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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章21-8本文
第21章 21-8 内なる変化
ACIM-Text- chapter21-8-1
では、想念というものは危険なものなのでしょうか。
身体にとっては、まさしくその通りです。
殺そうとしかねないように見える想念とは、それを思考する人自身に、自分は殺される可能性もあると教える想念です。
それ故に、その人は自分が学んだことのために「死ぬ」ことになります。
その人は、不変性よりも変化するものに価値を置いたことの最終的な証明として、生から死へと進みます。
もちろん、その人は自分では幸せを望んでいるものと思っていました。
ところが、その人はそれが真理であり、したがって不変的なものであるという理由でそれを望んだわけではありませんでした。
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喜びの絶え間なさとは、あなたの理解にとっては極めて異質な状態です。
それでも、もしそれがどのようなものかをあなたが想像することさえ出来たなら、たとえそれをあなたが理解できなくても、それを切望することでしょう。
幸せの不変性にはどのような例外もありません。
いかなる種類の変化も全くありません。
それは、神の被造物に対する神の愛と同じように、揺ぎ無いものです。
幸せの創造主が、自らの分っているものに確信があるのと同様に、幸福は自らの心眼に確信があるため、あらゆるものを眺めて全ての同じものだと見ます。
それは、儚いものを見ません。
全てがそれ自体と同じであることを切に願うので、全てをそのように見るからです。
それ自身が持つ切なる願いが決して揺るがないので、いかなるものにもその不変性を覆す力はありません。
裁くことではなくて癒すことを選択する者には、必ず平安が訪れるのと同じように、最後の質問が他の問いにとって必要だと理解する者には、幸福は必ず訪れるのです。
ACIM-Text- chapter21-8-3
理性は、不変的でなく幸せを求めることは出来ないとあなたに教えるでしょう。
それというのも、あなたが自ら望むものを受け取るとすれば、そして幸せは不変的なものであるとするなら、いつも幸福を保ったままであるためには、あなたは一度求めるだけでいいからです。
そして、もし、あなたが常に持っているのではないならば、その本質から言って、あなたはそれを求めなかったということになります。
なぜなら、誰でも、自分の欲求を叶えてくれる力がありそうだと信じられる何かに対して、それを必ず求めるものだからです。
何をどこで、何に対して求めるかについて、その人は間違うこともあるかもしれません。
しかし、欲求とは要請であるため、その人は求めています。
そして、それは、神自身が必ず応える者により求められる欲求です。
神は、既にその人が真に望むものは全て与えています。
しかし、当人が不確かなものを、神が与えることは出来ません。
なぜなら、確信が無いうちは、その人はそれを切望しているわけでなく、それが受け取られない限り、神によって与えられることは不完全とならざるを得ないからです。
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あなたは、神の意志を完成させる者であり、神の幸せそのものであり、あなたの意志は神の意志と同じように強力であり、その力はあなたの幻想の中でも失われていません。
そういうあなたが、最後の質問にどう答えるかをなぜまだ決めていないか、よく考えてみなさい。
他の質問に対する答えに助けられ、既にあなたは部分的に正気を取り戻すことが出来ました。
とはいえ、あなたに完全に正気になろうという意欲が真にあるのかどうかを尋ねているのは、最後の質問です。
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聖なる瞬間とは、神があなたに与えたものを認識するようにという、あなたに対する神の訴え以外の何でしょうか。
これこそ、理性への大いなる訴えがあります。
それは、常にそこに存在していて見ることが出来るものについての自覚であり、常にあなたのものになり得る幸せです。
ここに、あなたが永遠に味わうことの出来る不変的な平安があります。
否認によって否定されてきたものが、ここであなたの前に顕現されます。
なぜなら、ここでは最後の質問は既に答えらており、あなたの求めるものは既に与えられているからです。
ここでは、未来とは今です。
なぜなら、決して変わることのないものに対するあなたの切望のために、時間は無力だからです。
あなたの関係の神聖さと、その聖性についてのあなたの自覚との間に、何も立ちはだかることのないようにと、あなたが求めたからです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章「理性と知覚」目次