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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第24章「特別性のゴール」24-7本文
第24章24-出会いの場
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この世界に縛りつけられている者の誰もが、真理であって欲しいと願う特別性を、なんと防衛しようとすることでしょう。
その人の願望がその人にとっての掟であって、その人はそれに従います。
その人の特別性が要求するものであれば、その人は何であれ出し惜しみすることはしません。
それが必要とするものを、その人が自分の愛するものに対して拒む事はありません。
そして、それがその人に呼び掛けている間、その人には他の声は聞こえる事はありません。
取るに足らない侮辱、些細な攻撃、囁かれた疑念、仄めかされた脅かし、心底からの敬意には満たないものの全て、そういったものから特別性を救うためには、あらゆる努力も犠牲も代償も厭う事がありません。
これこそあなたにとっては我が子であり、あなたが父に深く愛されているのと同じように、あなたに愛されているものです。
とはいえ、それはあなたの被造物たちの場を奪っています。
それらこそがあなたの子であり、あなたは神の父性を神から奪うことをしなくとも、父性を分かち合う事が出来るのです。
あなたが自分の強さとする為に作り出したこの子とは、いったい何者でしょうか。
あなたの被造物たちの場を奪っているこの神の創造物のパロディとは何者なのでしょうか。
そして、神のもてなし役がそれらよりも好む別の子を見つけた今、それらはどこに居るのでしょうか。
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神についての記憶は単独で輝くものではありません。
あなたの兄弟の中にあるものは、今でも創造の全てを包含しています。
創造されたものと創造するもの、既に生まれたものとまだ生まれていないもの、まだ未来の中にあるものと既に過ぎ去ったように見えるもの、こうしたものの全てがそこに含まれています。
その人の中にあるものは不変であり、あなた自身の不変性はそれを認識する中で認識されます。
あなたの内なる聖性はその人に属します。
そして、あなたがその聖性をその人の内に見ることによって、それがあなたに戻ってきます。
あなたが特別性に与えてきた全ての賞賛は、その人に属するものであり、そのようにしてあなたに戻ってきます。
愛と思いやり、強力な保護、昼夜を分かたず抱く想い、深い関心、これこそが自分そのものだいう強い確信など、全てがその人に属するものです。
あなたが特別性に与えたもので、その人に与えられるべきでないものは何もありません。
そして、その人に与えられるべきもので、あなたに与えられるべきでないものは何もありません。
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代わりに特別性があなたを占有している間、一体どうしてあなたが自らの真価を知る事が出来るでしょう。
その人の聖性の中であれば、あなたがそれを知り損なうことはありえません。
自分の特別性を真理にしようとする事はやめなさい。
なぜなら、もしそれが真理であったなら、あなたは本当に失われる事になるからです。
そうではなく、兄弟の聖性は真理であるがゆえに、あなたはそれを見るように定められているという事に感謝しなさい。
そして、その人の中で真実であるものは、あなたの中でも真実のはずです。
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自分は心を守ることが出来るだろうかと、自分自身に問いなさい。
身体であれば、確かに少しは守っています。
時間からは守る事は出来ませんが、ただ一時的に守る事は出来ます。
そうして、あなたは自分で救おうとする分だけ傷つけます。
あなたは 身体を何のために救おうとするのでしょうか。
その選択の中に、 身体の健康と危害の両方が内在しているのです。
見せびらかすために救うなら、つまり、もう一匹の魚を釣る餌として、自分の特別性を見栄えのする形に納めたり、自分の憎悪を周りの麗しさで包む額縁を織り上げたりするために救うなら、 身体に腐朽と死に至る運命を宣告する事になります。
そして、あなたがこの目的を兄弟の 身体の中に見るのなら、あなたはそれと同じ運命をあなた自身の 身体にも宣告する事になります。
したがって、その代わりに、真理が兄弟の上に輝き、あなたの腐朽から安全を与えてくれるようにその人の周りに聖性の縁取りを織り上げなさい。
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父はご自身が創造したものを安全に保ちます。
それは、あなたによって創造されたものではないので、あなたが自分で作り出した間違った想念をもってそれに触れる事は出来ません。
自分の愚かな空想に脅かされないようにしなさい。
不滅であるものが攻撃される事は有り得ず、時間の中にしかないものは、どんな結果ももたらす事はありません。
ただあなたがそれの中に見る目的だけが意味を持っています。
そして、もし、その目的が真実であれば、それの安全性は確保されます。
もしそうでなければ、それには何の目的もなく、何の手段にもならないという事になります。
真理のための手段とみなされるものは何であれ、その聖性を分かち合っていて、それ自体と同様に安全に光の中で休らっています。
また、それがなくなった時にも、その光が消えることはありません。
その聖なる目的が天国にもう一つ光を天国に灯し、それに不滅性を与えました。
天国では、あなたの被造物たちが、あなたがそれらを忘れなかった印であるあなたからの贈り物を認識します。
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地上の全てのものについての識別法となるのは、単に「それは何の為のものか」という問いです。
その答えが、それがあなたにとって何であるかを決めます。
それは、それ自体では何の意味もありませんが、それでもあなたは自分が使えている目的に従ってそれに実在性を付与する事が出来ます。
ここでは、あなたもそれと共に手段であるに過ぎません。
神は目的であると同時に手段でもあります。
天国では、手段と目的は一つのものであり、それらは神とも一つです。
これが真の創造の状態であり、それは時間の中には見いだせず、永遠の世界の中にのみ見出だせます。
これについては、この世界にいる誰に説明する事も不可能です。
それに、この状態が何を意味するかを学ぶための方法もありません。
そして、あなたが学びを通り越して、与えられているものに達するまでは、すなわちあなたが再び自らの被造物たちの聖なる家となるまでは、それが理解されることはありません。
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父と共に創造する共同創造者には、子がいなければなりません。
ただし、この子は神ご自身と同じに創造されているはずです。
すなわち、完全無欠な存在であり、全てを包含し、全てに包含されていて、付け加えられるべきものも取り除くべきものもなく、大きさや場所や時間から生まれたのでもなく、いかなる種類の制限や不確実さにも縛られていません。
ここで手段と目的が一つに結びつき、この一なるものには終わりがありません。
これらは全ては真実なのですが、記憶の中にまだ白紙に戻されていない学びを一つでも保持していたり、依然として目的が不確かな想念や、意図が分割された願望を一つでも保持していたりする者にとっては、この事は何の意味もなしません。
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この奇跡のコースは、用意に学べないようなことを教えようとはしていません。
あなたに準備ができた時に、本来あなたのものであるものがあなたのもとに訪れるという事を除けば、その範囲はあなた自身が把握出来る範囲を超えるものではありません。
この世界では、手段と目的が分離しています。
というのも、その二つはそのように作り出されていて、そのように知覚されるからです。
そして、それゆえに、私達はその二つを分離しているかのように扱っています。
全ての知覚は、知覚の目的が理解されるまでは依然として逆さまになっているという事を心にとめて置く事が肝心です。
知覚力は手段ではないように見えます。
だからこそ、何のためにそれを知覚するかという事に、どれほどその知覚が依存しているのか、その全容を把握する事が難くなっています。
しかし、それはあなたが教えた事を証明するに過ぎません。
それは、願望が外側に描き出されたものであり、あなたが真実であって欲しいと望んだ形象です。
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自分自身を見なさい。
そうすれば、あなたには 身体が見えるでしょう。
この 身体を別の光のもとで見てみなさい。
そうすれば、それは違って見えます。
そして、光がなくなれば、それは消えてしまったかのように見えます。
それでも、あなたは、手で 身体に触れる事も、それが動く音を聞く事も出来るので、それがそこにあると思って安心します。
ここにあるのは、あなたが自分であって欲しいと望んでいる一つの形象です。
それは、あなたの願望を叶えるための手段です。
それは、あなたがそれを見るための目を与え、それに触れるための手と、それが発する音を聞くための耳を与えます。
それは、それ自体の実在性をあなたに証明しています。
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こうして、 身体はあなた自身についての理論となります。
ただし、そこにはそれ自体の証拠は何も準備されておらず、その視野の中にいる限りそこから抜け出す道はありません。
それ自体の目を通して見るなら、それが辿る道筋は確かです。
それは成長しては衰え、栄えては滅んでいきます。
そして、あなたはそこから離れた自分を思い描く事は出来ません。
あなたは、それに「罪深い」という烙印を押して、その行為を憎み、それを邪悪だと裁いています。
それでも特別性は、「これは私の愛しい子であり、私の喜ぶ者である」と囁きます。
こうして、その「子」は自分の「父」の目的にための手段となります。
これは、神の創造のパロディです。
なぜなら、我が子を創造した事が神に喜びを与え、神の愛に証を与え、神の目的を共有したのと同じように、 身体はそれを作り出した想念を証しし、その実在性を真理を弁護するために語るからです。
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こうして、二人の子が作り出され、出会う場所もなく、出会うこともなく、どちらもこの地上を歩いているかのように見えます。
あなたは、そのひとりを自分の外側に、自分の最愛の子として知覚します。
内側に休らうもうひとりは、父の子であり、それはあなたの中に居るようにあなたの兄弟の中にも居ます。
二人の子の違いは、それらがどのように見るか、どこに行くのか、あるいは、何を行うか、といった事にあるのではありません。
それらには、異なった目的があります。
これが、それらを自分に似たものと結び付け、それらのそれぞれを異なった目的を持った全ての目的から引き離します。
神の子は父の意志を抱き続けます。
人の子は異質の意志を知覚して、それがそうであったならいいと願います。
かくして、その人の知覚はその人の願望に真理の外観を与えることで、その願望に仕えています。
しかし、知覚は別のゴールに仕える事が出来ます。
それは、あなたには異なった選択をして、異なった目的のために知覚を使う機会が与えられています。
そして、あなたの見るものが、その目的によく仕えることになり、それ自体の実在性をあなたに証明するでしょう。
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