter21-7-6
あなたは、既に最初の三つの質問には答えているかもしれませんが、最後の質問にはまだ答えていません。
というのも、これは依然として恐ろしく、他の問いとは違ったものに見えるからです。
しかし、理性は、これらは全て同じだと保障します。
今年は同じものの同一性を強調すると、私たちは語ってきました。
あなたの決断の必要のある本当の最後の質問は、他の質問があなたに対してすでに失った脅威を、依然として持ち続けているように見えます。
ということは、この仮想上の違いが証明しているのは、真理はまだ自分がこれから見出すことになる敵かもしれないという、あなたの信念です。
かくして、ここに罪を見出して力を受け入れないですみそうな最後の希望が残っているように見えます。
ACIM-Text- chapter21-7-7
罪か真理か、無力さか力かの選択は、すなわち攻撃するか癒すか、そのどちらかの選択だということを、忘れてはなりません。
なぜなら、癒しは力から生じ、攻撃は無力さから生じるからです。
自分が攻撃する相手を、癒したいと望むことは有り得ません。
また、あなたは癒されて欲しいと望む相手なら、攻撃から守られるべき者として選択しているはずです。
そして、この決断は、その人を 身体の眼を通して見ることにするのか、それとも心眼を通してその人があなたの前に顕現されるに任せるのか、という選択に他なりません。
どのようにしてこの決断がその結果へと行き着くのか、それはあなたの問題ではありません。
しかし、あなたが何を見たいと思うのかは、あなたの選択です。
これは原因についてのコースであり、結果についてのコースではありません。
ACIM-Text- chapter21-7-8
あなたが、未だに答えていないままにしている最後の質問に対する自分の答えについて、慎重に考えてみなさい。
そして、それは答えなければならず、他の三つの質問の中で答えられていると、あなたの理性に教えてもらいなさい。
そうすれば、どのような形の罪の結果を見ても、ただ次のように自分自身に聞いてみるだけだということが、明らかになるでしょう。
これは私が見たいものだろうか。これを私は望むだろうか。
ACIM-Text- chapter21-7-9
これがあなたにとっての唯一の決断であり、これが、何が起こるかを決める条件です。
これは、どのようにしてそれが起こるかには関係はありませんが、なぜ起こるかということには関係があります。
あなたはこれを抑制できる力を持っています。
そして、もし、自分が無力でない世界を見ることを選べば、あなたにそれを見るための手段は与えられるでしょう。
ACIM-Text- chapter21-7-10
なぜ、最後の質問がそれほど重要なのでしょうか。
理性がその理由をあなたに教えるでしょう。
それは、他の三つの質問と同じですが、時間という観点からは同じではありません。
他の質問は、決定したり撤回したり、再び決定したり出来る決断です。
ところが、真理は不変であり、揺れ動くことが不可能な状態を意味します。
あなたは、自分が支配されるのではなく支配する世界を切に望み、それからまたその決心を変えることも出来ます。
あなたの無力さを力と交換したいと切に望んでから、それからまた罪の煌きに魅了されて、その欲求を失うことも可能です。
そして、あなたは罪のない世界を見ることを望み、その後また「敵」があなたに 身体の眼を使うようそそのかすにまかせて、自分が望むものを変えることが可能です。
ACIM-Text- chapter21-7-11
これらの質問は、内容については全て同じです。
どの質問も、罪の世界を 聖霊が見ている世界へと喜んで交換する気があるかどうかを、あなたに対して尋ねています。
それというのも、罪の世界が否定するのは、まさに 聖霊が見ているこの世界だからです。
したがって、罪を見ている者たちは、 実相世界の否定を見ています。
しかし、最後の質問は、 実相世界を見たいというあなたの願望に、不変的への願望を加えるので、それがあなたの持つ唯一の欲求となります。
最後の質問に「はい」と答えることによって、あなたは他の質問について既に下した決断を真摯なものにします。
なぜなら、その時初めて、あなたはまた決心を変えるという選択肢を放棄したことになるからです。
その選択肢があなたの望まないものになったら、他の質問は完全に答えられています。
ACIM-Text- chapter21-7-12
なぜあなたは、他の質問が答えられているかどうか確信できないと思っているのでしょうか。
もし、それらが答えられていたとしたなら、このように何度も問い返される必要があるでしょうか。
最後の決断がなされるまでは、その答えは「はい」でもあり「いいえ」でもあります。
なぜなら、あなたは「はい」とは「いいえではない」という意味でなくてはならないということを知覚せず、「はい」と答えていたからです。
誰も自分の幸せに逆らう決断はしませんが、もし自分でそうしているとは分からなければ、そう決断することもあるかもしれません。
そして、もしその人が、自分の幸せは移り変わり続けるものであり、今はこれ、次はあれ、その次は実体のないものの儚い影へと転じると見なしているなら、間違いなくその人は自分の幸せに逆らう決断をします。
ACIM-Text- chapter21-7-13
つかみ所のない幸せや、あるいは時と場合によって形が移り変わるような幸せというものは、何の意味もない幻想です。
幸せは不変的なもののはずです。
なぜなら、それは不変的でないものへの願望を放棄することで達成されるからです。
喜びは不変的な心眼によってしか、知覚できません。
そして、不変的な心眼は、不変性を望む者たちにのみ与えられます。
神の子の欲求が持つ力は、自分自身を無力だと見なす者は間違っているということの証拠であり続けます。
自分が望むものを切望すれば、あなたはそれを見て、それが実在すると考えるでしょう。
どのような想念にせよ、開放する力か殺す力のどちらかを持っています。
そして、どのような想念も、思考する者から離れることも、その人に影響を及ぼさずにいることも有り得ません。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章「理性と知覚」目次