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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
15章15-6 聖なる瞬間と神の法則
ACIM-Text- chapter15-6-1
一つの関係を利用しようとして、もう一つ別のを犠牲にしたら、決して罪悪感にさいなまれずには済みません。
同様に、ある関係の一部を非難しておいて、その関係の中で心の平安を見いだそうとするのも不可能です。
聖霊の教えに基づけば、全ての関係は全面的に責任を持って関わり合うものと見なされていますが、そうした関係はどうあろうともお互いが矛盾することなどありません。
その一つひとつが自分を十分満足させてくれると完全に信頼するようになるのは、ただ自分自身を完全に信頼できたときです。
罪悪感が残っているうちは、こうした信頼は持てないはずです。
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あなたが兄弟をあるがままの姿でないものに作り上げられるという可能性を受け入れて、その思いを抱き続ける限り、罪悪感は確かに残ります。
なぜなら、その人を自分の描く姿どおりにしょうとしてしまうからです。
あなたが自分自身をほんの僅かしか信頼しないというのは、自分の心の中に完全な愛があるという事実を、受け入れる気持ちになれないからです。
だから自分の外には見つけられないものを、あえて外に求めています。
あなたが抱いている全ての不信感のかわりに、私があなたを完全に信頼します。
しかし、私はあなたを全面的に信頼しているように、あなたの兄弟全員をも必ず同様に信頼するということを忘れてはなりません。
そうでなければあなただけに限られた贈り物になってしまいます。
聖なる瞬間には、私達は神の子への信頼を分かち合うわけですが、それは私達が一緒に、神の子はその信頼に全くふさわしいと気づくからであり、神の子の真価を認めるので、その神聖さを疑うことはできません。
したがって私達はその神の子を愛するのです。
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神聖さを分かち合うにつれて、分離状態は全てなくなります。
神聖さは力だからです。それを分かち合うことでますます強くなります。
もしあなたが、自分に必要なものを自分なりに叶えることで満足しようとするなら、力は他の誰かからくると信じるに違いなく、自分が得るものをその人は失うとも信じるのでしょう。
あなたが自分自身をか弱いものと知覚するなら、必ず誰かがいつも失うことになります。
ですが、もう一つ別に、力を失うという概念を完全に超越している方法で、色々な関係を解釈できます。
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あなたは誰かが神に愛を求めて呼びかけたとしたら、自分の呼びかけもそれと同じくらい強いままだなどとは信じ難いとは思いません。
それに神がその人に応えたら、自分が応えられる見込みが減るとも思っていません。
逆に、その人が成功したことを、むしろ自分にもその可能性がある証拠だと見なす傾向があります。
それはなぜかといえば、神とは想念だとかすかとはいえ気づいているので、神に対する自分の信頼は分かち合うことでより強くなると気づき出したからです。
あなたに受け入れ難いのは、自分の父と同じように自分も想念であるという事実です。
そして父と同様、あなたは自分自身を全心全霊与え切ることができます。
それも全く何も失うことなく、ただ増えていくだけです。
ここには矛盾するものなど何一つなく、ここでこそ平安を見いだせます。
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欠乏している世界においては、愛に意義は見いだせないし平安は不可能です。
得することもあれば失うこともあるものとそれを受け入れているので、完全な愛が自分の内にあるとは誰ひとり気づいていません。
聖なる瞬間には、あなたは自分の内なる愛の想念を再認識し、そうした想念を思い出し、放棄できなかったという御心と一つに結び付けます。
その想念を御心そのものに保っておけば、失うことなどありません。
したがって聖なる瞬間は、いかにしてあなたの兄弟を全ての人自分の心に留められるかを習う瞬間となり、失うことではなく満ち満たされる思いを経験できます。
こうした経験の後は、ただただ与えることができるだけです。
そしてこれこそ、まさに愛です。
こうしたことだけが神の法則のもとで自然だからです。
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聖なる瞬間には、神の法則が行き渡り、それだけが意義あるものとなります。
この世界の法則には全く何の意義もなくなります。
神の子が、神の法則を喜んで従う気になって受け入れれば、どんなことにも束縛されたり制限されたりする可能性は全く無くなります。
その瞬間、神の望み通りに、神の子は自由です。
束縛されたくないと拒否した途端、束縛を解かれるとかれるのです。
聖なる瞬間には、今までどおりでないことが何か起こるわけではありません。
単に実在の前に引かれていたベールが持ち上げられるだけのことです。
何一つ変わってはいません。
しかも、時間というベールが押しのけられた途端、変化していないことにすぐ気付きます。
そうしたベールが持ち上げられ、その後ろにある光に抵抗しきれないほど惹きつけられる思いなどまだ経験したことがなければ、愛を恐れずに信頼できるものは一人もいません。
しかし、 聖霊がこうした信頼をあなたにも持たせてくれます。
私はそれを 聖霊に差し伸べられて受け入れました。
聖なる瞬間を自分には与えてもらえないのではないかと恐れることはありません。
そして、私は拒否しなかったのです。
聖霊は私を通して、その一瞬をあなたが与えるにしたがい、あなたに与えてくれます。
こうしたことこそあなたにとって必要なのであり、それを自分で他に必要だと思い込んでいることなので、うやむやにさせないようにしなさい。
聖なる瞬間には、ただ一つ必要なことを神の子たちが同じように分かち合っているとあなたは気づく訳であり、気づいたら私と心を一つにして、必要なものを差し伸べる手助けをしてくれるでしょう。
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まさにあなたと私によって、平安は訪れます。
私と心を一つにして平安の想念を抱きなさい。
想念の中でこそ心と心は意思の疎通を行えるからです。
もしあなたが、父がご自身を授けられるがごとくに、自分自身を与えるつもりなら、真の自己たる存在を理解できるようになります。
そうしてこそ、愛の意義を理解できるのです。
ただ、理解するということは心の働き、それも心の中だけのことだと覚えておきなさい。
つまり叡智は心の中にあり、それの条件は共に心の中にあります。
もし、あなたは想念であって想念以外の何ものでもないのでなければ、それでしかないというべき存在と十分な意思の疎通はできてなかったはずです。
しかしあなたが何か他のものになることを好んだり、想念そのものであると同時にそれ以外の何かになろうとしたりする間は、意思の疎通をはかるための言葉を思い出せないでしょう。
いかにあなたがその言葉を完全に知っていたとしてもです。
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聖なる瞬間には、神を思い出させ、兄弟全員と意思の疎通をはかるための言葉も一緒に思いだせます。
意思の疎通をすることは連れがあってこそ一緒に思い出せるのであり、同様のことが真理についても言えます。
聖なる瞬間においては締め出されることはありません。
なぜなら過去は過ぎ去ったし、それと共に締め出す根拠も全部なくなったからです。
その根拠、源がなければ締め出すこともなくなります。
こうなるとあなたの源と兄弟全ての人の源が、あなたの心の中で締め出しの源にとって代わります。
神と神の力とがあなたの心の中で正当な場を占め、あなたは想念と想念の意思の疎通を思う存分経験するでしょう。
こうしたことができるという力によって、自分のあるべき本来の姿に確信が持てるようになります。
それは自分の創造主ならびに創造されたものが何であるか分ってくるからです。
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