奇跡講座テキスト編21章 21-6 理性 対 狂気

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章21-6

 

第21章 21-6 理性 対 狂気

ACIM-Text- chapter21-6-1

理性は罪を見ることは出来ませんが、誤りを見ることは出来るので、訂正へと導きます。

理性は、誤りそのものではなく、誤りの訂正に価値を置きます。

その上、理性は、あなたが自分は罪を犯していると考えている時には、助けを求めていると教えます。

ところが、もしあなたが自分の呼んでいる助けを受け入れなければ、助けとはあなたから与えるべくあなたに与えられているものであるという事を信じないでしょう。

それ故に、あなたは与えることなく、その信念を持ち続けることになります。

なぜなら、訂正されてない誤りは、いかなる種類のものであれ、自分の中にある訂正をする力についてあなたを欺くからです。

その力には訂正する事が出来るにも関わらず、あなたがそれをさせないとしたら、あなたはそれを自分自身と兄弟の両方に拒否しています。

そして、もし兄弟がこの同じ信念を共有するのであれば、あなた達は双方ともに自分が劫罰を受けるべき者だと考えるようになります。

あなたには、こうした事からその人と自分自身を免れさせる事が出来ます。

なぜなら、理性とは、あなたひとりの中に訂正の道を開くのではないからです。

 

ACIM-Text- chapter21-6-2

訂正とは、兄弟抜きであなたが受け入れたり拒否したりすることが出来ないというものです。

罪は、それができると主張します。

しかし、理性は、兄弟か自分を罪深いと見ておいて、もう一方だけを無垢だと見る事は出来ないとあなたに告げます。

一体誰が、自分自身を有罪だと見なしておきながら、その一方で罪のない世界を見ることが出来るでしょうか。

それに、一体誰が、罪深い世界を見ておきながら、その世界とは切り離された自分を見ることが出来るでしょう。

罪は、あなたと兄弟とは分離していると主張します。

しかし、理性は、それは間違っているとあなたに告げます。

もし、あなたがあなたの兄弟とつながっているなら、どうしてあなたが自分だけの想念を持てるでしょうか。

そして、あなただけに属するかのように見えているものの中に入ってくる想念が、どうしてあなたのものであるものに対して、全く何の影響も及ぼさずにいられるでしょうか。

もし、心と心がつながっているとすれば、それは不可能です。

 

ACIM-Text- chapter21-6-3

神が我が子を抜きにして思考することがないように、誰も自分のためだけに思考することは出来ません。

神と神の子が、双方とも 身体の中に存在している場合にのみ、そうしたことが有り得ることになります。

また、 身体が心であるというのでない限り、一つの心がそれ自身のためだけに思考するという事は出来ません。

なぜなら、 身体だけが分離する事が可能であり、したがって実在しないものだからです。

狂気の宿る家には、理性の宿る家にはなれません。

それでも、もしあなたが理性を見いだせば、狂気の家を去るのは容易です。

あなたは、どこか他のところへ行く事によって狂気の家を後にする訳ではありません。

単に、狂気があった場所に理性を受け入れるだけの事です。

狂気も理性も、見る対象は同じですが、それらを違った見方で見ることは確かです。

 

ACIM-Text- chapter21-6-4

狂気とは、理性に対する攻撃であり、理性を心の中から追い出し、理性に取って代わります。

理性は攻撃しませんが、狂った者たちが理性に耳を傾けることを選択するなら、静かに狂気の在ったところに入ってきて狂気と入れ代わります。

ところが、狂った者たちは、自分の意志そのものを知りません。

なぜなら、その人たちは自分が 身体を見ていると信じており、狂気が 身体は実在すると言うままにしておくからです。

理性にはそのような事は出来ません。

そして、もしあなたが理性に対抗して 身体を防衛しようとするのなら、あなたは 身体も自分自身も理解することはないでしょう。

 

ACIM-Text- chapter21-6-5

身体はあなたを兄弟から分離させることはありません。

もし、そう考えるとすれば、あなたは正気ではありません。

しかし、狂気は一つの目的を持っています。

その上、その目的を実在のものにするための手段も持っていると信じています。

一つに結ばれていると理性が告げているものの間に防壁として 身体を見る事は、狂気以外の何物でもありません。

それに、もしあなたが理性の声を聞いていたなら、それは見えないはずです。

一体何が、切れ目のなく続いているものの間に立つ事が出来るものなどあるでしょうか。

その上、もしその間には何も無いとすれば、その一部に入り込むものが、いかに他の部分から離しておかれる事が可能でしょうか。

理性であれば、あなたにこのように告げるでしょう。

しかし、そうだとしたら、あなたが何を認識すべきなのか考えてみなさい。

 

ACIM-Text- chapter21-6-6

もし、あなたが癒しの代わりに罪を選択するなら、神の子に対し絶対に訂正できないものに縛りつける宣告をしようとしていることになります。

あなたが自らの選択で、その人に告げているのは、その人は劫罰を受けるべき者であり、あなたからも父からも永遠に分離していて、安全に帰還する望みなどないということになります。

あなたがこのようにその人に教えるならば、自分で教えた事をそっくりそのまま、その人から学ぶことになります。

あなたがその人に教える事が出来るのは、ただ、その人はあなたが望んでいる通りの存在であるという事だけであり、あなたがその人をどのような存在とするかの選択は、あなた自身をどんなものとするかの選択です。

ただし、これが恐ろしいことだと思ってはなりません。

あなたがその人とつながっているということは単なる事実であって、解釈ではありません。

あなたが、真理よりも大事にしているものと食い違っているのでない限り、どうして事実が恐ろしいものとなり得るでしょうか。

理性は、こうした事実があなたの開放であるとあなたに告げます。

 

ACIM-Text- chapter21-6-7

あなたの兄弟もあなた自身も、どちらか一人だけが攻撃されることは有り得ません。

しかし、また、どちらか一人が攻撃の代わりに奇跡を受け入れるなら、それによってもう一人も必ず祝福され、苦痛を癒されます。

理性は、愛と同じようにあなたを安心させ、あなたを恐れさせないようにします。

神の子を癒す力があなたに与えられているのは、神の子はあなたとひとつでしか有り得ないからです。

その人が自分自身をどのように見るかについて、あなたには責任があります。

そして、あなたとひとつであるその人の心全体を一瞬の内に変化させることが、あなたには出来ると理性は告げます。

そして、どの瞬間であれ、その人の誤りに完全な訂正をもたらし、その人が全一になる瞬間となり得ます。

自分自身が癒される事をあなたが選択する瞬間が、まさにその人の 救済全体が、あなたの 救済も共に、完全なものとして見られる瞬間です。

これがその通りだと理解するために、理性が与えられています。

なぜなら、それを目的とする手段である理性は、目的と同様に親切であり、着実に狂気から離れて真実というゴールに向かって導いていくからです。

そして、そこで、あなたは真理を否定することの重荷を降ろすことになるでしょう。

これこそが恐ろしい重荷なのであり、真実が重荷なのではありません。

 

ACIM-Text- chapter21-6-8

あなたと兄弟がつながっているということが、あなたの 救済です。

それは天国の贈り物であり、恐れの贈り物ではありません。

あなたにとって、天国は重荷のように見えるでしょうか。

狂気の中にあるなら、そう見えるでしょう。

しかし、狂気が見ているものは、理性によって必ず払い除けられます。

理性は、天国があなたの望んでいるものであり、ただあなたの望む全てであるとあなたに保障します。

理性をもって語り、あなたの理性を自らの理性と一致させてくれる 聖霊に、耳を傾けなさい。

理性を手段として、それによってどうすれれば狂気を後にできるかを 聖霊に指示してもらおうとする意欲を持ちなさい。

理性から逃れるために狂気の背後に隠れてはなりません。

狂気が隠そうとするものを、 聖霊は全ての者が喜びを持って見つめられるように、今も前面に差し出しています。

 

ACIM-Text- chapter21-6-9

あなたはまさしくあなたの兄弟の 救済者です。

そして、その人はあなたの 救済者です。

本当に幸せに、この事実を理性は知らせます。

この恵み溢れる計画は、愛から愛へと与えられたものです。

そして、愛が計画することは、次の点で愛そのものと似ています。

一体のものである愛は、あなたに本来のあなた自身について学ばせようとします。

そして、愛と一体であるあなたは、その愛から与えられたものであり、今もなお与えられているものを与える力が備わっているはずです。

ほんの一瞬を使って、兄弟に与えるようにとあなたに与えられているものを喜んで受け入れ、あなた達双方に与えられているものを、その人と共に学びなさい。

与えることは、受け取ること以上に祝福されている訳ではありません。

しかし、それ以下でもありません。

 

ACIM-Text- chapter21-6-10

神の子は常に一なるものとして祝福されています。

そして、その人の感謝が、その人を祝福したあなたのところにやってくる時、あなたが祝福から離れて立っているはずはないと理性はあなたに告げるでしょう。

その人があなたに差し出す感謝は、神自身を完成させたあなたに父が与える謝意をあなたに思い出させます。

そして、ただここにおいてのみ、あなたは本来のあなたを理解できると理性はあなたに告げるでしょう。

あなたの父は、あなたの兄弟と同じくらいあなたの近くに居ます。

とはいえ、あなたの自己以上にあなたの近くに居られるものがあるでしょうか。

 

ACIM-Text- chapter21-6-11

あなたが神の子に対して持っている力は、神の子の実相を脅かすものではありません。

ただそれを証明するだけです。

その人が既に自由であるとすれば、その人自身の中以外のどこにその人の自由が有り得るでしょうか。

そして、その人が自分の自由を否定しているとしたら、その人自身以外の誰がその人を束縛したと言うのでしょう。

神は侮られてはいません。

同じ様に、神の子も自分自身の欲求によらない限り、幽閉されることは有り得ません。

そして、その人が自由になるのも、その人自身の欲求によってです。

これはその人の強さであり、弱さではありません。

その人は自らの慈悲の中にあります。

そして、その人が慈悲深くあろうとする所で、その人は自由です。

しかし、その人が咎めることを選択する所では、その人は囚人として鎖に繋がれたまま、自分自身に対する 赦しが自分を自由にするのを待っているのです。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第21章「理性と知覚」目次

21-0  序論

21-1  忘れられた歌

21-2  見ることに対する責任

21-3  信と信念と心眼

21-4  内側を見ることに伴う恐れ

21-5  理性の機能

21-6  理性 対 狂気

21-7  答えられていない最後の質問

21-8  内なる変化

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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