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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編「11章 神もしくは 自我」より
11-5-2 自我の「力動論」 (その2)
ACIM-Text- chapter11-5-10
したがって、恐れがどんな形を取ろうと、またその恐れは 自我があなたに体験させたがる形からかなりかけ離れたものになっているにせよ、何につけ自分を神から分離させるように思わせるものは、ただの恐れに過ぎないとあなたが気づくということが、 自我にとっては脅威のもととなります。
自我の自律の夢は、あなたがこうしたことを自覚することなので、 自我の土台まで揺さぶられます。
それは、あなたが独立についての間違った考えは黙認するかもしれないとしても、恐れがもたらす損失に気づきさえすれば、そのようなものを受け入れなくなるからです。
けれども、それが恐れの代償であり、 自我はそれを見くびるはずがありません。
もし、あなたが愛を見落としたりすれば自分を見落としていることになり、自分自身を否定しているので、実在でないものを恐れざるをえなくなります。
真実を首尾よく攻撃したと信じるので、攻撃には力があるものと信じています。
そこで、あなたが自分自身に恐れを抱くようになったことは極めて明瞭。
それに誰しも、何かが自分を破滅させそうだと信じたりすれば、その何かを見つけたいとは思わないでしょう。
ACIM-Text- chapter11-5-11
もし、 自我の目標とする自律が為し遂げられるとすれば、神の目的が挫かれるということです。
しかし、これは不可能です。
ただ何が恐れなのか、それが分るようになることなので、あなたは最終的にできることとできないことを区別したり、間違ったことと真実であることを区別したりできるようになります。
自我の教えによると、 自我の目標は為し遂げられますが、神の目的は為し遂げられないとします。
聖霊の教えによると、神の目的のみ為し遂げられるし、すでに為し遂げられているのです。
ACIM-Text- chapter11-5-12
神は、あなたが神に依存しているのと同じように、あなたに依存しています。
というのは、神の自主性はあなたの自主性を包含しており、したがってあなたのがなければ不完全なものとなるからです。
あなたは神との一体感をもち、自分の役目をそれが真理において存在するがごとくに果たすことによってのみ、自分の自主性を確立できます。
自我は、自らの目標を為し遂げることで幸せになれると信じています。
しかし、あなたには、神の役目は自分の役目であると分かるはずであり、自分の心を意志と一つにするよりほかに幸せは見いだせません。
ただ、あなたは 自我の目標を本当に一生懸命追求してきたとはいえ、それは単に恐れをもたらしたに過ぎないということに気づけば、そのような恐れを抱いていることが幸せだなどといい続けるのは難しくなります。
恐れを抱き続けさせておいて、 自我はそれをあなたに信じさせようとします。
けれども、神の子は正気を失ってはいないので、それを信じるはずがありません。
それを本人に気づかせさせれば、受け入れたりもしないでしょう。
というのも、正気でない者だけが愛の代わりに恐れを選び、正気でない者だけが攻撃することで愛を得られると信じたりできるからです。
しかし、正気の者は攻撃すると恐れを生み出すだけだと認識しており、神の愛がそうした恐れから完全に護ってくれます。
ACIM-Text- chapter11-5-13
完全な姿というものを受け入れてこそ、その真価を認める気になります。
分析するとは、分解または分離させることだからです。
全体として成り立つ状態を分解して理解しようと試みるのは、 自我のあらゆることに対する典型的で矛盾した取り組み方であることは明らかです。
自我は力と理解力と真理は、分離することで見いだされると信じており、このような信念を確立するためには攻撃せざるをえないでしょう。
このような信念を確立することはできないとは気づかず、分離こそ 救済だとかたく信じ込んでしまい、 自我は知覚するものをことごとく攻撃し、細かい切れ切れの部分に分解するので、そうした部分には有意義なつながりがなく、意義もなくなってしまいます。
自我はいつも意義あるものを大混乱に取って変えますが、それはもし分離が 救済だとすれば、調和は脅威となるからです。
ACIM-Text- chapter11-5-14
知覚の法則についての 自我の解釈は、 聖霊のとは正反対であり、またそうする必要があるのでしょう。
自我は間違いに注意を集中し、真理を見落としてしまいます。
間違いを知覚するたびにそれを真実だとしてしまい、典型的な循環論法を使い、間違いがあるので首尾一貫した真理には意味がないに違いない、という結論を出します。
では、次の段階は明らかです。
もし、首尾一貫した真理に意味がないとすれば、矛盾したものこそ真実に相違ないとします。
間違いをはっきりと心に抱き、それが真実だとしたものを護りながら、 自我は自らの思考体系の次の段階へと移ります。
間違いが本当で、真理は間違いです。と。
ACIM-Text- chapter11-5-15
自我はこれを理解しようと試みることはなく、しようにもできないことだというのははっきりしています。
しかし、それを実証しようとあらゆる手を尽くそうとし、絶えずしていることは確かです。
意義というものを攻撃しようと分析することなので、それを首尾よく見落とし、 自我に残るのはばらばらに知覚したものがつながったもので、それを 自我は自らのために統一させます。
そこで、こうして統一されたものが 自我の知覚する宇宙となります。
そして、この宇宙が、次に 自我そのものの実在を実証するものとなるからです。
ACIM-Text- chapter11-5-16
自我の実証が、それを聞く気になる者を引き付ける力を過小評価しないでおくことです。
選択的知覚はそれについて証言する者たちを注意深く選び出すし、それの証言は一貫しています。
正気でないものに対して狂気だと申し立てる論拠は強いです。
理由付けはそれが始まったところで終わり、どんな思考体系もその源をしのぐことはないのです。
しかし、意味をなさない理由付けは何も実証できず、そのようなものに納得させられた者たちは欺かれているに違いありません。
自我は真理を見落とすとすれば、そのような 自我が本当に教えられるでしょうか。
否定したものを知覚したりできるでしょうか。
自我が否認しているということをその証人たちは確かに証言しますが、それが否認したものに対して証言することはまずないでしょう。
自我は神の子を否認しているので、父をまともに見ても、それが父だとはわかりません。
ACIM-Text- chapter11-5-17
あなたは、父を思い出すつもりがあるでしょうか。
神の子を受け入れるなら、父を思い出すことになります。
神の子が価値の無いものだと実証できるものは何もありません。
嘘を真実だと証明できるものは何一つないからです。
あなたは 自我の目を通して神の子を何と見ているかで、神の子は存在しないということを実証します。
けれども、神の子がいるところに父もいるに違いないのです。
神が否定なさっていないものを受け入れるなら、そうしたものが自らの真理を実証してくれます。
神のために証言する者たちは自らの光の中に立ち、神が創造したものを眺めるのです。
そうした証人たちの沈黙が神の子を見たということを示し、 キリストの面前では何一つ実証する必要もありません。
キリストがその人たちに自らと父とについて話すからです。
キリストが自分たちに話しているので、その人たちは無言でおり、その人たちが話すのは キリストの言葉です。
ACIM-Text- chapter11-5-18
あなたが出会う兄弟は一人残らず、 キリストの証人となるか 自我の証人となるか、そのどちらかです。
しかし、それはあなたがその兄弟の内に何を知覚するかによって左右されます。
誰もが皆、何をあなたは知覚したいのかとか、あなたがその国のためなら絶えず注意を怠らないようにする気で選んでいます。
その王国の実在について、あなたを納得させようとします。
あなたが知覚するものはことごとく、自分が真実であって欲しいと思う思考体系の証拠となります。
もし、あなたが自由になることを選びさえすれば、どの兄弟もあなたを解放する力を持っています。
そうした兄弟から間違った証言を受け入れるはずはありません。
しかし、受け入れるとすればその兄弟に対して間違って証言するものをあなたが呼び起こしたということです。
その兄弟が キリストについて話してくれないとすれば、あなたが キリストについて話していないのだと言えます。
あなたはただ自分自身の声を聞くのであり、 キリストがあなたを通して話すのなら、その キリストがあなたに聞こえてくるのです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編11章 「神か、 自我か」目次