Contents
- 奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
- 15章15-7 無用の犠牲
- ACIM-Text- chapter15-7-1
- ACIM-Text- chapter15-7-2
- ACIM-Text- chapter15-7-3
- ACIM-Text- chapter15-7-4
- ACIM-Text- chapter15-7-5
- ACIM-Text- chapter15-7-6
- ACIM-Text- chapter15-7-7
- ACIM-Text- chapter15-7-8
- ACIM-Text- chapter15-7-9
- ACIM-Text- chapter15-7-10
- ACIM-Text- chapter15-7-11
- ACIM-Text- chapter15-7-12
- ACIM-Text- chapter15-7-13
- ACIM-Text- chapter15-7-14
- 15章15-7 無用の犠牲
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編15章「聖なる瞬間」目次
- 奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
15章15-7 無用の犠牲
ACIM-Text- chapter15-7-1
特別な愛情関係に対して惨めな思いをしながらも魅力を感じ、いつもそんな魅力によって不明瞭にされているとはいえ、それ以上に神の子にとっては父の魅力は強烈なものです。
あなたを満足させてくれる愛は他にありません。他の愛などないことは確かだからです。
これこそ余すところなく与えられ、十二分に報われる唯一の愛です。
なぜならそれは完全だからです。何も求めたりしません。
全く純粋なので、その愛に加わった人たちは誰もが全てを持っています。
自我が携わる関係は何一つこうしたことに基づいてはいません。
自我が乗り出そうとする関係はどれもこれも確かに特別です。
ACIM-Text- chapter15-7-2
自我は単に何かを手に入れるためにいろいろな関係を持とうとします。
そのうえ与え手に罪悪感を抱かせて 自我に縛りつけておこうとします。
自我にはどんな関係にせよ怒りを抱かずに始めることなど考えられません。
なぜなら怒ることで友達を得られるものと信じているからです。
これを言明せずとも、それが 自我の目的であることは確かです。
自責の念を抱かせることなので、手に入れられるし手放さずにいられると、本当に信じているからです。
これが 自我の惹きつける力の一端、極めて弱いので惹きつけたままになど全然できそうにない魅力です。
ところが誰一人そのことに気づきはしません。
それというのも、 自我はいつも愛で惹きつけるように思わせるし、自責の念で引かれていると知覚する者には全く何の魅力もないからです。
ACIM-Text- chapter15-7-3
吐き気がするほどに自責の念に駆られるなら、それをそのまま見てみる必要があります。
自分にとってはそんな思いを本当のことにしてしまっているので、それをはっきりと見つめることが何よりも大切であり、そんな思いに浸るのをやめて手放せるようになることが絶対必要です。
価値があると信じるものを自分から選んで手放そうとする者など一人もいません。
しかし、あなたにとって自責の念のもつ魅力に価値があるのは、単にそれが何なのかよく見ておらず、いわば全くの暗闇でそれを判断したからです。
そんな思いを光にさらしだせば、あなたはただどうして自分がそんなものを欲しがったのであろうと、疑問に思うだけでしょう。
目をひらいて見たからといって、何一つ失うわけではないし、こんな見苦しいことは、あなたの神聖な心の中にはふさわしくないからです。
この神のもてなし役には、こんなところで誠心誠意、自分を注ぎ込むことなどできません。
ACIM-Text- chapter15-7-4
以前述べたように、 自我は自責の念を抱き続けさせたり、より強く感じたりさせようと企て、そんな思いがあなたにどんな影響を与えるのか、気づかれないようなやり方でやってしまいます。
それというのも 自我の根本的信条とは、他の人に何かをすればその何かから自分は逃れられるということだからです。
自我は全く誰のためをも思ってなどいません。
しかし 自我が生き残れるかどうかはあなた次第、 自我の邪な企てから自分は免除されているものとあなたが信じるか信じないかに懸かっています。
したがって 自我は、もしあなたが 自我のもてなし役なら、 自我の怒りを外に向けられるようにして、自分を護れるようにしてやるとあなたに忠告します。
かくしてひっきりなしに次ぎから次ぎへと尽くしがいのない特別な関係に乗り出すわけですが、そんな関係というのは怒りのためにできたのであり、自分以外のものに 向けて怒りをぶつければぶつけるほど、自分はより安全になれるなどと、正気とは言えない信念のためにのみ必死に尽くしているのです。
ACIM-Text- chapter15-7-5
こんな鎖が神の子を自責の念に縛りつけますが、 聖霊はそんなくさりを神の子の神聖な心から取り除くつもりでいます。
なぜなら、鎖のように連なる残忍さなど、選ばれた神のおもてなし役のまわりにはふさわしくなく、その人自身、 自我のもてなし役にはなれないからです。
解放されるその人の名において、そしてその人を解放しようとする存在の権威をもって、 自我が企てる関係をもっと綿密に見てみたうえで、 聖霊に真実にそって審いてもらいましょう。
もし、あなたがそんな関係を本気で見てみれば、喜んでそんなものは 聖霊に手渡す気になるのは確かだからです。
聖霊がどう見て取るかあなたには分りませんが、それを知りたいと思うようになります。なぜなら、ただあなたは先ず、自分がどんなものをでっちあげてしまったか見てみる気になりさえすればいいのです。
ACIM-Text- chapter15-7-6
どっちみち、 自我が関わる関係はどれもこれもみな、己を犠牲にすることでより大きくなれるとの考えに基づきます。
自我はその「犠牲」を清めと見なし、実のところそれがもとで苦々しい恨みを抱くようになります。
それでどちらかといえば直接攻撃することを好むようになり、本当に欲しいものを手に入れるのに手間取らないようにしょうとします。
ただし 自我は「実在」を自らに見えるままだと認め、直に攻撃することを誰も愛とは解釈するはずがないと気づいています。
しかし罪悪感を抱かせるということは、たとえそうとは思えなくても、確かに直接攻撃になります。
罪悪感を抱く者は攻撃されるものと思っており、そうなって当然だと言っているようなものなのでそれに惹きつけられてしまいます。
ACIM-Text- chapter15-7-7
そんな狂気で結ばれた関係にあると、自分の望まないものの魅力のほうが自分の望むものの魅力よりもかなり強く思えます。
なぜならお互いに、自分は相手のために何かを犠牲にしてきたと思い、そのことで相手を憎んでいるからです。
にも関わらず、これこそ自分の望みのものだと思っています。
相手を少しも愛してなどいません。
単に犠牲的行為が性に合うと信じているだけです。
そして、自分は自分自身にこんな犠牲を払うことを課しているのだから、相手も同じように罪悪感を抱き犠牲になって当然だと言います。
誰かを赦すとはその人を失うことだと 自我は信じているので、赦すことは不可能になります。
赦しを与えず攻撃することによってのみ、 自我は罪悪感を確保できるし、それで色々な関係をみな保っているのです。
ACIM-Text- chapter15-7-8
ただし、そうした関係は成り立っているように見えるだけです。
というのも 自我にとっては、関係があるとはただ 身体と 身体が一緒にいることを意味するからです。
自我は常にこれを要求するだけで、心がどこにあろうが、何を思っていようがそんなことは重要だとは思わないので気にもしません。
身体で犠牲的行為を受け止めてくれさえすれば、それで満足します。
自我にとっては、心は自分だけのものであり、 身体だけが分かち合えるものです。
想念については基本的には何も気にしていませんが、それが他の人の 身体を近づけたり、遠ざけたりするとなれば別です。
だからこうした意味合いで良い想念だと評価したり、悪い想念だと評価したりします。
誰かに罪悪感を抱かせて、そのためにその人を引き留めてくれるのが「良い」想念。
その人を罪悪感から解放してしまうのは「悪い」想念。
その人はもはや 身体どうしが意思の疎通をするとは信じられなくなり、「いなくなってしまう」からです。
ACIM-Text- chapter15-7-9
苦しみと犠牲の贈り物で、 自我は全ての結びつきを「祝福」してくれるでしょう。
そして 自我の祭壇で結ばれる者たちは、その苦しみと犠牲を自分たちが結ばれるための代償として受け入れます。
孤独を恐れるがゆえに関わり始めたにも関わらず、なおも寂しい思いを抱き続ける生活に身をおかざるを得ず、腹立たしいような同盟を結んで、相手によりいっそう罪悪感を抱かせるようにすることで気休めにしています。
そうすることでどちらも、自分自身の罪悪感は減ると信じているからです。
相手がいつも自分を攻撃したり傷つけたりしているように思えてきます。
ささいなことかもしれないし、「無意識」にやっているのかもしれない、けれど絶対に犠牲を要求されているように思えてならないのです。
自我の祭壇で一緒になった者たちの激怒は、あなたがそうと気づいている程度を遥かに超えています。
なぜなら、 自我が何を本当に望んでいるのか、あなたは気づいていないからです。
ACIM-Text- chapter15-7-10
あなたが怒っているときには必ず、 自我に「祝福」された特別な関係にあることは確かです。怒りこそまさに 自我からの祝福だからです。
怒りは色々な形で表れますが、愛は罪悪感を全く伴わないものなので、罪悪感を感じれば、それは愛ではないはずで怒りに違いない、と分ってくる者たちをいつまでも欺くことはできません。
怒りは全て、誰かに罪悪感を抱かせようとする企てにほかならず、 自我はただこんな企てに基づいて特別な関係を受け入れます。
罪悪感こそ 自我が必要とする唯一のものであり、あなたがそれと一体感を持っている限り、ずっと罪悪感に引き付けられたままになります。
しかし、覚えておいてほしいのは、 身体を寄せあっていることが、そく意思の疎通を行っていることになるのではないということです。
もしそうだと思っているなら、意思の疎通をおこなうことに罪悪感を感じ、 聖霊を耳にするのを怖がるようになりますが、それはその声を聞くうちに自分自身の意思の疎通をしたいという思いに気づくからです。
ACIM-Text- chapter15-7-11
聖霊は恐れを抱かせて教えるということはできません。
そのうえ、あなたが意思の疎通をするとは自分一人になることだと信じているうちは、どうやって 聖霊はあなたと意思の疎通ができるでしょうか。
意思の疎通をすると見捨てられてしまうと信じるとは、明らかに狂気の沙汰です。
ところが、多くの者がそう信じているのは確かです。
なぜなら、その人たちは、自分の心を自分個人のものにしておかなければ失うはめになりますが、 身体と 身体が一緒にいさえすれば、心は自分のものにしておけると思っているからです。
かくして 身体同志の結合が、心と心を離しておく方法となりました。
身体は心で指図するとおりになるだけです。
ACIM-Text- chapter15-7-12
身体には自律性があり、孤独を乗り越える能力があるという幻想は、 自我が自らの自律を確保するために立てた計画の成せるわざに過ぎません。
身体と一緒にいることが仲間同志のつき間と信じている限り、あなたは兄弟を罪悪感で 身体に縛りつけておこうと企てずにはいられない気持ちにさせられます。
そして罪悪感を抱いていれば安全で、意思の疎通をするのは危険だと見るようになります。
それというのも、 自我はいつも、孤独は罪悪感で解決できますが、意思の疎通こそ孤独になる原因だと教えるからです。
こんな教えが狂気に満ちているのは歴然としているにも関わらず、大勢の者が真に受けてそれを習っています。
ACIM-Text- chapter15-7-13
赦しは意思の疎通をおこなううちに見いだせるということは確かですが、同様に罪悪感が破滅のもとになることも確実です。
意思の疎通が破滅のもとだと信じる者に、意思の疎通こそ救いであると指導するのが、 聖霊の教える役目です。
そして 聖霊はその役目を果たしてくれます。
なぜなら、 聖霊の内なる神の力とあなたは真実の関係で結ばれており、そのつながりは実に神聖かつ強力なものなので、そんな間違った信念さえ恐れずに乗り越えることができるからです。
ACIM-Text- chapter15-7-14
不可能と思えることでも、聖なる瞬間を通じて達成できるし、それが不可能ではないということを明白にします。
聖なる瞬間には意思の疎通が回復しているので、罪悪感には何の魅力もありません。
そして罪悪感の唯一の目的は意思の疎通を混乱させることではありますが、ここでは何の役にも立たないのです。
隠すことは何もないし、個人的な思いなど一つもありません。
意思の疎通をしたいという気持ちそのものが、その機会を引き寄せ、孤独を完全に乗り越えさせます。
ここでは全てが赦されています。
自分が満ち満たされた状態にあるには誰もが重要な役を担っていることに突然気づくので、そこ 身体れ一人除外したとは思わないからです。
あなたの完全な姿を護るために、全ての人が招かれ歓迎されたのです。
あなたは自分の満ち満たされた状態が神の満たされた状態だと理解できます。
神の唯一の望みはあなたをそうした状態にすることだからです。
あなたが満ち満たされた状態にあってこそ、自分が神に属すると自覚できるようになります。
そしてここであなたは、創造された通りの自分、あるがままの自分というものを実感するのです。
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編15章「聖なる瞬間」目次