Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編「14章 真理をめざす教え」より
- 14章14-10 奇跡の同等性
- ACIM-Text- chapter14-10-1
- ACIM-Text- chapter14-10-2
- ACIM-Text- chapter14-10-3
- ACIM-Text- chapter14-10-4
- ACIM-Text- chapter14-10-5
- ACIM-Text- chapter14-10-6
- ACIM-Text- chapter14-10-7
- ACIM-Text- chapter14-10-8
- ACIM-Text- chapter14-10-9
- ACIM-Text- chapter14-10-10
- ACIM-Text- chapter14-10-11
- ACIM-Text- chapter14-10-12
- 14章14-10 奇跡の同等性
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編第14章「真理をめざす教え」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編「14章 真理をめざす教え」より
14章14-10 奇跡の同等性
ACIM-Text- chapter14-10-1
神とその創造したものとの間、または神の子供たちとその創造したものとの間を知覚することで妨げなければ、創造の叡知は永遠に続くはずです。
時間の内で、自分の心の鏡に何を反映させるかで、永遠の世界に近づいたり、遠ざかったりします。
ただし、永遠なるもの自体は全ての時間を超越しています。
それを反映するものはあなたの中にあるので、その助けを得て時間から抜け出し永遠なるものに手を伸ばしなさい。
聖なるものを反映するものが、一人ひとり全ての人に罪悪感を捨てるようにと呼びかけるのは確実であり、同様にあなたも確実に時間から聖なるものに心を向けるでしょう。
天国の平安をここに反映し、この世界を天国へと向かわせなさい。
真理を反映するものは全ての人を真理へと引きつけるのであり、その真理の一部になればそれの反映はみな置き去りにしていくのです。
ACIM-Text- chapter14-10-2
天国では、実在は反映されるのではなくて、分かち合われます。
ここではその反映を分かち合われ、神の子はその真実性のみを知覚し受け入れるようになります。
こうして、自分の父のことを徐々に思いだすようになり、もはや自分自身の真実の姿以外にはどんなものにも満足できなくなります。
地上にいるものは制限のない状態というものの概念がありませんが、それは自分が住んでいると思える世界には色々な制限があるからです。
この世界では、本当に何かが難しさの順序を伴わずに起こるとは言えません。
したがって、奇跡には独特の役目があり、他の世界の法則をこの世界にもたらすという無二の教師によって動機づけられます。
奇跡は一つ、順序というもの を超越して、あなたにできるわけですが、それがなぜできるかというと、ものごとの相違点ではなくて同等である点に基づいて行われるからです。
ACIM-Text- chapter14-10-3
奇跡と奇跡が競い合うことはなく、あなたが行える回数に限度はありません。
そして、同時に多数行えます。
こうしたことは、一旦奇跡そのものが可能だと少しでも想像できさえすれば、理解しにくいことではありません。
何がもっとわかりにくいかというと、難しさの順序を欠くということ、それが奇跡はここからではなくてどこか他のところからきたものにちがいないと印象付けます。
この世界のものの見方からすると、そんなことは有り得ないことです。
ACIM-Text- chapter14-10-4
多分、あなたは自分には色々な思いがあっても、そうした思いが競い合ってなどいないことに気づいているでしょう。
たとえ矛盾していても、いろんな思いが一緒に数多く生じることがあるものです。
実のところ、こんなことにはすっかり慣れていて、少しも驚いたりしないかもしれません。
しかも、自分の思っていることをみてみて、これは他のよりもっと重要だとか、度量が広いとかもっといいとか、より賢明だとか、より生産性があって貴重だ、などと分類することにも慣れています。
こうしたことは、離ればなれに住んでいると思っている者の心を横切る思いについても、同じことが言えます。
それというのも、そのうちのいくつかは天国を反映する思いだったり、他のはただ考えているように見せかける 自我に刺激された思いつきだったりするからです。
ACIM-Text- chapter14-10-5
その結果は、あっちについたりこっちについたり、全く落ち着きがなく、じっとしていたためしがないということの繰り返しです。
自分の心の鏡に映るものは絶え間なく移り変わり、天国の反映が今見えたかと思うと、すぐに暗闇が覆い隠すのでぼやけてしまいます。
光を目にしたと思ったとたん暗闇に覆われてしまい、自分の心を絶え間なく光と暗闇が交互に横切っていきます。
まだほんの少し残っている正気は自分で確立する秩序ある思いで保たれています。
しかも、事実あなたにこれができ、混乱状態になんらかの秩序をもたらせるということは、あなたは 自我そのものではないし、 自我以上のものが自分の中にあるに違いないということを示しています。
自我というものはまさに混乱しているので、もしそれがあなたの全てだとしたら、秩序ある状態など全く不可能でしょう。
ただし、自分の心を無理に秩序あるものにしようとすると、それで 自我を制限できますが、自分を制限することにもなります。
秩序をもたらすとは、判断を下してその判断に従い取り決めることです。
したがって、それはあなたの役目ではなく、 聖霊の役目です。
ACIM-Text- chapter14-10-6
自分の思いを整理しようにも、何に基づいてすればいいのか皆目見当がつかないと分かるようになるのは容易ではないと思えます。
これが分かるようになるために、 聖霊は際だった奇跡を例にあげてあなたの整理の仕方は間違っていることを示し、よりよい方法が提案されているということを教えてくれます。
奇跡は、助けを求める呼びかけがある度に、そのどれにも全く同じように対応します。
呼びかけに審判を下したりはしません。
単にそれが何の呼びかけなのかに気づき、求めに応じて答えるだけです。
他のと較べて、どの呼びかけがもっとうるさいとか、重大だとか、より重要性があるなどといったことを考慮しません。
いまだに判断することに拘束された身であるものが、自分自身の判断を必要としないことをするように求められるとは、どうしたことかと不思議に思うかもしれません。
その答えは極めて簡単です。
あなたの力ではなくて、神の力が奇跡を生じさせるのです。
奇跡そのものはただ、あなたが自分の中に神の力をもっていることを証明するに過ぎません。
それで、奇跡は祝福を分かち合う者全員を平等に祝福するわけであり、また一人残らず全ての人が祝福を分かち合えるわけでもあります。
神の力は無限です。
そしていつも最大限の力で応じるので、誰かから呼びかけられるたびに全てを差し伸べようとします。
ここには、難しさの順序はありません。
助けを呼び求めれば、助られるのです。
ACIM-Text- chapter14-10-7
一つ審判を要するのは、 聖霊がこうした呼びかけを二種類に分けるときで、一つは愛の呼びかけ、もう一つは愛を求める呼びかけとして区分します。
あなたにはこの区分がはっきりできません。
それは頭が混乱しすぎていて愛そのものも見分けられず、他のものは全て愛を求める呼びかけに他ならないとは信じられないからです。
あなたは表に現われる形にとらわれすぎて、中身を全く問題にしません。
中身だと思い込んでいるものは全く中身ではありません。
それは、単なる形、ただそれだけです。
というのも、兄弟の一人が本当に差し伸べてくれているものには反応せずに、ただ差し出されたものを特定の知覚のしかたで 自我が判断したことに対して反応するだけだからです。
ACIM-Text- chapter14-10-8
自我には内容を理解することはできないし、それに全く無関心でいます。
自我にしてみれば、形式が気に入れば中身も気に入るに違いないだろうと言います。
形式が気に入らない場合には、それを攻撃しようとします。
もし、あなたが自分では 自我の「原動力」とやらを多少理解していると信じているとすれば、あなたは何一つ理解してなどいないことは確実です。
なぜなら、あなた一人では理解できるはずがないからです。
自我の探求は、心の探求ではありません。
実のところ、 自我は 自我自体を喜んでで探求し、生徒たちが 自我の「分析」を試みようとすると、それは 自我の重要さを承認していることになるので、その試みには大賛成します。
ただし、生徒たちは中身には何の意味もない入れ物を探求するだけのことです。
教える教師が愚かなので、こんな事実を印象的な響きをもつ言葉をならべて上手に隠してはいますが、そんな言葉を文章にしてみようとすると首尾一貫した意味を欠いています。
ACIM-Text- chapter14-10-9
こうしたことが、 自我の判断力による結論の特徴と言えます。
一つひとつの結論は成り立つように見えますが、一緒にしてみたときに浮き彫りになる思考体系はつじつまが合わず全く支離滅裂です。
形式だけでは意義を見いだすのに十分ではないし、基礎となる内容が欠けているので、結合力のある体系にするのは不可能です。
したがって、 自我は好んで分離状態にとどまろうとします。
自分ひとりでは、 自我を真実にそって裁くことができるものなど一人もいません。
ですが、二、三人が心を合わせて真理を探し求めようとすれば、 自我は自らの内容を欠くことをもはや弁解できません。
心を一つにしたという事実が、その人たちに 自我は真実ではないということを示しています。
ACIM-Text- chapter14-10-10
人にわからないように自分ひとりで神を思いだそうとしても、それは不可能です。
神を思い出すとは、自分は一人分離してはいないという意味なのであり、そのことを思いだそうとする気持ちになることだからです。
どんな思いにせよ、それを自分のものとしないことです。
というのも、あなたが抱く思いは、何一つあなた自身のものではないからです。
もし、あなたが父を思い出すつもりなら、 聖霊に自分の思いを整理してもらい、 聖霊が答えてくれるように答えるだけでいいのです。
誰もが皆、あなたと同じように愛を捜し求めていますが、その人に愛というものが分かるようになるのは、あなたと心を一つにして捜す気になった時だけです。
もし、あなたが一緒になって捜し始めれば、本当に強力な光を伴っていくので、目にするものに意義を見いだせるでしょう。
一人旅は、途中で見つけるものを独り占めすることになるので、失敗に終わってしまいます。
ACIM-Text- chapter14-10-11
神が、あなたの内なる 聖霊と意思の疎通をするように、 聖霊は神が意志表示することを、あなたを通して説明してくれるので、あなたにもそれが理解できます。
神は伝えようとすることを秘密にすることはありません。
神に属するものは全て全ての人のものなので、全部公になっており、自由に誰でも手に入れられるようになっているからです。
秘密の状態に生きるものは何一つないし、あなたが 聖霊から隠そうとするものは実在しないものです。
兄弟のことを、自分であれこれ解釈しようとするのは愚かなことです。
聖霊にその兄弟を見せてもらい、その人の愛と愛を求める呼びかけの両方を教えてもらいなさい。
兄弟の心にもあなたの心にも、こうした二つの思い以外は何も抱かれてはいません。
ACIM-Text- chapter14-10-12
こうしたことが真実だと再認識することこそ、奇跡です。
愛があるなら、あなたの兄弟はあなたを愛さずにはいられません。
それが愛というもからです。
その半面、愛を求めて呼びかけられたら、あなたはそれに応じずにはいられません。
それがあなたの本来の姿だからです。
以前私が言ったように、この奇跡のコースの教えはあなたに自分が何であるかをいかにして思い出せるか教えるし、自分の真の身元というものをあなたに再び自覚させてくれます。
この真の身元は、分かち合われるものだということはすでに学びました。
それを分かち合う手段となるのが奇跡です。
あなたの真の身元が気づかれていないところがあれば、どこでもそのことを付け加えれば、あなた自身、それに気づくことでしょう。
そして、神自身、永遠に神の子と居るつもりでいるので、神の子がそれを再認識する度に、神の子に対して抱いている愛を全て注いで祝福してくれるでしょう。
それに、あなたが神の子に奇跡を差し伸べる時に、全ての愛の力がどの奇跡にも伴わ無いはずがありません。
では、どうしてそうした奇跡に難しさの順序などあり得るでしょうか。
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編第14章「真理をめざす教え」目次