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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編14章 「真理をめざす教え」より
14章14-3 無罪性を選ぶ決断 その1
ACIM-Text- chapter14-3-1
幸せな学習者は学ぶことに罪悪感を感ずるはずがありません。
これは学ぶ際にとても重要なことなので絶対に忘れてはなりません。
罪悪感の無い人はいろいろな想念に縛られていないので、容易に学べます。
ただしこれには、罪悪感は邪魔になり、救いにはならず何の役にも立たないと認める必要があります。
ACIM-Text- chapter14-3-2
たぶん、あなたは罪悪感を抱かないでいるということは、単にそんな想念から生じる苦痛を隠すためにするという考えに慣れており、罪悪感を抱かないでいること自体に価値があるとは見なしていません。
罪悪感を抱くのと抱かずにいるのと、両方に価値があり、どちらも他の方が自分のために提供してくれないことから逃れる道を意味すると信じています。
どちらか一方だけを望んだりしないというのも、両方なければ自分が完全で幸せだとは思えないからです。
ところが、あなたが完全だといえるのは罪悪感を抱いていない時だけであり、ただそのとき幸せになれるだけです。
そこには相いれない想念は何一つありません。
どのような方法や形にせよ、罪悪感を抱きたいと思うなら、自分に罪悪感がないということの重要さを認識できなくなり、そのことを忘れてしまおうとします。
ACIM-Text- chapter14-3-3
罪悪感に妥協すれば苦痛を逃れられる訳ではありません。
それは罪悪感を抱いていないときにのみ和らぎます。
学習するとはこの世界での生活を指し、創造するとは天国にいるということです。
罪悪感の痛みに惹かれそうになる度に、それに応じると自分の幸せに背を向けようと決断しているようなもので、どうすれば幸せになれるのか学べなくなってしまうということを思い出しなさい。
そこで、自分自身に優しく、なおかつ神の愛と神の子の愛から生じる確信をもって言いいなさい。
自分の経験をはっきりと表現しよう。
罪悪感がなければ、何も恐れることはない。
贖罪を拒否したのでなく、受諾したと証言することを選ぼう。
それは、罪悪感を抱いていない自分を表現し分かち合うことなので、自分に罪悪感はないと認めることになる。
神の子に父からの平安をもたらすことができますように。
ACIM-Text- chapter14-3-4
毎日、一時間ごと、いや一分、それどころか一秒ごとに、十字架刑にされるのかそれとも復活するのか自分で決断しています。
それは自我と聖霊のどちらを取るのか決めていることになります。
自我は罪悪感の選択、聖霊は罪悪感のない状態の選択を意味します。
あなたには決断する力があるだけです。
どちらにするのか決められる二つのことは変えられません。
真理と幻想以外に選べるものは何も無いからです。
その二つには部分的にも共通する所はなく、いわば両極端にあるので和解できず、両方とも真実だということも有り得ません。
あなたには罪悪感が有るか無いか、束縛された身かそれとも自由な身か、不幸せか幸せか、そのどちらかに違いありません。
ACIM-Text- chapter14-3-5
奇跡は、あなたが罪悪感を抱かずにいること、ならびに解放感と喜びを選んだということを教えてくれます。
それは原因ではなくて、結果に過ぎません。
正しく選べば自然とそうなるのであり、罪悪感から解放されることを選べば自分は幸せだと思えるということを証明しています。
誰かに癒しを差し出す度に、かえって自分が癒されます。
誰かを攻撃すると、どの人も皆そのことであなたを非難し恨み続けます。
相手が実際にそうするかしないかは問題ではなく、自分でそうされるものと思い込んでしまいます。
自分が望まないことを人にしておいて、こんな頭痛の種を抱えずにいるのは不可能なことです。
与えれば必ず何かを受け取ることになります。
自分を悩ます頭痛の種か、大事にするつもりで喜んで手に入れたい宝物か、二つにひとつです。
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頭痛の種になるようなことがあるとすれば、それは神の子が自分勝手に蒔いたとしか考えられません。
癒すきっかけを与えられる度に、それが闇を光にかえ、恐れを愛に置きかえる新たな機会となります。
もし拒否すれば、自分自身を暗闇に閉ざすことになり、それは自分の兄弟を解放し一緒に光のなかへ入ることを選ばなかったからです。
実在しないものに権力を預けると、そんなものには何の力もないということが分かってくる喜ばしい機会を捨てるようなものです。
それに暗闇を払いのけずにいて、暗闇にも光にも恐れを抱くようになってしまいました。
暗闇には神の子を支配する力などないと分かれば喜びが湧き上がるし、このような嬉しい教えを聖霊は自ら教え、あなたにも一緒に教えさせてくれます。
聖霊はそれを喜んで教えるし、あなたも同じ喜びを味わえることでしょう。
ACIM-Text- chapter14-3-7
このような分りやすいレッスンを教える方法はただ一つ、罪悪感を抱かずにいれば傷つけられることもない、教えることです。
したがって、自分は傷つけられることなどないと、全ての人にはっきり見せなさい。
誰かがあなたにどんなことをしょうと、自分は傷つけられることなど絶対にないと確信じていれば、その相手自身に罪がないということを示していると教えなさい。
その人にはあなたを傷つけるようなことなど何もできなく、できると思わせておくことさえ否定すれば、あなたが自分自身のために受け入れた贖罪はその人のものでもあると教えることになります。
赦すべきことは何一つありません。
誰一人として、神の子を傷つけることのできる者はいません。
誰にも罪悪感を抱く根拠、つまり原因は全くなく、原因がなければ罪悪感は無いはずです。
ACIM-Text- chapter14-3-8
神こそ唯一の原因といえますが、罪悪感の基は神ではありません。
「あなたのせいで胸の痛む思いをしている」などと、誰にも教えたりしてなりまぜん。
それをすれば神がその因ではないものに自分は支配されている、と自分自身に教えることになるからです。
原因のないものが存在する筈はありません。
そんなことのために証明したり、そんなことを誰かの心に思いつかせて信じ込ませたりしてはなりません。
心は一つ、原因は一つ、いつもこれを思い出しなさい。
この唯一たるものと意思の疎通をするようになれるとすれば、それは原因のないものを否定できるようになり、神の原因を自分のものとして受け入れるだけです。
神が神の子に授けた力は確かに神の子のものです。
しかし、何か他のものを見たり心を傾けたなら、聖霊が喜んで教えてくれる全ての嬉しい教えのかわりに、罪悪感のような悩みの種を背負わざるをえなくなってしまいます。
ACIM-Text- chapter14-3-9
自分のためになるように選んでものごとを決めようとする度に、あなたは破壊的な考え方をしており、誤って決断することになります。
自分なりの決断についての概念でその決断に至ったので、自分が傷ついてしまいます。
自分だけで決断したり自分だけのために決断したりできるというのは真実ではありません。
神の子の想念が及ぼす影響が別々だったり、孤立したりすることは有り得ません。
どの決断も神の子の身分、その内外にむけて、全体のために下され、自分で夢見る何よりも大きな一団に影響を及ぼすことになるのです。
ACIM-Text- chapter14-3-10
贖罪を受け入れる者は絶対に傷つけられることはありません。
ところが、罪悪感を抱くに値すると信ずる者はその感情に応じてしまいます。
というのはそれこそ救いだと思うからで、否定するどころか支持するようになります。
罪悪感を増せば自己防衛になるとも信じています。
そのうえ、自分の望まないことは自分を傷つけずにはおかないという単純な事実を理解できないでしょう。
こうしたことが全て起きてしまうのは、自分の望むことがいいことだとは信じていないからです。
しかし、意欲、すなわち意志の力は、神聖であるからこそ与えられたのであり、必要なものを全て伴って自然に、まるで 限りなき平安のように湧き出てきます。
自分にとって何らかの価値があるもので、意志の力で手に入れられないものは何一つありません。
ところが、自分の意志というものを理解していないので、聖霊がそっと代わりに理解して望みのものを与えてくれるわけです。
それもそのために努力したり、無理をしたりすることもないばかりか、自分が何を望み必要とするのか、それを一人で決めるという、とんでもない重荷を背負う必要もないのです。
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