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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第25章「神の正義」25-5本文
第25章25-5 無罪性の状態
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無罪性の状態とは次のようなものに過ぎません。
攻撃したいという欲求が全てなくなり、したがって、神の子をありのままのその人以外のものとして知覚する理由が存在しなくなっています。
罪悪感の必要もなくなっています。
なぜなら、罪というゴールがなければ、罪悪には何の目的もなく、無意味なものだからです。
攻撃と罪は一つの幻想として結びついていて、一方が他方の原因であり目標であり、正当性をもたらすものです。
いずれも単独では無意味ですが、もう一方から意味を引き出すように見えます。
どちらも、何であれそれが持っているかのように見える意味に関して、もう一方に依存しています。
そして、一方が真実でなかったなら、誰ももう一方を信じる事は出来ません。
なぜなら、それぞれが、互いに、もう一方が真実に違いないと証言しているからです。
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攻撃とは、 キリストを敵にして、その上神をも一緒に敵にします。
このような「敵」がいたら、あなたは恐れを抱かずにはいられないのではないでしょうか。
そして、自分自身を恐れずにはいられないのではないでしょうか。
なぜなら、あなたは自分自身を傷つけ、自分の自己を自分の「敵」にしたからです。
そして、今やあなたは、自分が自分ではなく、自分自身とは異質なもの、「何か別のもの」、愛される代わりに恐れられる「何か」であると信じなければなりません。
完全に無垢であると自ら知覚する人を攻撃する人などいません。
そして、攻撃したいという願望があれば、無垢性を望みながらもそのような願望を維持している自分は有罪に違いないと、誰が考えずにいられるでしょう。
神の子を無垢と見ながら、誰がその人の死を望む事が出来るでしょう。
あなたが兄弟に目を向ける度に、あなたの前に キリストが立ちます。
あなたの目が閉じられているからといって、 キリストは居なくなってはいません。
しかし、自分の 救済者を探し求めたところで、盲目の目を通してその人を見ているなら、、いったいそこに何が見えるでしょうか。
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そのような見方をする事であなたに見えるのは、 キリストではありません。
あなたが見ているのは、 キリストと混同された「敵」です。
そして、それは、あなたが見るべき罪がその中に見えないがゆえにあなたに憎悪される「敵」です。
また、あなたにはその人の悲しげな呼びかけが聞こえません。
それは、どんな形で呼び掛けてくるとしても、その内容は変わらず常に、「その人とつながり、無垢性と平安の中でその人と結びつくように」と訴えている呼びかけです。
あなたにはそれが聞こえていないとしても、 自我の無分別な悲鳴の奥には、神がその人に与えたこのような呼び掛けがあります。
あなたがその人の中に、あなた自身に対する神の呼び掛けを聞いて、神に神ご自身のものを返す事によってそれに答える事が出来るようにと、神はそれをその人に与えました。
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神の子があなたに求めているのは次の事だけです。
すなわち、その人が受け取るべきものをその人に返す事、そして、あなたがそれをその人と分かち合う事です。
単独では、双方ともそれを持ってはいません。
それ故に、それは双方にとって役に立たないままになります。
二人一緒であるなら、それは相手を救い、自分自身をも救う強さを、それぞれに等しく与える事になります。
あなたに赦されたあなたの 救済者は、あなたに 救済を差し出します。
あなたによって有罪宣告されたその人は、あなたに死を差し出します。
あなたは全ての人の中に、その人を自分にとっていかなるものとするかについての自分の選択が反映されているのを見るだけです。
もし、あなたが、その人の正しい機能、真理においてその人が持つ唯一の機能に抗う決断をするとしたなら、あなたはその人から、神が与えた役割を果たす時にその人が見い出したはずの全ての喜びを奪っているのです。
しかし、天国がその人ひとりから失われたと考えてはなりません。
そしてまた、その人の傍らを歩むあなたを通してその道があなたに示され、それによってあなたがそれを見出せるようになる事なしに、天国が取り戻されると思ってもいけません。
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その人が救われるという事は、犠牲ではありません。
その人の自由によって、あなたは自分の自由を得る事になるからです。
その人の機能が果たされるようにする事は、あなたの機能が果たされるようにするための手段に他なりません。
そのようにして、あなたは天国か、さもなければ地獄に向かって歩くのですが、いずれにしても一人で行く訳ではありません。
その人の無罪性は、あなたがそれを知覚する時、何と美しく輝く事でしょう!
そして、その人が自由になり、あなたのために神がその人に預けた視力の贈り物をあなたに差し出す時、あなたの喜びはどんなものでしょう!
その人が必要としているのは次の事だけです。
すなわち、その人が神から与えられた任務を完了させる自由を、あなたがその人に認めるという事だけです。
そして、その時に覚えておくべき事はただ一つ、その人が行なう事をあなたもその人と一緒に行うという事です。
そして、あなたがその人をどのように見るかが、その人があなたのために果たす事になる機能を定義するのであり、それは、あなたがその人を別の見方で見て、その人をあなたにとって神が定めた通りの存在であらしめるようになるまで続きます。
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神の子が自分自身に対して抱いている憎しみに鑑みれば、神にご自身が創造したものを、地獄の苦しみから救う力を持たないものと信じられています。
しかし、神の子が自分自身に対して示す愛の中では、神は自由にご自身の意志を行えるようになります。
あなたは兄弟の中に、自分のための神の意志だとあなたが信じているものの映像を見ます。
自ら赦す中で、あなたは自分に対する神の愛を理解し、攻撃する中で、あなたは神が自分を憎んでいると信じ、天国は地獄に違いないと考えます。
兄弟は、あなたがその人を知覚する通りに、天国へ至る道にも、地獄へ至る道にもなるという事を理解した上で、もう一度兄弟を見てみなさい。
ただし、忘れてはなりません。
あなたがその人に与える役割があなたに与えられ、あなたは自分がその人に指し示した道を歩く事になるでしょう。
なぜなら、それが、あなた自身に対するあなたの審判だからです。
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