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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編19章19-2 罪対誤り 本文
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誤りを罪と混同しないようことはきわめて重要であり、 救済を可能にするのはこの区別です。
なぜなら、誤りは訂正できるし、間違いは正すことができるからです。
しかし罪は、仮にそれが存在可能だとすれば、取り消しが不可能なものです。
罪を信じるということは、必然的に、 身体ではなくて心が攻撃できるという、強固な確信に基づいています。
かくして、心は有罪だということになり、その心が自らの一部分ではない別の心により無罪の宣告を与えてくれない限り、いつまでも有罪であり続けることになるでしょう。
誤りは訂正を要し、罪には処罰を要求します。
ところが、処罰がすなわち訂正することだという信念は、あきらかに狂気の沙汰です。
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罪は誤りではありません。
なぜなら、罪のほうは、誤りという考えには欠けている傲慢さを必然的に伴っているからです。
罪を犯すということは、実在を犯そうとし、それに成功するということです。
罪とは、「攻撃は実在しており、罪悪感は正当化されうる」と宣言しているようなものです。
神の子は罪を犯し自らの無垢性を失い、自らを神に創造されなかった何かへと作り替えることに成功した、と罪は想定します。
こうして創造されたものは永遠ではないと見なされ、神の意志は対立や敗北がありえるものとされます。
罪とは、 自我のあらゆる尊大さの背後に潜む誇大な妄想です。
なぜなら、そのために、神自身が変えられ、不完全な存在にされてしまうからです。
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神の子は間違えることもあり、自分自身を騙し、自らの心の力を自分自身に敵対させることさえできます。
しかし、彼には罪を犯すことはできないのです。
彼が何をしたところで、自分の真実のすがたをどのようにも真に変えてしまうことは何一つできないし、自分を真に有罪にするということもできません。
それは罪がすることです。
なぜなら、罪の目的とはそんなものだからです。
しかし、罪という考え全体に内包する荒々しい狂気をすべてをもってしても、罪はは不可能です。
罪の報いは、確かに死であり、不滅なる者が死ぬことなどできないからです。
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自我の狂った宗教の主な信条は、罪は誤りではなくて真実だとしており、無垢性こそを欺こうとしています。
潔白であるのは傲慢だとみなされ、自己を罪深いものだとして受け入れることが神聖なすがただと見なされます。
そしてこんな教義が、父なる神が創造し、永遠にそうあり続けるようにと意図された神の子の真実の姿に取って変わります。
これが謙虚さというものでしょうか。
それとも、むしろそれは、創造されたものを真理から奪い取り、分離させておこうとする企てでしょうか。
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罪を誤りだと解釈し直そうとする試みは、どれも 自我には弁護の余地がないものです。
罪という考えは、 自我の思考体系にとっては全面的にこの上なく神聖であり、侵すべきならざるものであり、崇敬と畏怖の念を抱かずに近づいてはならないものです。
それは 自我の体系のうちで最も「神聖」な概念であり、素晴らしくて強力なうえに、全くの真実であり、 自我の手に入るあらゆる防衛法を駆使して護られる必要があるものです。
なぜなら、これこそ、 自我の「最高」の防衛法であり、他の防衛はみなそれに仕えているからです。
これが 自我の甲冑であり、保護であり、そして 自我の解釈による特別な関係の根本的な目的だからです。
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自我は確かに罪にもとづいて自らの世界を作ったといえます。
そんな世界でのみ、すべてのものが上下逆さまになり得ます。
これこそ罪責感の暗雲をどんよりとしていて、見通しがきかないように思わせる奇妙な幻想に他なりません。
この世界の土台がしっかりしているように見えるものが、その中にあります。
なぜなら、罪が、創造されたものを神の想念から 自我の望む理想像へと作り変えてしまったからです。
その理想像とは、 自我が支配する世界であり、心を伴わず、完全に腐敗し朽ちていくことが可能な 身体が作り上げる世界です。
もしこれが間違いであるのなら、それは真理で簡単に取り消すことが可能です。
どんな間違いも、その判断を真理に任せさえするならば訂正され得ます。
しかし、もし間違いに真理としての地位が与えられてしまったら、一体それをどこにもっていけばよいのでしょう。
罪の「聖性」は、まさにこんなおかしな仕組みによってのみ、その場に保たれています。
真理だとすれば、それは神聖にして侵すべからざるものであり、裁きを受けるためにすべてがそれのもとに運ばれることになります。
間違いだとすれば、それは確かに真理へともたらされなければなりません。
罪に対して信を抱くことは不可能です。
なぜなら、罪とは不信に他ならないからです。
しかし、間違いは訂正され得るということに、信を抱くことは可能です。
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自我の立てこもる要塞全体のなかで、罪は実在するという考えほど厳重に護られている隅石は他にありません。
それは、罪とは、神の子が作り上げた自分自身、これが自分の本性を表す自然な表現だという考えです。
自我にしてみれば、これは少しも間違ってはいません。
なぜなら、これこそ 自我の実在性であり、これが、逃れることなど永遠にできない「真理」だからです。
これが彼の過去であり、現在であり、未来です。
それというのも、彼は父なる神を冒涜して、その神の御心を完全に変えることをやってのけたからです。
それなら、罪に殺された神の死を悼みなさい!
そして、これこそが 自我の願いであり、狂気の中でそれをやってのけたと信じているのです。
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あなたはむしろ、これらすべてのことが単なる間違いであればよいと思わないでしょうか。
全面的に訂正可能で、実に容易に脱出でき、その訂正の過程は、ただまるで霧を通りぬけ、太陽の射す場所へと向かって歩んで行くようなものであって欲しいとは思わないでしょうか。
それは、まさしくただそれだけのことに過ぎません。
もしかしたら、あなたは間違っているよりも罪深いほうがよほどましだ、という 自我の意見に同意したいような気になるかもしれません。
しかし、そんなことを自分に選ばせる前に、よくよく考えてみなさい。
これこそ地獄をとるか天国をとるかの選択なのですから、軽々しく扱ってはなりません。
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次
19-4-B 第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念