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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編14章 「真理をめざす教え」より
14章14-5 贖罪の輪
ACIM-Text- chapter14-5-1
あなたの心の中で唯一真実の姿を保っている部分は、今でもあなたを神とつないでいる部分です。
一部といわず全部を光り輝く神の愛のことづけを伝える心に変えてもらい、神を否定して淋しい思いをしている者たち全ての人と分かち合いたいとは思わないでしょうか。
神はきっとこれを可能にしてくれます。
神が分かってもらいたいと切に願っているのに、それを拒めるでしょうか。
神があなたのことを思っているように、あなたの心も神に憧れています。
これは永遠に変わりません。
では、永久不変なるものを受け入れることです。
死の世界を後にして、静かに天国へ戻りなさい。
ここには価値のあるものなど何一つありませんが、価値のあるものは全て天国にあります。
聖霊に耳を傾け、そうすることで神に聞き入ることです。
聖霊はあなたのことを本当にあなたに話してくれます。
あなたには罪悪はありません。
なぜなら、神は神の子のうちにて祝福されており、同様に神の子は神のうちにて祝福されているからです。
ACIM-Text- chapter14-5-2
誰もみな贖罪において果たすべき特別な役がありますが、各自に与えられたメッセージは全部同じ、神の子に罪悪感はないということです。
一人ひとりそのメッセージの教え方は違うし、習い方も異なります。
ただそれを教え、また習うまでは、自分の本当の機能を果たさずにいるような気がして、胸が痛むでしょう。
罪悪感に悩まされ気は重くなりますが、神はあなたがそれに束縛されたままにはしません。
あなたが目覚めるために神が計画していることは完璧である半面、あなたのには間違いを免れないことは確実です。
あなたは自分のしていることが分かっていませんが、ちゃんと分かっている存在が傍らいてくれます。
その存在の優しさはあなたの優しさであり、あなたが神と分かち合う愛は全て、その存在があなたのために預かっておいてくれます。
そのうえ、どうすれば幸せになれるかということ以外には、何一つ教えようとはしないでしょう。
ACIM-Text- chapter14-5-3
全てを祝福する父に祝福された子よ、喜びはあなたのためにこそ創造されたのです。
神の祝福を受けた者を誰が咎めることが可能でしょうか。
神の御心のうちには神の光輝く罪の無さを分かち合わないものは何一つありません。
創造されたものは全き清らかさが自然に拡張したものだと言えます。
いまここであなたが成すべき唯一の天職は、積極的な気持ちで、罪悪感がどんな形で現われようと、それを全て否定するために専念することです。
誰かを咎めるということは、理解しようとしていないということになります。
贖罪を喜んで学ぼうとする者は、神に創造された全てのものの権利である罪の無さを教える者となります。
当然与えられるはずのものを拒んだりしてはなりません。
その権利をもつ者に与えずにおくだけでは済まないからです。
ACIM-Text- chapter14-5-4
神の国を受け継ぐのは神の子の権利であり、それは創造されたときに授かりました。
その権利を盗み取ろうとしないことです。
さもないと罪悪感を求めているようなもので、そんな思いを味わうはめになります。
神の子の清らかさを、盗み隠して見えなくするようなどんな思いからも、守りなさい。
贖罪への呼びかけに答えて、罪の無さを光へともたらしなさい。
決して、清らかさを隠れたままにさせることなく、神の子が自分自身を見えないように隠している罪悪感という重苦しいベールに光をあてて、それを取り除くことです。
ACIM-Text- chapter14-5-5
私達はみな、ここでは贖罪のうちに心を一つにしているのであり、この世界で私達を結びつけられるものは他には何もありません。
そして分離した世界はいつのまにか過ぎ去り、父と神の子の間に完全な意思の疎通が回復されるでしょう。
そもそも罪悪感のない姿を否定したがために癒しを必要とするようになった訳で、奇跡とはその罪悪感のない姿を認めることです。
こうした姿を喜んで承認したい気持ちを抑えたりしてはなりません。
幸せになれる希望やありとあらゆる苦しみから解放される希望がそこにあるからです。
苦痛から逃れたいと願わない者が何処にいるでしょうか。
いるとすればその人はまだ、どのようにすれば罪悪感を潔白だという気持ちに変えられるか分っていないばかりか、それを交換しさえすれば、自分が痛みを味あわずにすむようになると悟っていないのかもしれません。
しかも、それをまだ習っていないからといって、その人たちを攻撃するのではなくて、教えてあげる必要があります。
教わる必要のある人を攻撃すれば、その人たちから何かを習い損ねることになってしまいます。
ACIM-Text- chapter14-5-6
罪の無さについて教える者たちはお互いにつながりをもっており、それぞれ自分のやり方で、贖罪のための統一された履修課程における自分の役割を担っています。
これから逸れた学習目標には統一性がありません。
この履修課程には何一つ矛盾がないし、どんなふうに教えようとも目指すところはひとつです。
それに向かって努力する度に、唯一の目標である罪悪感からの解放と、神と神に創造されたものの永遠なる栄光のために助力しているのだと言えます。
こうしたことを指し示す教えはことごとく、天国と神の平安にまっすぐ向かっています。
どんな苦痛や困難や恐怖であろうと、これを教えようとして乗り越えられないものはありません。
神自らの力がこの教えを支持し、無限の成果を保証しています。
ACIM-Text- chapter14-5-7
あなた自身の努力を、失敗することなく必ず心の平安をえられるという力に、加えなさい。
これほどの教えに影響されない者がいるはずはありません。
ただこれを教えさえすれば、自分は神の力も及ばない存在だと見なしたりしないでしょう。
このような最も神聖な教えの影響をあなたが受けずには済まないだろうし、この教えはただ神に創造されたものの当然の権利を元通りにしようとしているだけです。
あなたが罪悪感から解放することになる相手、その一人ひとりのお陰で自分の罪の無さがわかってくるのは必然的です。
贖罪の輪に終わりはないのです。
その安全で申し分ない平安が得られる輪の中には、あなたが連れてきた全ての人と一緒に、自分も無事に入っているという確信が、徐々に増してくるのが分かります。
ACIM-Text- chapter14-5-8
では、心の平安を教えようとする者、その一人ひとりに心の平安を願いましょう。
なぜなら、心が平安であるとは全き罪の無さを承認することだからです。
そして、誰一人、その罪の無さから除外されることはないのです。
その神聖な輪の中には、神に神の子として創造された者が一人残らずいます。
その輪が一つに結ばれているというところに喜びがあり、誰ひとり仲間外れにされて罪悪感に苦しむものはいません。
神の力で全ての人がそこに引き寄せられ、愛に包まれて心は一つとなり安全だと感じます。
静かにこの輪のなかに立って、その平安で神聖なるがゆえに安全なところにいるあなたに加わるようにと、心をひどく痛めている全ての人を引き寄せなさい。
ACIM-Text- chapter14-5-9
私と一緒に、罪悪感ではなくて贖罪について教える教師として、そこに留まりなさい。
私と一緒に教える者は幸いです。
私達の力は自分の中からくるのではなく、父から頂くものです。
父は私達に罪悪感はないと分かっており、罪悪感を抱いていない状態の中でなら私達にも父が分かります。
私は贖罪の輪のなかに立ち、あなたを平安へと呼んでいます。
私と共に教え、一緒に聖なる地に立ちなさい。
父は自らの力を一人ひとりに授けられたということを、全ての人のために思い出しなさい。
神のこの上ない平安を教えることなど、自分にはできないと信じたりしないようにしなさい。
外側に立っていないで、中に入って私に加わりなさい。
私の教えがあなたに携わるようにと求める、唯一の目的を果たし損ねることのないようにしなさい。
神の子に潔白であることを教え、神が創造したままの姿にして、神のもとに戻しましょう。
ACIM-Text- chapter14-5-10
キリストの十字架刑は贖罪に何の関係もありませんでした。
ただ私は復活に関与しただけです。
それは罪悪感のない状態にあることで罪悪感から解放されることを象徴しています。
あなたは誰かに罪があると見て取るなら、その人を十字架刑にしようとするでしょう。
その半面、罪はないと見れば、その人を罪悪感のない状態に戻すことになります。
自我はいつでも十字架刑にすることを目指します。
誰にでも罪があると見なし、非難して殺してしまおうとします。
聖霊はただ罪悪感のない状態を見て、穏やかに恐れから解放し、愛がものごとを動かす主力となる状態に戻してくれます。
愛の力というものが 聖霊の穏やかさの中にあり、それは神からのものなので、それは十字架刑にはできないばかりか、そのために十字架刑になることもありません。
自分で建て直す宮が自分の祭壇になるというのも、あなたが再建したからです。
そしてあなたが神に捧げるものは全て自分のものです。
かくして神は創造し、したがってあなたも建て直さなければならないのです。
ACIM-Text- chapter14-5-11
あなたは他の人を見るごとに、十字架刑が妥当かそれとも償いに値するかどうかと裁きを下し、その人を聖なる贖罪の輪の中に入れたり、外に置き去りにしたりします。
その人をその清らかな輪のなかに連れてくれば、自分も一緒にそこで休息できるでしょう。
もし外に置き去りにするなら、そこに自分も留まることになります。
気持ちが落ち着いているとき以外は裁きを下したりしないことです。
それにそうした心境には自分でなれるものではありません。
誰のことにせよ、その人は贖罪の恩恵を受けていない人だと認めるのを拒否した上で、その人を祝福しそこに入れてあげなさい。
神聖なる姿は分かち合われなければなりません。
そうするうちにこそ神聖にするもの全てが見いだされるからです。
聖なる輪に喜んで加わり、そこから、自分は外にいると思っている全ての人を、やすらかな気持ちでながめてみるといいでしょう。
誰一人追い出したりしないようにしなさい。
なぜなら、あなたと一緒で、その人の探し求めるものがここにあるからです。
さあ、私達全ての人のものであるその神聖な平安の場で、平安の原因たる存在のうちに心を一つにして、その人に加わることにしましょう。
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