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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章「聖なる瞬間」より
15-11 犠牲を終わらせるクリスマス
ACIM-Text- chapter15-11-1
犠牲についての想念は全て、単に自分で思いついたことに過ぎないと認めるのを恐れる必要はありません。
自分自身を護りたい一心で無事でいたいと思うなら、それを安全ではないところで求めたりしないことです。
あなたにとって自分の兄弟と父とは実に恐ろしい存在となってしまっています。
ただほんの僅かでも安全だと思えるなら、二、三特別な関係にかかわってもいいと駆け引きするつもりでいます。
自分のいろいろな思いと、あなたに与えられた思いというものがかけ離れている状態を長引かせようとなどしないことです。
双方を一緒に見えるようにすれば、そのどちらを選択するかは、穏やかに目覚めたときのようにすっきりした気持ちですんなり選べます。
それはまるで、もう眠る必要がなくなるほどよく眠ったあと、朝の光で自然に目が覚めるように簡単です。
ACIM-Text- chapter15-11-2
クリスマスのしるしは、暗闇に光る星です。
それを自分の外ではなく、心の内なる天国に輝いているのを見つけ、 キリストの時がきたというしるしとして受け入れなさい。
キリストは全く何も要求してはいません。
どんな形の犠牲も、誰からも全く求められていません。
キリストの前では犠牲についての想念も全面的にその意義を全て失います。
それというのも キリストは神のもてなし役だからです。
そしてあなたはただすでにそこにい存在を招くだけでいいし、それは神のもてなし役は唯一の存在であり、その神の唯一なる姿と異なる思いはそこで一緒にとどまれないということを認めればできることです。
その存在を歓迎するには愛を余すところなく注がなければなりません。
聖なる存在はそれを取り囲む聖なるものを創造することになるからです。
キリストの時がきて、神を胸に抱いてあやすもてなし役は何の恐れも感じないはずです。
なぜならそのもてなし役は自ら護る完全に潔白なる存在と同じように神聖であり、その潔白なる存在の力に護られているからです。
ACIM-Text- chapter15-11-3
このクリスマスには、あなたを傷つけるようなものを全て 聖霊に渡しなさい。
自分自身を完全に癒してもらえば、あなたも 聖霊と心を一つにして癒しをおこなえるでしょう。
私達と共に全ての人を解放して、一緒に解放された喜びを祝いましょう。
何一つ置き去りにしないようにしなさい。
なぜなら、解放は全面的になされるのであり、あなたが私とそれを受け入れたなら、こんどはそれを私と与えることになるからです。
苦しみや犠牲や取るにたらないようなことは全部、私達の関係の中から消えてなくなり、その関係は私達と父とのつながりのように潔白で力強いものです。
苦しみが私達にもたらされても目の前で消え失せるし、苦しみがなければ犠牲もないはずです。
そして犠牲がないところにこそ愛があるのは確かです。
ACIM-Text- chapter15-11-4
犠牲行為が愛だと信じる者は、犠牲になるとは愛から離れるという意味だと分るようにならなければいけません。
犠牲になって罪悪感を抱く羽目になるのは確実です。
それと同じく愛が心に平安をもたらすことは確実です。
犠牲を払う状況に罪悪感がともないがちな半面、心の平安な状態にあってこそ、あなたは神とのつながりを自覚できます。
罪悪感ゆえに、あなたは自分の父と兄弟たちを自分自身から締め出してしまいます。
心に平安があれば全ての人に戻ってもらいたいと招く気になり、その途端来てもらいたいと願ったところにすでにいることに気付きます。
自分から締め出そうとするものに対しては恐怖心を覚えるわけですが、それは自分の一部であるにも関わらず、恐ろしいものだときめつけてほうり出そうとしているからです。
自分を部分的に胸のむかつくような思いで知覚しておいて、心安らかに暮らせる者などいるでしょうか。
それに、自分の内なる天国と地獄の「葛藤」を解消しようとするにしても、天国のほうに地獄でみられる特徴があるとみなしてほうり出しておいて、自分は満たされず孤独だと感じないでいられるでしょうか。
ACIM-Text- chapter15-11-5
あなたが 身体というものを自分の真実の姿だと知覚する限り、自分は孤独で恵まれない身だとみなすでしょう。
その上、自分自身を犠牲になった被害者だと知覚したりする間は、当然ほかの者を犠牲にできるものとみなす。
天国とその創造主を押しのけたりしておいて、生け贄にされているような思いや喪失感を抱かずにいられるはずがないからです。
それに犠牲や喪失感に苦しんでいる間、自分自身をなんとか取り戻そうとしない者などいないでしょう。
しかしこうしたことを、自分は本当に何かを奪われていると信じ込み、だからこそ取り戻そうとするなら、どうやって自分で達成できるでしょうか。
奪われているとの思いは、攻撃は正当化されると信じることなので、それが攻撃の原因となります。
奪われていると思い続ける限り、攻撃することは救いとなり、犠牲になることは愛だということになってしまいます。
ACIM-Text- chapter15-11-6
そうして、必死に愛を捜しているつもりで、犠牲を求めそれを見つけます。
しかし愛は見つかません。
愛が何であるかを否定しておいて、それを見分けようとしても不可能です。愛の意味は自分自身から追い出してしまったものの内にこそ見いだせるのであり、あなたから離れていてはそれに何の意味もありません
自分のそばに置いておきたいと思うものには、何の意義もなく、離れていようとするものにはどれにも、宇宙の意義が全て含まれており、その意義ゆえに宇宙は一つに保たれています。
宇宙があなたのうちで一つに結ばれていないとすれば、それは神から離れていることになり、神を無視すると意義がなくなることは確かです。
ACIM-Text- chapter15-11-7
聖なる瞬間には愛の条件が満たされたと言えます。そのとき心とこころは、 身体に邪魔されずに結ばれる訳であり、意思の疎通があるところには心の平安があります。
平 安をもたらす皇子は愛の条件を再び成立させるために誕生したのですが、それを、たとえ 身体は殺されても、意思の疎通は中断されないのだと教えることで成し遂 げようとするのであって、これには意思の疎通をはかるために 身体は欠かせないものだとはみなさないでいることを要します。
そしてこの教えが理解できたなら、 身体を生け贄に捧げるのは何も犠牲にしていないことなので、意思の疎通は心とこころのつながりに相違ないので、それは犠牲にはできないと悟るでしょう。
ということは、犠牲はいったいどこへいったのでしょうか。
私が教えるために生まれてきた教訓、これからもそれを兄弟全員に教えるつもりですが、その教訓とは、犠牲はどこにもみられず愛がいたるところにあると言うものです。
なぜなら意思の疎通はありとあらゆるものを包括するし、それによって心の平安が回復されたところには、愛が自然に生まれるからです。
ACIM-Text- chapter15-11-8
絶望的になってクリスマスのもたらす喜びを台無しにしないようにしなさい。
キリストの時に喜びがなければ何の意味もないからです。
心を一つにして、誰からも犠牲を要求することなく心の平安を喜び祝いましょう。
なぜなら、そうしてあなたは私が差し伸べる愛をまた私に差し伸べてくれるわけだからです。
自分は何一つ失っていないと知覚できたときほど喜ばしいことが他にあるでしょうか。
こうしたことが キリストの時が伝える伝言だから、私はこれをあなたに伝えましょう。
それを今度はあなたが伝えていき、もともと私に伝えてくれ父に戻してくれることを願いつつ。
キリストの時には、意思の疎通は回復し、父は私達とともに神の子の創造を祝ってくれます。
ACIM-Text- chapter15-11-9
神は、自身を受け入れ望みどおりのところに入らせ、居させてくれる、聖なるもてなし役に感謝しています。
そしてあなたが歓迎すれば、神は自らあなたを歓迎してくれます。
神を歓迎する者のうちに秘めていたものは神に戻されるからです。
神を心底から歓迎するにつれて、私達はただただ神の完全円満なる姿を喜び祝うのです。
父を受け入れる者は、父と心を一つにしています。
自分を創造した存在をもてなししているからです。
そして父が心に入り込むままにすると、父の記憶も一緒によみがえってくるので、自分たちが関わったことがあるといえる関係、持ちたいと望む唯一の関係を思い出すのです。
ACIM-Text- chapter15-11-10
今こそ、 キリストの時からまもなく新しい年が始まる時期です。
私は、あなたが成すべきことを全てやり遂げると確信しています。
何一つ足りないものはないので、破壊することなく全てを完成させるでしょう。
では、自分の兄弟に次のように言いなさい。
私はあなたを私自身にとって大切な存在として 聖霊に託します。
私が自分自身を閉じ込めるためにあなたを利用しようと思わない限り、あなたは解放してもらえると分っています。
私の自由の名において、あなたが解放されることを選びます。
私たちは一緒に解放されるのだとよく分っているからです。
こうして新しい年は喜びと解放感のうちに始まります。
やるべきことが山ほどあるというのに、かなり遅れてしまっています。
この年の始まりを機に、聖なる瞬間を受け入れ、素晴らしい目覚めを味わえる自分の席、かなり長い間空席のままになっているあの席に座りなさい。
この年を今までとは違う年にして欲しいのです。
それはあらゆることを同じだとすることでできます。
そして全ての関係を自分にとって神聖にしてもらうことです。
これこそ私達の意志です。
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