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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
15章15-9 聖なる瞬間と神の魅力
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自我があなたに、自分の兄弟たちを 身体としてだけ見て取らせようとする半面、 聖霊はあなたが心眼を使えるようにし、兄弟たちから偉大な光線が輝き出ているのを見せて、その光は限りなく伸びていって神に届きそうです。
こうした心眼による心像への移行は聖なる瞬間において達成されます。
ただあなたはこうした移行には何が必然的に伴うのか習う必要があります。
それが分ってくれば移行を永久的に留まろうという気になってきます。
その気持ちをはっきりさせれば、心眼による心像はなくならなりません。それは永久的なものだからです。
一旦、自分の見たいものはそれだけだとして受け入れたなら、それは叡知へと変えられ、その役は、神が贖罪においてこの一歩だけは理解するので自ら引き受けてくれます。
したがって、あなたにその準備ができさえすれば、少しの遅れもないでしょう。
神はすでに準備していますが、あなたにはそれができていないだけです。
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私達の仕事はただ引き続き、できるだけ早く、妨げとなるものを全て真っ向から見つめ、あるがままに見てみるという不可欠の過程を続けることです。
自分が望むのはこれだと思うものに、全く何の満足感も見いだせないということは有り得ないからです。
そして両方とも意思の疎通を十分行えなくして、やがては不可能にしようとする企てに他なりません。
意思の疎通は無制限に行えてこそ意義があり、その意義に欠けると十分には満足できないものになります。
しかし結局は、意思の疎通が真実の関係を確立できる唯一の手段であり、こうした関係は神が定めたことであるから限りなく続くのです。
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聖なる瞬間において、 身体の代わりに偉大なる光線に気づくと、限りなき関係というものを再認識したことになります。
ただし、こうしたことが分るようになるには、まず 自我が 身体を使ってしようとすることをどれもこれも諦めること、そして 自我はあなたが分かち合いたいと思うような目的など、何一つ持っていないという事実を受け入れる必要があります。
なぜなら、 自我は自らの目的のためには一人ひとりを単なる 身体と見なし、あなたにも 自我にはなんらかの目的があると思える間は、 自我がそれを達成しようとして使う手段をあなたも選んで利用しようとするからです。
こうしたことは絶対に達成されません。
しかし、あなたもきっと気づいていますが、 自我はどう見ても果しえないような目標をかかげているとはいえ、持てる力をつくして、それもあなたが与えた力でそれを成し遂げようと躍起になるのです。
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自分の力を天国と地獄または神と 自我に分配しておいて、創造することを唯一の目的として授かった創造力を発揮しょうとしても、それは不可能です。
愛は増していくのが常です。
制限するということは 自我が要求するのであり、取るに足らない効果のないものにしたいという 自我の欲求そのものです。
あなたが兄弟を単なる 身体として見ると、しかもこれはその人を 身体から解放しない限り 身体として見て、そうすることであなたはその人からの贈り物を拒んでいます。
その人の 身体は贈り物を与えることはできません。
それに自分の 身体でその贈り物を求めようとしないことです。
ただあなたたちの心はすでにつながっているので、それが一つであるという事実を受け入れるだけでいいのです。
そうすれば天国での孤独感は消えてなくなります。
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神があなたを愛しているということや、あなたが創造したものは永久にあなたと一緒にいたいと思っているということを、 聖霊に話してもらいさえすれば、永遠なるものに心ひかれる思いが湧いてくるでしょう。
こうしたことを 聖霊が話すのを聞いたからには、ここでぐずぐずしていたいと思う者など一人もいないはずです。
あなたは天国にいきたいと切に願っているのであり、そこでならあなたは満ち満たされて平穏であり、本当に確かな愛に満つる関係にあって、どのような制限も有り得ないからです。
こうした関係を、あなたがあれこれ関わっています。取るに足らない関係と交換するつもりはないでしょうか。
身体というものは本当に取るに足らないし限界のあるものであって、あなたが人と接する時、その人には 自我が押しつけようとする限界などないものとして見ようとする人たちだけが、自由という贈り物を差し出してくれるはずです。
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あなたは自分の見る相手をどれほど制約しているか皆目見当がついておらず、その気になれば愛に満つる姿が全て見えるというのに、それに全く気付いていません。
罪悪感の魅力は神の魅力に逆らっているということ、これだけは絶対に覚えておきなさい。
あなたの心が神に惹き付けられる思いに限度はないのですが、あなたの持てる力とは神の力そのものであり、それと同様に強力なので、愛に背を向けることもできます。
罪悪感に駆られてつぎ込むものを、神には渡さないでおこうとしたりします。
あなたの視力は弱まり、はっきり見えず限られてしまいますが、それは父を神の子から引き離そうとしたり、双方の意思の疎通を制限しようと企てたりしているからです。
より遠く離すことに贖罪を求めようとはしないことです。
それに自分の心に見える神の子の姿を、その人の解放を妨げるものや、 聖霊がその人を自由にするために取り消さなければならないようなものに制限してはなりません。
制限できるものと信じたために、神の子を閉じ込めてしまったからです。
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身体に魅力を感じなくなり、何かを手に入れる手段としてそれを重要視しなくなったときには、意思の疎通になんの妨げもなくなり、あなたの思いは神のと同じように自由になります。
いかにして意思の疎通をおこなうためにのみ 身体を利用するのか、それを 聖霊に教わり、 自我のように分離と攻撃のために使うことを放棄すると、 身体は全く必要ないと分ってきます。
聖なる瞬間には 身体はなくなり、神の魅力だけを実感します。
それを全面的に心で受け止めると、その瞬間、神と完全に一つに結ばれます。
あなたには自分と神の一つに結合した姿を制限するつもりなどないからです。
実際にこうした関係にあるということこそ、あなたが心の底から願う唯一の真実の姿となります。
真実は全て今ここにあります。
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