奇跡講座テキスト編22章 22-2あなたの兄弟の無罪性

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第22章「 救済と聖なる関係」22-2

 

第22章 22-2あなたの兄弟の無罪性

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幻想の反対とは、幻滅ではなく、真理です。

ただし、真理を無意味と見ている 自我にとってのみ、幻想と幻滅だけが選択肢のように見え、その二つは違うもののように見えます。

実際には、それらは同じものです。

いずれも同じ分量の不幸をもたらしますが、それぞれが他方がもたらす不幸をなくす方法であるように見えています。

一つ一つの幻想は、全て内に虚無を隠している分厚い衣のひだの奥に痛みや苦しみを押し込んでいます。

しかし、幻想を求める者たちは、こうした分厚い闇の衣によって覆われ、真理の喜びからは隠されています。

 

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真理は喜びを差し出すがゆえに、幻想の反対です。

喜び以外の何が不幸の反対になり得るでしょうか。

ある種類の不幸を後にして、別の種類の不幸を探すことは、およそ脱出とは言えません。

幻想を変えるというのは、何も変えないことです。

不幸の中に喜びを探すことは意味がありません。

どうして喜びが不幸の中に見つかるでしょう。

暗く悲惨な世界において可能なことは、そこからただいくつかの側面を選び出してきて、それらを他とは違うものと見なし、その違いを喜びとして定義することだけです。

とはいえ、何の違いも存在しないところに違いがあると知覚したところで、決して違いは作り出せません。

 

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幻想はただ、それを信じる者たちに罪悪感や苦しみや病や死だけを運んできます。

それらがどんな形で幻想を受け入れられるか、それは問題ではありません。

理性の目で見れば、どのような形の不幸であれ、喜びと混同されたりすることはありません。

喜びは永遠です。

どんなに幸せのように見えても、それが永続しないものは、本当は恐れであると確信して差し支えありません。

永遠であるものは決して変化することはないので、喜びが悲しみに変わることはありません。

しかし、時間は永遠なるものに譲歩するので、悲しみが喜びに変わることはあります。

時間を超越したものだけが、不変であり続け、時間の中にあるものはことごとく時と共に変化します。

しかし、もし、変化を仮想の変化ではなく真の変化にするには、幻想は真理に譲歩するのでなければなりません。

同じく実在性のない他の夢に譲歩するのではありません。

それでは、違いとは言えません。

 

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あなたに理性が教えるのは、不幸から脱出する唯一の道は不幸を認識してその反対方向に進むことだ、という事です。

真理は同じであり、不幸も同じですが、その二つは全ての点で、全ての場合で例外なく異なっています。

例外が一つでも存在し得ると信じることは、同じであるものと違っているものと混同することになります。

一つでも幻想が大切にされ、真実から防衛されているなら、それが全ての真理を無意味にし、全ての幻想を実在のものとしてしまいます。

これが信念の力です。

そこに妥協は不可能です。

そして、無垢性に信をおいていても、もしその信念が命あるものを一つでも除外し、 赦しから離しておくなら、それは罪への信と同じことになります。

 

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理性と 自我も、どちらもがあなたにこのように教えるでしょう。

しかし、両者がそれについてどう解釈するかは同じではありません。

自我は、今や、あなたが誰の中にも罪悪を見ずにいることは不可能だと保障します。

そして、このような見方が罪悪感から脱出する唯一の手段だとすれば、罪に対する信念は永遠に続くことになります。

しかし、理性はこれを別の見方で見ます。

なぜなら、理性は、想念を信とするか偽とするかを決めるのは、その源であると見るからです。

もし、想念がその源と同室であるなら、これが真実のはずです。

したがって、理性によると、もし、罪悪感からの脱出が 聖霊に与えられた目的であり、しかもそれを与えたのがその意志するところに不可能はない存在だとしたら、その達成の手段は、ただの可能性以上のものです。

それはそこにあって、あなたそれを持っているはずです。

 

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これは、このコースにおいて、決定的に重要な時期です。

というのも、ここで、あなたと 自我の分離が完全となる必要があるからです。

もし、あなたが 聖霊の目的を達成する手段を持っているのなら、それは使用可能です。

そして、それを使うことによって、あなたはそれに対する信を獲得していきます。

ただし、これは 自我にとっては不可能なことに違いありません。

そして、誰一人として、決して遂行される望みのないものに着手する人はいません。

自分の創造主が意志することは実行可能だということをあなたは知っていますが、あなたの作り出したものは、そうではないと信じています。

今こそあなたは、あなた自身と、あなた自身についての幻想と、そのどちらかを選択しなければなりません。

両方ではなく、一方だけを選択しなくてはなりません。

この一つの決断を避けようとすることには意味がありません。

この決断は下されなければなりません。

信と信念はどちらの側にも味方することが出来ますが、一方の側には不幸があり、もう一方には喜びがあると、理性はあなたに教えます。

 

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今、あなたの兄弟を見捨ててはなりません。

なぜなら、兄弟と同一の存在であるあなたは、一人で決断することも、異なった決断をすることもないからです。

あなた達はお互いに生命を与え合うか、死を与え合うか、そのどちらかであり、またお互いに聖域を差し出す 救済者であるか、有罪を宣告する審判者であるかのいずれかとなります。

このコースは全面的に信じられるか、全く信じられないか、そのどちらかです。

なぜなら、それは全面的に真実であるか、そうでなければ全面的に間違っているのであり、部分的に信じるということは出来ないからです。

そして、あなたは不幸から完全に脱出するか、全く逃出しないか、そのどちらかでしかありません。

理性があなたに教えるのは、天国の喜びと地獄の不幸との間の選択を後回しにしながら、不確かなまま立ち止まっていられる中間の場所などない、ということです。

天国を選ぶまでは、あなたが確かに地獄と不幸の中にいます。

 

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天国には、あなたが切り取り、幻想の中に織り込むことが出来る一部分というものはありません。

また、天国に入るときに携えていける幻想など一つもありません。

救済者とは裁く者では有り得ず、慈悲とは咎めでは有り得ません。

そして、心眼は断罪することは出来ず、ただ祝福するだけです。

救うことが自分の機能である存在は、救うでしょう。

どのようにして 聖霊がそれを為すのか、それはあなたの理解を超えていますが、いつそれを為すかは、あなたの選択でなければなりません。

なぜなら、時間はあなたが作り出したものであり、時間であればあなたが使いこなせるからです。

あなたは、自分で作り出した世界の奴隷ではないのと同様、時間の奴隷でもありません。

 

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あなたが作り出したものに、その作り主であるあなたを奴隷にさせる力があるという幻想全体を、もっと詳しく見てみましょう。

これは分離の原因となった信念と同じ信念です。

それは、想念がそれを思考している者の心を離れることが出来て、それとは異なるものとなって、それに対立することが出来る、という無意味な考えです。

もし、これが真実であれば、想念というものは心の延長ではなく、その敵であるということになります。

かくして、ここに、これまで何度も見てきた根本的な幻想と同じものを、再び別の形で私たちは見ます。

もし、神の子が父の心を離れることが出来て、自分自身の意志を神の意志とは異なるものとして神の意志に反対することが可能という場合にだけ、その人が作り出した自己とその自己が作り出した全てのものが、その主人となることが可能となります。

 

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こうした大規模な投影をよく見なさい。

ただし、恐れずに、それは必ず癒されるという決意を抱いて見つめなさい。

あなたが未だに創造主から離れたところで、創造主とは対立した意志を持っていたいのでない限り、あなたが作り出したものにあなたを支配する力はありません。

なぜなら、神の子が神の敵になり得ると信じる場合にのみ、あなたの作り出したものが自分のもので有り得るように見えるからです。

あなたは、神の喜びを不幸に変え、神を異なったものにしようとします。

そうして、あなたの作り出した全ての不幸が、あなた自身のものとなっていました。

これが真実ではないと分ったら、あなたは嬉しくはないでしょうか。

あなたの作り出した幻想が、一つたりとも真理に取って代わることはなかったというは、歓迎するべき知らせではないでしょうか。

 

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ただあなたの想念だけが、不可能なものだったのです。

救いが不可能だということは有り得ません。

自分の 救済主を敵と見なしておいて、その人を 救済者と認めることは不可能です。

しかし、神が望んでいるのなら、その人をその本性のままに認識することは可能です。

神があなたの神聖な関係に与えたものが、そこに存在しています。

というのも、神があなたに与えるようにと 聖霊に与えたものは、真に与えられているからです。

あなたは、自分に与えられている 救済者を見たくないでしょうか。

それに、あなたがその人に与えた死刑執行人の機能を、その人の真の機能と取り替えたくはないでしょうか。

あなたが、自分でその人に与えようとしたものではなく、神があなたのためにその人に与えたものをその人から受け取りなさい。

 

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あなたが自分と兄弟との間に差し挟んだ 身体を越えたところで、永遠に拡張し続ける明るく果てしない円輪からそこに届く黄金の光の中で、神ご自身の愛するあなたの神聖な関係が輝いています。

時間の中にありながらも時間を超越し、永遠不滅であるにも関わらずこの地上にあるそれは、何と静かに安息していることでしょう。

その中に宿る力は、何と偉大なものでしょう。

時間はその意志に仕えていて、地はその意志が求める通りのものとなります。

ここには分離した意志はなく、何かが分離していることを望む欲求もありません。

その意志には何一つ例外はなく、それが意志することは真実です。

赦しをのもとに運ばれた幻想はことごとく全て優しく看過され、消えていきます。

というのも、その関係の中心で キリストが再生していて、この世界を看過する心眼の光で彼の家を照らすからです。

あなたもこの聖なる家を、自分のものとしたくはないでしょうか。

ここにはいかなる不幸もなく、ただ喜びだけがあります。

 

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あなたがここで静かに キリストと共に住むために必要なのは、ただ キリストの心眼を分かち合うということだけです。

速やかに、そして喜びを持って、 キリストの眼は、兄弟を罪なきものとして見る意欲がある誰に対しても与えられます。

そして、あなたが罪の全ての結果から完全に解放されたいのであれば、この意欲の外に誰も放置してはおけません。

あなたは、自分自身に部分的な 赦しを得たいのでしょうか。

未だに罪が一つでもあなたを惑わせ、不幸に留まらせようとしている時に、天国に到達することは可能でしょうか。

天国は完璧な清らかさの住む家であり、神がそれをあなたのために創造しました。

あなた自身と同じように罪なき聖なる兄弟を見なさい。

そして、その人に天国まで導いてもらいなさい。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第22章「 救済と聖なる関係」目次

22-0  序論

22-1   聖なる関係のメッセージ

22-2   あなたの兄弟の無罪性

22-3   理性と間違いの形態

22-4   道の分岐点

22-5   弱さと防御の姿勢

22-6   聖なる関係の光

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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目次

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