Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第28章「恐れの取り消し」28-1本文
- 第28章28-1 現在の記憶
- ACIM-Text-chapter-28-1-1
- ACIM-Text-chapter-28-1-2
- ACIM-Text-chapter-28-1-3
- ACIM-Text-chapter-28-1-4
- ACIM-Text-chapter-28-1-5
- ACIM-Text-chapter-28-1-6
- ACIM-Text-chapter-28-1-7
- ACIM-Text-chapter-28-1-8
- ACIM-Text-chapter-28-1-9
- ACIM-Text-chapter-28-1-10
- ACIM-Text-chapter-28-1-11
- ACIM-Text-chapter-28-1-12
- ACIM-Text-chapter-28-1-13
- ACIM-Text-chapter-28-1-14
- ACIM-Text-chapter-28-1-15
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第28章「恐れの取り消し」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第28章「恐れの取り消し」28-1本文
第28章28-1 現在の記憶
ACIM-Text-chapter-28-1-1
奇跡は何もしません。
するのは、取り消す事だけです。
こうして、既に為されている事に対する妨げを無効にします。
それはつけ加えることはなく、ただ取り去るだけです。
そして、奇跡が取り去るものは、既にずっと前に消え去っていても、記憶には保たれている為に結果を生むように見えているものです。
世界はとうの昔に終わっています。
それを作り出した想念は、それらの想念を思考して少しの間それらを愛した心の中には、もはや存在していません。
奇跡はただ、過去は消え去っている事と、真に消え去ったものは何の結果ももたらさないという事を、見せるだけです。
原因を覚えているということは、原因が存在するという幻想を生み出せるだけであり、結果を生み出す事は出来ません。
ACIM-Text-chapter-28-1-2
罪悪の全ての結果は、もうここには存在していません。
罪悪が終わっているからです。
罪悪が去った時、その結果も、原因がなくなって去っていきました。
もし、あなたがその結果を望んでいないというのであれば、どうして記憶の中でそれに執着しようとするのでしょうか。
思い出すとは、知覚の過去時制であるので、知覚と同様、選択的なものです。
それは過去を、まるでそれが今起きていて、そこに見えるものとして存在しているかのように知覚することです。
知覚と同じように、記憶は、神があなたの創造に際して与えたものに取って代わるべく、あなたが作り出した技能です。
そして、あなたが作り出した全てのものと同じように、それは別の目的に役立つように使われて、別のものの為の手段とされる事も可能です。
もしあなたが望みさえすれば、それは傷つける為にではなく癒す為に、それを使うことが出来るのです。
ACIM-Text-chapter-28-1-3
癒しの為に使われるものはどれもことごとく、決して何かをする為の努力を表象するものではありません。
それは、何かが為されなければならない事を意味している必要というものを、自分は何も持っていないという認識です。
それは非選択的な記憶であり、真理を妨げる為には使われていないものです。
聖霊が癒しの為に用いることの出来る全ての物事は、その内容と、作り出された時の目的が除かれた上で、 聖霊に与えられています。
そうしたものは適用されていない技能に過ぎません。
それらは使われるのを待っています。
それらには献身も、目的もありません。
ACIM-Text-chapter-28-1-4
聖霊は、記憶を本当に活用することが出来ます。
神ご自身がそこに居るからです。
ただし、それは過去の出来事の記憶ではなく、現在の状態のみについての記憶です。
あなたは余りに長い間、記憶は過ぎ去ったことだけを留めるものと信じてきた為、それが今を記憶に保つ事の出来る技能だという事がなかなか理解できません。
世界によって記憶に課せられている想起の仕方の制限は、あなたが世界によって自分に課せらる事を容認している制限と同じくらい広範なものです。
記憶を過去に結びつける絆など存在していません。
もし、あなたがそこにそれを持ちたいと思えば、それはそこにあります。
しかし、あなたの欲求だけがその絆を作り出したのであり、あなただけがそれを、罪悪が未だに居座っているように見える時間の一部に維持してきたのです。
ACIM-Text-chapter-28-1-5
聖霊の記憶の使い方は、時間とは全く無縁のものです。
聖霊は過去を取っておく為の手段として記憶を使おうとするのではなく、過去を手放す手段として、記憶を使おうとします。
記憶は自ら受け取るメッセージを保持し、為すべきものとして与えられたことを実行します。
記憶自身がメッセージを書く事はなく、それが何の為のものなのか決める事もしません。
身体と同じように、記憶にはそれ自体の目的はありません。
そして、もし記憶が往古の憎しみを大切に抱き続けるのに役立つように見え、あなたが保持してきた不正義や危害についての絵図をあなたに見せるとしたなら、そういったものがそのメッセージとなる事をあなた自身が求めたという事であり、それが為に、そのメッセージとなっています。
身体の過去の歴史の全てが、記憶の貯蔵室に収納され、そこに隠されています。
過去を生かし、現在を死なせておく為の奇妙な連想の全てがその中に貯えられており、あなたから呼び出されて、再び生きることを命じられる事を待っています。
こうして、そのような連想の結果は時間が経つにつれて増加するように見え、この事が、それらの原因を取り去ったのです。
ACIM-Text-chapter-28-1-6
しかし、時間とは、何もしないもののもう一つの側面に過ぎません。
それは、あなたが自分自身についての真理を隠し通そうとして使う他の属性の全てと、密接に関連し合って働きます。
時間は、取り去る事もしなければ、回復させる事も出来ません。
ところが、あなたはまるで過去が原因となって現在がもたらされたかのように、奇妙なやり方で時間を用いており、現在は、その原因が去ってしまっている為に、もはやいかなる変化も不可能な、一つの結果に過ぎないものとなっています。
しかし、変化には持続する原因が必要です。
さもなければ、変化は持続しません。
もし現在の原因となったものが過ぎ去っているのなら、現在においてどのような変化も起こす事は出来ません。
あなたが記憶を使う時、ただ過去だけが記憶の中に留められていて、それ故に、記憶は、今に対抗して過去を保っておく為の方法となっています。
ACIM-Text-chapter-28-1-7
あなたが自分自身に教えた事は、一切忘れてしまいなさい。
なぜなら、あなたは間違った事を教わったからです。
もっといいレッスンを学べるし、それを保ち続けられるという時に、誰が無分別なレッスンを心に留めておきたいと思うでしょう。
往古の憎しみの記憶が現れる時には、その原因は既になくなっているということを思い出しなさい。
なくなっているのだから、あなたはそうした記憶が何の為のものなのか理解できません。
あなたが今それらの記憶に与えようとしている原因を、かつての原因と同じものにしてはなりません。
かつての原因とは、それらの記憶をそのようなものにしてきたものであり、すなわちそのようなものに見せてきたものです。
そのようなものが去っていることを喜びなさい。
なぜなら、それこそが、あなたが赦されたいと思っているものだからです。
そして、その代わりに、今、受け入れられた原因の新しい結果と、それがここで引き起こしているものを見なさい。
その素晴らしさにあなたは驚くことでしょう。
それらが運んでくる古くて新しい想念は、往古の原因から生じる幸せな結果です。
この原因はあまりに古く、あなたの知覚が捉える事の出来る記憶の範囲を遥かに越えています。
ACIM-Text-chapter-28-1-8
これが、あなたは忘れようとしたのに、 聖霊があなたの為に覚えていてくれた原因です。
聖霊がそれを思い出せないものにはさせなかったので、それは過ぎ去っていません。
それは一度も変わった事はありません。
なぜなら、 聖霊があなたの心の中にそれを安全に保っていなかった時など一度もないからです。
それのもたらすものは、実際、全く新しいものに見えるでしょう。
というのも、あなたはそうしたものの原因を覚えていないと思っていたからです。
ところが、子が父を思い出せないという事は父の意志ではなかったので、それがあなたの心に不在であった事は一度もありません。
ACIM-Text-chapter-28-1-9
あなたが覚えているものは、一度も存在した事はありません。
それは、あなたが原因と取り違えた無因性から生じたものです。
原因を持っていない為に決して結果とはなり得ないものを、自分は結果として思い出していたという事を学ぶ時、それはただ一笑に付されるだけのものです。
奇跡は、永遠に現存する原因をあなたに思い出させます。
それは、時間や妨害によって全く影響されることのない原因です。
それはそれの本来の在り方から一度も変わった事はありません。
そして、あなたはそれがもたらした結果であり、それ自体と同様に、変わることなく完璧なのです。
それの記憶は過去の中にあるのでもなければ、未来を待っているものでもありません。
それは奇跡の中で啓示されるのではありません。
奇跡はそれが消え去ってはいないということを、あなたに思い出させるだけです。
あなたが自分の罪についてそれを赦す時、もうそれが否定される事はなくなります。
ACIM-Text-chapter-28-1-10
自分の創造主に審判を下そうとしたあなたには、神の子に審判を下したのは神ではないということが理解できません。
あなたは神に対し神の結果たちを否定しようとしますが、彼らが否定された事は一度もありません。
神の意志に対抗していた原因のないものを理由に神の子が咎められた時など、一度も存在しませんでした。
あなたが思い出して証明しようとしているものは、神に対する恐れに他なりません。
神は、あなたが恐れるようなことはしてはいません。
あなたも同じです。
従って、あなたの無垢性は失われていません。
あなたは癒される為に癒しを必要としていません。
静けさの中で、奇跡の中に一つのレッスンを見て取りなさい。
それは、原因がそれ自体の結果たちをもたらすに任せ、それを妨害するような事は何もせずにいるというレッスンです。
ACIM-Text-chapter-28-1-11
奇跡は、ほんの一瞬の間、動きを止めてじっと静まった心の中に、静かに入ってきます。
奇跡はその静かな時間から、そして、その静謐の中で癒された心から、他の心たちへと優しく到達し、その静けさを分かち合います。
そのようにしてその人たちも、全ての心を生じさせた心の中へと奇跡の輝きが拡張されて戻っていくのを妨げるような事を何もしなくなります。
分かち合う事から生まれたものなので、奇跡を遅らせるような中断の時間というものはあり得ず、軌跡はすぐさま落ち着きのない心たちへと向かっていき、神についての記憶がよみがえる一瞬の静けさをその人たちにもたらします。
今や、その人たち自身による想起は静まっていて、この後は、それに代わる為にやってきたものが全く思い出されないままとなることはなくなります。
ACIM-Text-chapter-28-1-12
時間を与えられて、 聖霊は自らに預けられる静かな瞬間の一つひとつについて、感謝を捧げます。
その瞬間に、神の記憶が神の子の為に取って置かれてきた全ての宝物を差し出す事が可能となるからです。
預かっておいた宝物を本来の受取人に差し出す 聖霊の喜びは、どれほどのものでしょう!
なぜなら、これによって神はご自身の結果たちを奪われる事がなくなるからです。
神の子が受け入れる一瞬の静けさは、永遠と神を歓迎し、神と神の子が留まろうする場所に彼らを迎え入れます。
その瞬間、神の子は自分自身を恐れさせるようなことは何もしないからです。
ACIM-Text-chapter-28-1-13
神の記憶は、それを遠ざけてしまう恐れを全く持たない心に、何と速やかによみがえることでしょう!
心による独自の想起は、もはや消え去っています。
今ある平安に喜んで目覚める事を妨げる恐ろしい形象を保っている過去は、存在しません。
響き渡る永遠のラッパも、ここにある静寂を乱すことはありません。
そして、今、思い出されるものは、恐れではなく、恐れを作り出す事によって思い出せず取り消されたものにされていた原因の方です。
静寂は、神の子に愛の優しい響きをもって語ります。
それは、その人自身による想起が現在と過去の間に入り込んで締め出してしまう以前からその人が覚えている響きです。
ACIM-Text-chapter-28-1-14
今や、神の子は遂に、現在の原因とそれがもたらす柔和な結果たちとを自覚します。
今、その人は自分が作り出したものには何も原因がなく、どのような結果も生み出していない事を理解します。
その人は何もしなかったのです。
そして、この事を見抜く時、その人は、自分には全く何もする必要がなかった事、そして実際、全く何もしなかったという事を理解します。
その人の原因はすなわちそれの結果たちです。
異なった過去や未来を生み出す事が出来るようなそれ以外の原因は一度も存在しませんでした。
それの結果たちは永遠に変わることなく、恐れを越え、罪の世界を完全に通り過ぎています。
ACIM-Text-chapter-28-1-15
原因がないものを見ない事で、何が失われたというのでしょう。
神の記憶がよみがえって、損失に取って変わった時に、どこに犠牲が存在するでしょう。
幻想と実相の間のある僅かな隔たりを閉じる方法として、神についての記憶にそこを超えて流れ込ませ、一瞬にして向こう岸に渡れる橋とならしめる以上に、よい方法などあるでしょうか。
神はご自身でその隔たりを閉じたからです。
神の記憶は、行き場をなくした子の前を通り過ぎたことはなく、神の子がとうてい辿り着けない向こう岸を垣間見る事しかできないような岸辺に、神の子を永遠に置き去りにする事はありませんでした。
父は、我が子が引き上げられて優しく向こう岸へと運ばれる事を意志しています。
神がその橋を築いたのであり、その橋を渡って子を運んでいくのも神です。
神がご自身の意志する事に失敗しないかと心配する必要はありません。
また、あなたの為の神の意志から、あなたが除外されるかもしれないと、心配することもないのです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第28章「恐れの取り消し」目次