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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第26章「過渡期」26-1本文
第26章26-1 一体性の「犠牲」
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攻撃の「力動」においては、犠牲が主要概念です。
それを要として、あらゆる妥協、有利に取引きしようとする必死の試み、全ての葛藤が見かけ上の均衡を達成します。
犠牲とは、「誰かが損失を被らなければならない」という中心的主題を象徴するものです。
それが、 身体に焦点を合わせている事は明白です。
なぜなら、それは常に損失を限定しようという試みだからです。
身体とは、それ自体が一つの犠牲です。
すなわち、自分にごく僅かな力をとっておくという名目のもとに、力を放棄する事です。
自分の 身体からは分離している別の 身体の中に兄弟を見るという事は、その人のほんの小さな一部分だけを見て、その他は犠牲にしたいという願望の表現です。
この世界を見てみなさい。
そこにあなたは、それ自体を越える何かに属しているものを見る事はありません。
個体のように見えるものは全て、僅かに近寄ったり遠ざかったりする事は出来ても、つながり合う事は出来ません。
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あなたの見ている世界は、一体性の「犠牲」に基づいています。
それは、完全な分裂状態及びつながり合いの全面的な欠如を、絵に描いたようなものです。
それぞれの個体の周りには、一見すると非常に頑丈な壁が築かれているので、まるでその内側にあるものは決して外には出られず、外側にあるものは、壁の内側に閉じ込められているものに到達してそれと結びつく事は絶対に出来ないかのように見えます。
それぞれの部分は、それ自体を完全に保つためには、他の部分を犠牲にしなければなりません。
というのも、もしそれらがつながり合うなら、それぞれの独自のアイデンティティーが失われる事になるからであり、その人達の自己は分離していることで維持されているからです。
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身体で囲いこんだ小さな部分が自己ということになり、他の全てを犠牲にする事によって、その自己が温存されます。
そして、他の全てはこの小さな部分を失わなければならず、この部分は自らのアイデンティティーをそのまま保とうとして、不完全であり続けます。
あなた自身についてのこのような知覚においては、確かに 身体が失われるのは犠牲であるでしょう。
というのも、 身体が見えているという事そのものが、「犠牲が限定されていて、まだ何かがあなただけのものとして残っている」というしるしになるからです。
そして、この僅かなものをあなたに所属させるために、外側にある全てのものに限界が定められ、あなたが自分のものだと思っているもの全てにも限界が定められます。
与えることと受け取ることは同じだからです。
そして、 身体が持つ限界を受け入れる事は、そうした限界をあなたが見る兄弟一人ひとりにも押しつけることになります。
なぜなら、あなたは必ず自分自身を見るように兄弟を見るからです。
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身体そのものが即ち損失であり、犠牲にされ得るものです。
そして、あなたが兄弟を 身体と見なし、あなたから離れたその人の独房の中で別個に存在しているものとして見なしている間は、あなたはその人とあなた自身に犠牲を要求していることになります。
神の子に、父を失くした自分自身を知覚するように求める事以上に大きな犠牲があり得るでしょうか。
そして、父に我が子を失くした存在になるように求める事も同様ではないでしょうか。
ですが、犠牲の一つひとつが、彼らが分離して他方を失くした状態でいる事を要求しています。
もし、何らかの犠牲が誰かに求められるなら、必ず神の記憶が否定されます。
神の子の全一性を証明する証人は、どれほど真理を証言していようとも、分離した 身体の世界においては、いったい誰の目に止まるでしょう。
このような世界の中では、彼は目には見えません。
それに、融合と愛を歌う彼の歌も、全く聞かれる事はありません。
それでも、彼には、自らの歌を前にしてこの世界を退かせ、 身体の眼を彼の視覚へと入れ替える力が与えられています。
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幻想ではなく真理を証明する証人を見たい者たちは、ただ世界においてそれに意味を与え有意義なものにする一つの目的が見られるようにと、求めるだけです。
あなたの特別な機能がなければ、この世界はあなたにとって何の意味もありません
とはいえ、それは天国そのものと同じように豊かで無限の宝庫ともなり得ます。
そこでは、どの瞬間も兄弟の聖性が見られないまま過ぎていく事はないので、あなたが自分に割り当てている微笑で貧弱な幸せの断片に、無限の聖性が加えられていきます。
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あなたは一体性を見失う事は出来ますが、その実相を犠牲にすることは出来ません。
それに、あなたは自分が犠牲にしたいと思っているものを失うことは出来ないばかりか、それが失われてはいないとあなたに教える任務を、 聖霊から取り上げる事も出来ません。
では、兄弟があなたに向かって歌う歌を聞きなさい。
そうして、この世界を後退させ、その人の証が平安を差し出してくれる休息をとりなさい。ただし、その兄弟を裁いてはなりません。
もし裁くなら、あなたは自分自身のために解放の歌を聞く事はなく、あなたが見てその人と共に喜べるようにと、その人が証しする事になっているものを見る事もないでしょう。
その人の聖性を、罪を信じるあなたの信念の犠牲にしてはなりません。
あなたは、その人の無垢性と共に自らの無垢性を犠牲にするのであり、死に値する罪をその人の中に見る度に、あなたは死ぬのです。
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しかし、どの瞬間にも、あなたは生まれ変わり、再び生命を与えられる事が可能です。
その人の聖性があなたに生命を与えるのであり、その人の無罪性が神に知られているが故に、あなたが死ぬ事はあり得ません。
そして、その人が見ないからといって、あなたの内なる光がかき消される事があり得ないのと同様、その人の聖性があなたによって犠牲にされる事はあり得ません。
あなたは生命を犠牲にし、自分の目や耳に神と聖なる神の子の死を証明させようとしていますが、双方を神が意志しなかったものにする力が、あなたにあると思ってはなりません。
天国では、神の子は 身体の中に幽閉される事も、孤独の中で罪の犠牲にされる事もありません。
そして、その人は、どこにおいても永遠に天国に存在するままに存在するはずです。
その人は永遠に同じです。
一瞬ごとに再生し、時間に影響されることもなく、生命の犠牲や死の手が届くところを遥かに越えています。
なぜなら、そのどちらもその人が作り出したものではなく、そのうちの一方のみが、自らの贈り物は決して犠牲も損失も被る事はないと知る存在によって、その人に与えられるものだからです。
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神の正義は、優しく神の子の上に留まり、この世界が神の子に担わせようとするどのような不正義からも神の子を安全に護ります。
あなたが神の子の罪を実相として、その人に対する父の意志を犠牲にする事が出来るなどという事があり得るでしょうか。
その人が自分自身を見ている朽ちていく牢獄の中に、あなたもその人も見る事で、その人に有罪宣告をしてはなりません。
あなたの特別な機能とは、確実に扉が開かれているようにする事です。
そうすれば、その人が牢獄から出てきてあなたを光で照らし、自由という贈り物をあなたから受け取る事によって、それをあなたに与え返す事が出来るようになります。
聖なる神の子が自らを正義から離しておこうとして作り出してしまった幽閉状態から、その人を解き放つ以外に、 聖霊の特別な機能があるでしょうか。
あなたの機能が、 聖霊自身の機能から離れた別の任務だという事があるでしょうか。
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