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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第22章22-3「 救済と聖なる関係」本文
第22章22-3理性と間違いの形態
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自我の思考体系に理性を導入する事が、 自我の取り消しの始まりです。
理性と 自我は互いに矛盾するものだからです。
また、それらがあなたの自覚の中で共存する事も有り得ません。
なぜなら、理性のゴールは分かりやすくする事であり、すなわち明瞭にする事だからです。
あなたは、それには道理があると見ています。
これは単なる言葉遊びではありません。
ここに意味のある心眼の始まりがあります。
心眼とは、まさしく文字通り、感覚です。
もし、それが肉眼の視覚ではないというのなら、それは必ず理解されるはずです。
なぜなら、それは分かり易く、明瞭なものは曖昧ではないからです。
それは、理解が可能なものです。
そして、ここで理性と 自我は分離して別々の道を進むことになります。
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自我の存続の全てが、あなたにはこのコースが習得できないという 自我にかかっています。
この信念を分かち合うなら、理性があなたの誤りを見て、その訂正のための道を開くことが出来なくなります。
なぜなら、理性は間違いを見抜き、あなたが実在していると思っていたものは実在していないと、あなたに教えるからです。
理性は訂正を望むので、罪と誤りの違いを見る事が出来ます。
したがって、あなたが訂正不可能だと思っていた事が訂正可能であり、すなわちそれは単なる誤りだったに違ないと、理性はあなたに教えます。
訂正に対する 自我の抵抗は、罪を信じる確固たる信念となり、誤りの無視へとつながります。
自我は訂正可能なものには何一つ目を向けません。
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理性はそれそのものでは 救済ではありませんが、平安のための道を開き、 救済を与えられることが可能となる心の状態をあなたにもたらします。
罪は平安へと至る道を阻む一つの障害であり、それは錠がかけられていて鍵のない重い扉のようなものです。
罪は平安へ至る道を妨げる思い扉のようなものであり、理性の助けなしに扉を見るなら誰もそこを通り抜けようとはしません。
身体の眼は、それを重い御影石のように見なしてその分厚さのためにそこを通り抜けようとするのは狂気の沙汰だと考えます。
ところが、理性は簡単にそれを見透かしてしまいます。
なぜなら、それは誤りだからです。
それが纏う形態は、それそのものの空虚さを理性の目から隠すことは出来ません。
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誤りが持つ形態だけが、 自我を惹きつけます。
自我は、何を意味するかについては認識せず、その有無を調べることもしません。
肉眼が見ることの出来るものはことごとく間違いです。
それは、知覚における間違いであり、全体がもたらすはずの意味を欠いた歪曲された断片です。
それでも、間違いは、たとえどんな形態であれ、訂正されることが可能です。
罪とは、単に 自我が崇拝する特別な形をした誤りに他なりません。
自我はあらゆる誤りを温存して、それらを罪にしようとします。
なぜなら、そこに 自我の安定性があり、自ら作り出した移り変わる世界に自分を繋ぎとめる重たい楔があるからです。
それは、 自我の教会を建てる土台となる岩であり、 自我の崇拝者たちが 身体の自由が自分の自由だと信じて、 身体に縛り付けられる場所です。
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誤りの形態がその誤りを間違いとする訳ではないということを、理性はあなたに教えます。
もし、その形態が隠しているものが間違いであるとすれば、形態が訂正を妨げる事は出来ません。
身体の眼は形態だけを見ています。
肉眼は、それが見るべきものとされているものを越えて見る事は出来ません。
そして、肉眼は誤りを見るために作られたものであり、それを見過ごすために作り出されたのではありません。
肉眼の知覚は、実に奇妙なものです。
肉眼には幻想だけが見え、御影石の塊のような罪を越えて見ることは出来ず、罪を内包する外観の形態のところで停止します。
心眼のこの歪曲版にとっては、あらゆるものの外部、すなわちあなたと真実との間に立ちはだかる壁が、全面的に真実です。
しかし、何も無いものを前にして、まるでそれが頑丈な壁でもあるがごとく停止する視覚に、どうして真に見ることが出来るでしょう。
形態以外の何も知覚されないことを保証するために作り出されたそれは、形態によって阻止されます。
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見ないように作り出されたこれらの眼は、決して見ることはありません。
なぜなら、それらが象徴している想念は、その想念を作り出した者を離れたことはないので、それらを通して見る主体は、それらを作り出した者だからです。
その想念を作り出した者には、見ない事以外にどんなゴールがあったでしょう。
身体の眼は、そのゴールのためであるなら完璧な手段ですが、見るための手段には適していません。
いかに肉眼は外的なものの上に留まり、それらを越えていく事が出来ずにいるかを、見てみなさい。
いかに肉眼が無の前に止まってしまって、形態を越えて意味にまで進むことが出来ずにいるのかを、よく見なさい。
形態の知覚ほど、目を眩ませるものはありません。
なぜなら、形態を見ているという事は、理解が曖昧にされている事を意味するからです。
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間違いだけがいろいろ異なった形を纏うので、欺く事が可能です。
形態が真実ではないからこそ、あなたは形態を変えることが出来ます。
それは形を変える事が可能であるがゆえに、実相では有り得ません。
「もし、形は実相ではないのなら、それは幻想に違いなく、見えるものとしてはそこに存在してはいない」と理性はあなたに教えます。
そして、もし、あなたがそれを見ていとすれば、実在し得ないものをあたかも実在しているかのように見ているからです。
そこに存在していないものを超えたところを見ることが出来ない視覚は、歪曲された知覚に違いなく、幻想を真理として知覚する以外にはありません。
それでは、そのようなものが真理を認識することなど出来るでしょうか。
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ある人の聖性はあなたの聖性でもあるので、その人の間違いの形態によって、あなた自身をその人から遠ざけてはなりません。
なぜなら、その人の聖性の光景はあなたが 赦したことをあなたに教えるので、それを見る心眼を肉眼が見るものによってあなたから隠しておいてはなりません。
兄弟の罪や 身体についてのあなたの知覚によって、その人についてのあなたの自覚を妨げさせてはなりません。
その人の 身体と結びつけて考えられているものが、あなたが罪を犯す事が出来ると信じているものですが、そうしたもの以外に、その人の中にあなたが攻撃したくなるような何かがあるでしょうか。
その人の誤りを越えたところに、その人の聖性とあなたの 救済があります。
あなたはその人の聖性をその人に与えることはせずに、自分自身を救うためにその人の中に自分の罪を見ようとしました。
しかし、それでも、その人の聖性があなたの 救済であるというのに、その人を罪深い者とすることで、あなたが救われるでしょうか。
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神聖な関係は、たとえ生まれたばかりであっても、何よりも先ず聖性に価値を置きます。
神聖でない価値観は、自覚の中に混乱を生み出すことになります。
神聖ではない関係では、一方がもう一方の罪を正当化するという理由で、それぞれに価値が置かれています。
どちらもが相手の中に、自分の意志に反して自分に罪を駆り立てさせるものを見ます。
このようにして、その人は自分の罪を相手になすりつけた上で、自分の罪を永続させようとしてその人に惹きつけられるのです。
それ故に、自分自身が罪を実在化させたいという欲求によって罪を引き起こしている当事者だということが、お互いに見えなくならざるを得ません。
しかし、理性は神聖な関係をあるがままに見ます。
すなわち、自分たちがひとつの存在として幸せに癒される事を願い、両者が共に誤りを喜んで訂正へと差出すような共通の心の状態と見るのです。
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