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奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編17章「癒しと神聖な関係」17-6本文
17章 17-6 ゴールの設定
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聖霊の目的を実際に適用することは極めて簡単ですが、曖昧なやり方は適用できません。
事実、簡単であるためには、明瞭でなければいけません。
簡単なこととはただ容易に理解できるもののことを言い、それには、はっきりしている必要があるということは明らかです。
聖霊が定めるのは大まかなゴールです。
それに基づき、特定のことに適用するために、 聖霊はあなたと一緒に具体的なゴールを作る手助けをしてくれます。
聖霊は極めて明確な一定の導きのゴールのようなもの を、どんな事態にも用意しているのですが、あなたはそうしたゴールが普遍的にあてはまるとはまだ認識していないということを覚えておきなさい。
したがって、この時点ではその導きのゴールを個々の事態に別々にあてはめることです。そのうち、あなたの理解力がいまよりもっともっと深まり、より安全に一つひとつの事態を越えてみることができますが、それまでは別々にすることは不可欠です。
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どんな事態にせよ、自分で確信が持てないような気がするときには、まずごく単純に、「どんな結果になることを望むのか」と自分に聞いてみなさい。
何のためだろうか、とゴールを明らかにするということは、最初にすべきことです。
こうすることが結果を決めることになるからです。
自我の手順ではこれが逆になります。
成り行きは状況まかせで、結果はどうなるかわかりません。
このようなでたらめなやり方をする理由は明白です。
自我は、そうした事態からどんな結果になって欲しいのか分っていません。
何を望んでいないかは分っていますが、それだけのことです。
前向きのゴールは何一つありません。
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明確で前向きなゴールが最初から定められていないと、そうした事態はただ偶然起こったように見え、それが後の祭りになるまで、何が何だか分らずにいることになります。
後でそれを振り返ってみて、なんとか意味を成すように継ぎ合わせてみようとします。
しかし、あなたは間違っているでしょう。
過去のことについての判断が間違っているのみならず、何が起こるべきか全く見当もつきません。
ゴールが定められていないので、手段を持ち出そうにも選びようがありません。
今となっては、一つだけ判断すべきことが残っているわけで、 自我の気に入ったかどうか、つまり受け入れられそうか、それとも仕返しする必要があるかどうか判断するだけのことです。
前もって定められた、評価基準というものがないと、確実に理解できず、評価することを不可能にします。
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何が起こって欲しいのか、それを自分で前もって決める価値は、単に現状況を自分の望みを実現させるための手段だと見て取るようになるということです。
したがって、自分のゴールを達成するには、その妨げとなるものをあらゆる努力をして見過ごそうとし、ゴール達成に役立つことならどんなことにもみな、集中的に努力をかたむけます。
こうしたやり方で、あなたが 聖霊の真実と真実でないこととを選り分けるやり方に近づいてきたということがとてもよく分かります。
真実であるものは、ゴールに達するために使えるようになります。
この観点からいえば、真実でないものは役に立たなくなります。
今やその事態には意義があるといえるわけですが、それはゴールに掲げたことが意義あるものにしてくれただけのことです。
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真理をゴールにするとさらに実用的な利点があります。
もし、自分の状況を真理と正気のために使えば、その成り行きとして心に平安を得られるに違いありません。
そしてこれは結果そのものがどうかということとはべつです。
もし、真理と正気に満ちている状態が平安であり、双方とも必要不可欠だとすれば、平安があるところには真理と正気があるに違いありません。
真理は自ずと生じるものです。
もし、心に安らぎを感じるなら、それはあなたが真実の姿というものに気づき、それがもたらす結果を本当に見るようになるからです。
そして、真実でないものがあなたをうまく欺き続けることはできないからです。
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あなたの心が平安に満たされていることは確かなので、そうした結果に気づくようになるでしょう。
ここでも、あなたは 自我のものの見方の逆に見ていると言えます。
自我は事態が経験をもたらすものと信ずるからです。
聖霊は、ゴールが事態を左右し、ゴールに従って経験することになるのだと分っています。
真理をゴールとするには信頼を必要とします。
聖霊の目的を受け入れるには信頼を要することは言うまでもありません。
しかも、それは包括的な信頼のことです。
真理をゴールにすると定めたなら、信頼する気があるに違いありません。
聖霊は現事態を全体的に見ます。
ゴールというものは、その達成を望みつつそれに携わる者がそれぞれの本分を尽くすという事実を確立します。
こうしたことは必然的です。
何をするにせよ、しくじるものは一人もいません。
これは自分の持てる信頼を越えているように思えたり、自分が渡せると思えるもの、それ以上を要求するように思えたりします。
しかし、これは 自我の観点からみればそう言えるだけで、それも 自我が矛盾したことを分離すれば「解決できる」と信じており、事態を全体的に見て取ろうとはしないからです。
したがって、事態を断片的に割って別々に対処しようとするわけですが、それは 自我が統一された姿ではなく、分離状態のほうを信頼しているからです。
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ある事態のどの側面にせよ、難しそうなことにぶつかると、 自我はそれを他のところへ持って行き、そこで解消しようと企てます。
そうするとまくいったように思えるのですが、そのような企ては調和するということに矛盾しており、真理をゴールとすることを不明瞭にするに違いありません。
そして、空想の中でしか平安は経験できなくなるでしょう。
信頼して当然のものを信頼しないで、それを否定したのだから真理を実感できてはいません。
したがって、あなたが真理をゴールとすれば現事態を理解できたはずなのに、そうする力を失うことになります。
空想の解決法は、単に経験していると錯覚させるだけで、平安だと錯覚しているうちは、真理の入り込める状態とは言えません。
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