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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編16章「幻想を赦す」より
16-2 神聖なるものの力
ACIM-Text- chapter16-2-1
あなたは未だに、神聖さというものをどうしても理解しかねると思っているかもしれません。
それはどうして神聖さを全ての者を含むように拡張できるのか分らないからです。
そのうえ神聖になるには全ての人が含まれなければならないと言われてきました。
神聖さを拡張するということについてあなたが心配するには及びません。
あなたには奇跡の本質というものも理解できないからです。
それにあなたが奇跡を行うわけではありません。
奇跡はあなたの知覚の限界をはるかに越えて広がっており、あなたが行っているのではないことを実証しています。
奇跡そのものを理解できないというあなたが、奇跡はいかにして神の子としての身分にある全ての人に広がるのか、と気をもむ必要などあるでしょうか。
その一属性を理解するのは、その全体を理解するのと同様難しいことではありません。
そもそも奇跡が確かに奇跡だとすれば、その属性は奇跡的なものであるはずです。
属性とはそれに属するものだからです。
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ものごとを断片的にみておいて、全体のほんのわずかな部分の真実性に関心を持つ傾向があります。
これは単に全一性を避け、それから目をそらしておいて、もっと自分に分りやすそうだと思えるものを捜そうとする方法に過ぎません。
こんな方法は、あなたがまだ自分一人で何でも理解しようと試みているもう一つの手段だからです。
奇跡についてのより良い、はるかに役立つ考え方は、自分には部分的にも全体的にも理解できるものではない、と考えることです。
それでも奇跡はあなたを通して行われてきました。
したがってあなたの理解を必要としてはいないはずです。
しかし自分に理解できないことは、やはり達成するのが極めて難しいでしょう。
ということは、理解していることは確かだといえる何かが、あなたの内なる存在があるに違いありません。
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あなたは奇跡というものが自然だとは思っていません。
それはあなたが自分の心を傷つけるようなことをして、本当に不自然なものにしてしまったので、何が自然なのか心は覚えていないからです。
だから自然なことを言われても、理解できないでいます。
ある部分を全体だと認識し、一つひとつの部分に全体が含まれていると認識するのは実に自然なことだと言えます。
それが神の考え方なのだし、神にとって自然なことはあなたにとっても自然です。
全く自然な知覚は、奇跡に難しさの順序など絶対に有り得ないことを一瞬のうちに見せてくれるでしょう。
それが有るとすれば奇跡の意味に矛盾があることになるからです。
そしてもしあなたにその意味が理解できたなら、奇跡の属性に当惑させられるようなことはまずないでしょう。
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あなたは何度も奇跡を行ってきました。
しかし一人でしたのではないことは極めて明白です。
もう一つ別の心を動かし、その心と一つになった時にはいつも成功しました。
二つの心が一つに結ばれ、一つの想念を同じように分かち合う時、神の子としての身分にある者は一体であると自覚するための、最初のつながりができたことになります。
聖霊にさそわれるがままにこうした絆を結び、それを 聖霊の思いどおりに使ってほしいと差し出せば、 聖霊はあなたの贈り物を自然に知覚して理解でき、あなたは 聖霊の理解力を自分のために使うことができます。
あることを自ら進んでやったのですでに完了しているのは明らかであり、それが真実の姿だとしても、本人がそれを自分で理解しなければならないし、理解できなければ本物ではないと信じるうちは、その真実を納得させるのは不可能です。
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真実の姿を真実でなくしようと自分で決断している間は、実在を信頼しようとしてもできるはずがありません。
それに幻想を真実の姿だとして固執することが、真理をあるがままに喜んで受け入れ、それに感謝を捧げるより安全だと本当に言えるでしょうか。
自分に与えられたその真理に敬意を表し、理解できないとしてもそれを喜びなさい。
奇跡は神に代わって話す存在には自然なことです。
その存在に課せられた仕事は、奇跡というものを、それが示されていてもあなたには隠れたも同然になっているといえる叡知に変えることです。
その存在が奇跡を理解していることであなたは満足しなさい。
そしてその存在が自らの真実の姿を証明してもらおうとあなたのところに差し向けられた人びとに背を向けたりしてはなりません。
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自分の望んでいないことは、それが真実だといくら証拠を持ち出してもあなたは納得しないでしょう。
しかしあなたとその存在との関係は本物です。
これに恐れを抱くかわりに喜びなさい。
あなたの頼んだその存在はまさにあなたのそばにいます。
歓迎のあいさつをしなさい。
そしてその存在が来られたとのよい知らせをもたらす証人たちに敬意を表することです。
確かに、あなたが恐れているがごとく、その存在を認めるとなると、自分が知っていると思うことを全て否定することになるというのは本当です。
しかし、あなたが知っていると思い込んでいることが真実であったためしはありません。
そんなことに固執して、真理の証明になるものを否定して何の得になるというのでしょう。
あなたは今になってその真理を放棄するには、あまりにも近くまで来すぎているので、その思わず釣り込まれそうな魅力に抵抗しきれなくなるでしょう。
この時が来るのを今しばらくは遅れさせられますが、それはもう少しの間だけのことです。
神のもてなし役はあなたに声をかけ、そしてあなたはそれを耳にしました。
耳を傾けたくもないと全面的につっぱねることなど絶対に二度とできなくなります。
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今年は喜びの年となり、あなたはだんだんと耳を傾けるようになっていき、それにつれてますます心の平安が増していく年です。
神聖なるものの力というものと、攻撃することの弱さというものの両方を自覚させられます。
こうしたことが神聖さは弱みで攻撃が力につながるものと信じて疑わない心のなかで達成されたのです。
これが、あなたの教師はあなた自身から来たのではない、ということを教えるには十分な奇跡ではないでしょうか。
しかも、あなたがその教師の説明を聞き入れたときにはいつも、結果的にはそれが喜びをもたらしてくれたことも思い出して欲しいのです。
自分の解釈の結果がどうだったか正直によく考えてみたうえで、そっちの方がよかったというでしょうか。
神の意図していることはそれよりましです。
あなたには神が完全な愛を持って愛している人をもっと深い同胞愛で見られないものでしょうか。
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神の愛に逆らうような解釈をしてはなりません。
その愛についてはっきりと証言するものが大勢いるので、目の見えない人や耳の聞こえない人でない限り、その証人たちが見えないとか聞こえないはずがないからです。
今年こそ、神に授かったものを否定しないと決断しなさい。
目を覚ましてこうした授かり物を分かち合いなさい。
そうするためにのみ神はあなたを呼んでいるからです。
神の声は、はっきりと話したのに、あなたは自分の聞いたことをほとんど信用していません。
それというのもできれば自分がでっち上げた災難のほうをもっと本気で信用したいと思うからです。
今日この日、災難は真実ではないし実在は災難を被ってなどいないという喜ばしい知らせを受け入れると、一緒に決断しましょう。
実在には何事もなく確実であり、それは全ての人とあらゆるものに対して本当に優しいのです。
こうしたことを受け入れて喜ぶことほど素晴らしい愛はほかにありません。
なぜなら、愛はあなたの幸せだけを願っており、幸せになるのに役立つものは全て与えてくれるからです。
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あなたには今までどんな問題があっても、それを 聖霊に渡せば、解決してもらえなかったというためしはないし、これからもないでしょう。
あなたは自分自身でなんとか解決しようとしたことはありますが、一度も成功したことがありません。
そろそろこうした事実を照らし合わせてみて、それが何を意味するか考えたらどうでしょうか。
今年こそ、あなたに与えられた思いや考えを応用してみるのにいい年です。
そうした想念というものは強い力であり、利用するためにあって、使わずに持っておくものではないからです。
そうした想念に伴う力はすでに十分証明されているので、それを否定するより信頼してもいいと思えるはずです。
ことしは真理に投資することにして、心に平安をもたらしてもらいなさい。
あなたを信頼している存在を信頼することです。
自分が実際に何を目にし耳にしたのか考えて、それを認めなさい。
これほどの証人がいるというのに、あなたは一人ぽっちでいられるでしょうか。
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