Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編16章「幻想を赦す」より
- 16章16-5 完成への選択
- ACIM-Text- chapter16-5-1
- ACIM-Text- chapter16-5-2
- ACIM-Text- chapter16-5-3
- ACIM-Text- chapter16-5-4
- ACIM-Text- chapter16-5-5
- ACIM-Text- chapter16-5-6
- ACIM-Text- chapter16-5-7
- ACIM-Text- chapter16-5-8
- ACIM-Text- chapter16-5-9
- ACIM-Text- chapter16-5-10
- ACIM-Text- chapter16-5-11
- ACIM-Text- chapter16-5-12
- ACIM-Text- chapter16-5-13
- ACIM-Text- chapter16-5-14
- ACIM-Text- chapter16-5-15
- ACIM-Text- chapter16-5-16
- ACIM-Text- chapter16-5-17
- 16章16-5 完成への選択
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編16章「幻想を赦す」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編16章「幻想を赦す」より
16章16-5 完成への選択
ACIM-Text- chapter16-5-1
特別な関係を見てみようとする時、まずそうした関係にはかなりひどい苦しみを伴うということを、十分に理解しておく必要があります。
不安になり、絶望し、罪悪感や攻撃心を抱く、こうしたことが全てそれに入り込みます。
ただそうした思いを忘れていられる時期もあるにはあります。
そうしたことは全部、もともと何なのか理解しなければなりません。
それがどんな形を取るにせよ、みな自分を攻撃しているのは確かで、そうすることで相手に罪悪感を抱かせようとします。
私はこれについて前にも述べおきましたが、それ以外に何を本当にしようとしているのか、まだ触れていない点がいくつかあります。
ACIM-Text- chapter16-5-2
極めて簡単にいえば、罪悪感を抱かせようとする企ては必ず神に背くように仕向けます。
自我は、神にのみ罪があるとあなたに見させておいて、神の子としての身分にある者たちを攻撃しやすく、無防備のままにしておこうとするからです。
特別な愛情関係は、 自我があなたを天国から遠ざけておくために使う主要な武器です。
武器のようには見えませんが、もし自分がそんな関係をどれほど大事にするか、またそれはなぜかよく考えてみれば、そうに違いないと悟るでしょう。
ACIM-Text- chapter16-5-3
特別な愛情関係は、 自我がもっとも自慢する贈り物で、罪悪感を放棄する気のない者たちが一番魅力を感じるものでもあります。
自我の「原動力」ともいえるものがここで何よりもはっきりしています。
こんな捧げ物の魅力を当てにして、それを取り巻くいろいろな空想は極めて公然としていることがよくあるからです。
ここでは普通、そうしたことは好ましくて自然なことだとさえ判断されています。
愛すると同時に憎しみを抱いていても誰ひとり変だとは考えないし、憎むことは罪だと信じる人でも罪悪感を感じるのみで、憎むのをやめようとはしません。
これが分離しているものの「自然な」状態だとし、かえってそんなことは少しも自然ではないと分ってきた者のほうが異常だと思われます。
この世界は、まさしく天国と反対であって、そうなるように作られたわけであり、この世界の全てのものは真実であるものと正反対の方向に向かっています。
天国では、愛の意味は分っており、愛とは一つに結ばれるということです。
ここでは、愛だと錯覚していることが愛の代わりに受け入れられており、愛するとは分離し締め出すことのように見なされています。
ACIM-Text- chapter16-5-4
特別な愛情関係は、神に特別に愛されたいという胸に秘めた願いから生まれるのですが、そんな関係においてこそ 自我の憎悪感が勝ち誇ることになります。
特別な愛情関係は、公に神の愛を放棄しているようなもので、神は特別扱いしないので、こうした関係をもつことで自分を特別扱いしてもらえるようにしようとするわけだからです。
自我を保護するためには、特別な関係にあるのは地獄ではなくて天国にいるようなものだ、とあなたが信じることが不可欠になります。
自我は、分離するとは失う羽目になるだけだということをあなたには絶対に見せたがりません。
それというのも、天国はそんな状態になれるはずがないからです。
ACIM-Text- chapter16-5-5
誰にとっても天国は完成を意味します。
これに異議を唱えるものはいないはずです。
しかしながら、完成とは何かとか、どのようにして達成されるのかとか、これについて双方の意見は全く食い違っています。
聖霊は、完成された姿はまず一つに結びついた状態のうちにあり、次にその状態を拡張させるところに見いだせるものと分っています。
自我は、自らが勝ち誇れる時、またその「勝利」を拡張していき、最終的には神を打ち負かすに至ったときに完成を見いだします。
こうなった時にこそ、 自我自体は究極的な自由を得たものと見なし、それは 自我の邪魔をするものは何も残っていないと思うからです。
これこそ 自我にとっては天国至極となります。
ということは、一つに結びついた状態においては、 自我は邪魔ができず、それゆえそこは地獄に違いありません。
ACIM-Text- chapter16-5-6
特別な関係は、 自我が地獄と天国を一緒にして区別ができなくするために使う奇妙で不自然な手段です。
そうしてその二つの世界の「一番良いところ」だと想像できる点を見つけようと企てたあげく、単に両方を空想の世界にして、そのどちらをもあるがままに知覚できなくしてしまいました。
こうした混乱状態の極みが特別な関係です。
こんな関係は、いわば全てが一つに結ばれることを除外視した結合で、結合しようとするものだけが他のものを全て除外することで成り立つ関係です。
「求めよ、されど見つけるなかれ」、という 自我の処世訓の一番いい例がこれ以外にあるでしょうか。
ACIM-Text- chapter16-5-7
いろいろある中で一番不思議なのは、特別な関係の中で 自我が助長する自己についての概念です。
この「自己」は自らを完成するために関係を持ちたいと願っています。
ところが、願ったり叶ったりだと思えるような特別な関係を見つけると、その自己は自らを投げ出し、相手の自己と「交換」しようとします。
これで結合したとは言えません。
それでは増加することもなければ拡張することもないからです。
お互いに自分の望まない自己を、その代わりに欲しいと思う方を得るために犠牲にしようとしています。
そうしておいて、望みのものを手に入れるためとはいえ、その代わりに何の価値もないものを渡したという「罪」で自責の念を抱いてしまいます。
自分のより「もっといい」ものを得るためには投げ出してもいいと思っているような自己には、どれほどの価値があると見ているのでしょうか。
ACIM-Text- chapter16-5-8
自我が求める「もっといい」自己とは、必ずより特別な自己のことです。
そして、誰にせよ特別な自己を持っているように見える人は、取り上げられそうなものを持っているからこそ「愛してもらえる」とされます。
こんな特別な自己を両者が相手のなかに見つけると、 自我はこれこそ「天国で結ばれた似合いの縁組み」だと見ます。
というのは、そんな関係にある人は、どちらも自分が好んで地獄を頼んだようなものだとは気づかないので、 自我が天国だとする幻想を差し出し天国の邪魔をしようとしても、それを妨害しようとはしません。
しかし、幻想は全て恐れから生じ、それより他には何も考えられないとすれば、天国だとする幻想は一種「魅力的」な恐れの現われ以外の何物でもないのであり、その中で罪悪感は心の奥にしまい込まれ「愛」の姿で現われてくるのです。
ACIM-Text- chapter16-5-9
地獄が気にかかるようなことがあるとすれば、それはただひどく罪悪感に引かれるような思いがする時だけでしょうが、そんな思いを 自我は取るに足らないものを信頼する者に抱かせてしまいます。
どんな特別な関係にあるにせよ、それぞれに取るに足らない存在だと確信しているように見うけられるというのも、恵まれていないものだけが特別であることを重要視できるからです。
特別扱いを要求したり、特別待遇するのは愛すればこそだと見て取ったりすることなので、愛に対して憎しみを抱かせてしまいます。
特別な関係の本当の目的を 自我の目標に厳密に従っていえば、それは実在を破壊して幻想を代用するということです。
それというのも、 自我そのものが幻想であり、幻想であるものだけがその「実在性」について証明できるからです。
ACIM-Text- chapter16-5-10
もし、特別な関係は神を打ち負かすことだと知覚したなら、あなたはそんな関係を望むでしょうか。
それの恐ろしい本質とか、それには罪悪感が必然的に伴うことや、悲しい思いや寂しい思いをせざるを得ないことなど、考えないことにしましょう。
こうしたことは、単に分離しているという思いだけを信条とした信仰の結果と考えられ、そんなことが起きたと思われている全情況に過ぎないからです。
そんな信仰をもって、生け贄を捧げながら一緒に唱える祈祷の主題目は、あなたが生き残るには神が死ななければならないということです。
そして、こんな題目を特別な関係において実演するわけです。
自分の自己が死ぬことなので、あなたはもう一つの自己を攻撃できるし、それを他の者から奪って、自分の軽べつする自己と取り替えられるものと思っています。
そうしておいて、その自己が自分の要求どおりの特別なことを提供してくれないと思うようになり、それを軽べつします。
そして、その自己を憎んで、取るに足らない価値のないものにしてしまったというのも、あなたがそれに恐れを抱いているからです。
ACIM-Text- chapter16-5-11
あなたが自分で攻撃したと思っているものに、どうして無制限の力を与えることなどできるでしょうか。
真実であるものがあなたにとっては恐怖となっているので、それが弱々しくてちっぽけで、大事にする価値がないとかいうのでなければ、あえて、見てみるつもりなど毛頭ありません。
自分で作った取るに足らない自己に、真理から奪いとった力を授けることにし、それを打ち負かして、自力ではどうしようもないままにしておくほうが安全だと思っています。
こんな決まり切った儀式が、いかにそっくりそのまま特別な関係の中で演じられているか見てみなさい。
別べつの人間、二人の間に祭壇が建てられ、その上でどちらもが自分の自己を殺そうとし、自分の 身体を土台にもう一つの自己をかかげ、それに必要な力を自分の死から得ようとします。
何度も何度も繰り返してこんな儀式が演じられています。
しかし、それは決して完了することはなく、完了する見込みもありません。
こんな完了するための儀式が完了するわけがありません。
生命は死から生まれるのではなく、天国が地獄から生じることなどないからです。
ACIM-Text- chapter16-5-12
どんな形の特別な関係であれ、それに儀式のうちに愛を捜すようにとそそのかされる度に、愛は内容そのものであって、どんな種類の形式でもないということを思い出しなさい。
特別な関係は形式の儀式で、形式というものを重んじ、内容を犠牲にして神の代わりをさせようとしています。
形式そのものには何の意義もなく、これからもその見込みは全然ありません。
特別な関係とは何なのかちゃんと見極める必要があります。
それは、無分別な儀式であり、そこでは神の死から力を引き出し、その力を、形式が内容を打ち負かし、愛は意義を失ったという印として神を殺したものに授けるのです。
こんなことが可能であって欲しいと思うでしょうか。
それが不可能なのは明白だとは言うまでもないでしょう。
もし可能だったら、あなたは自分自身どうすることもできなくしてしまっていることでしょう。
神は怒ってはいません。
ただこんな事が起こらないようにしただけです。
あなたが神の心を変えることなどできるわけがありません。
自分であれこれ仕組んだ儀式の中で死の踊りが喜ばせてくれるとしても、永遠なるものを死に至らせるような儀式など一つもありません。
それに神の完全円満なる姿のかわりとしてあなたが選んだものも、その姿には全くなんの影響も与えることはないのです。
ACIM-Text- chapter16-5-13
特別な関係は、ただ神よりも他の神々を奉って礼拝し、そんな神々のちっぽけさをぼやかしたり、神の偉大さを不明瞭にしたりしようとする無意味な試み以外の何ものでもないと見なさい。
あなたの完全な姿の名にかけてそんなことには関わってはなりません。
神の前に偶像を作って置く度に、それが本来のあなたの代わりにあなた自身の前にたち塞がることになります。
ACIM-Text- chapter16-5-14
幻想は真実ではないので恐れるものではない、という単純な事実に救いを見いだせます。
幻想が恐ろしく思えるのは、あなたがそれをあるがままに認められないうちだけなのですが、それが本当であって欲しいと切実に願う限り、認めようとはしないでしょう。
そして、そう願えば願うほど、それに比例して真理を否定し、真理と幻想つまり神と空想のどちらにするのか、そんな簡単な選択ができずにいます。
このことを覚えておけば、決断するべきことをただあるがままにみて、それだけのことだというのは難しくないでしょう。
ACIM-Text- chapter16-5-15
分離しているという幻想の核心は、単に愛の意義は崩されたとする空想の中にあるに過ぎません。
それにあなたは愛の意義を再び自覚しない限り、その意義を分かち合っている自分を知ることなどできないのです。
分離するとはただ自分自身を知らずにいようと決断することです。
この全思考体系は、経験しながら学べるようにと注意深く考えてあり、真理から離れて空想へと導かれるように工夫してあります。
しかし、あなたが習おうとして傷つきそうになるたびに、神はあなたのためにそれを訂正したり、その影響など及ばない完全な逃げ道を示したりしてくれます。
ACIM-Text- chapter16-5-16
この奇跡のコースの教えに耳を傾けて、それに従うかどうか決めるのは、まさに真理と幻想のどちらを取るか選択しているようなものです。
ここに真理があり、幻想からは分離されており、少しも混乱はないからです。
こうした選択は、あるがままに知覚しさえすれば、実に簡単になってきます。
色々な空想が選ぶのを混乱させる可能性があるだけで、そんな空想は全く真実ではないからです。
ACIM-Text- chapter16-5-17
かくして今年こそ、今まであなたが決断を迫られた中で一番簡単、かつ唯一の決断を下すときです。
あなたは実在への橋を渡っていくことになりますが、それはただあなたが神はその橋の向こうにいて、こちらには全く何もないということに気づくからです。
こうしたことを悟れば、当然の決断を下さずにいるほうが不可能だと言えます。
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編16章「幻想を赦す」目次