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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
15章15-10 再生の時
ACIM-Text- chapter15-10-1
時間の中では、父と神の子とが完全に結ばれるのを遅れさせようと思えば、あなたにはその力があります。
この世界では両者の間で罪悪感の魅力が邪魔するのは確かだからです。
永遠の世では時間にも季節にも何の意味もありません
しかしここでは、その両方を利用するのが 聖霊の役目、ただし 自我のような使い方はしません。
今はまさに、私がこの世界に誕生したことを祝ってくれる季節です。
ところがあなたにはどのように祝ったらいいのか分っていません。
それは、 聖霊に教えてもらいなさい。
そして私が 聖霊を通してあなたの誕生を祝いましょう。
私があなたから受け取れる唯一の贈り物は、私からあなたにあげた贈り物です。
私はあなた自身が自由になることを選ぶので、同じように私を自由にして欲しいのです。
キリストの時を一緒に祝いましょう。
なぜなら、私達が離ればなれになっていたのでは何の意味もないからです。
ACIM-Text- chapter15-10-2
聖なる瞬間こそ本当に キリストの時です。
解放されるこの瞬間、神の子は罪悪感にさいなまれずに済むので、無限の力を回復することになるからです。
私はこれだけを選んであなたに差し出すのですが、あなたはこれ以外にどんな贈り物をしてくれるつもりでしょうか。
それに、私を見るとは、一人ひとりのうちに私を見たうえで、私への贈り物をそれぞれの人に差し出すということです。
私には犠牲をささげられても受け取れないし、それは神についても言えることです。
それにあなたが自分自身に犠牲を求める度に、私に犠牲になるように頼んでいるようなものです。
どのような形で犠牲を払うにせよ、それは与えるということを無理に制約しているに過ぎないのだと理解しなさい。
それにこんな制約をすることで、私が差し出す贈り物をうけとるのを制限してしまったのです。
ACIM-Text- chapter15-10-3
文字どおり一つである私達は別々に与えることはできません。
あなたが私との関係を真実だとして受け入れる気になったら、罪悪感には何の魅力も感じなくなります。
私達が一つに結ばれたなら、あなたは兄弟全員を受け入れるからです。
一つに結ばれるという恵みだけを与えるために、私は生まれてきました。
それを私に与えて欲しい、そうすればそれはあなたのものにもなります。
キリストの時は自由という贈り物を与えるために定められた時であり、誰でも全ての人が受け取れる。
あなたがそれを受け入れることなので、一人ひとりに差し伸べることになるのです。
ACIM-Text- chapter15-10-4
あなたにはこの季節を神聖にする力があります。
今を キリストの時にできる力があなたにはあるからです。
あなたは一つ間違っただけなので、必要なのはただ知覚の仕方を一度変えるだけのことだから、こうしたことをみな同時にできます。
たくさん間違ったように思えますが、どれも全ての人同じことです。
自我は色々な形をとるがいつも同じ思いに基づいているからです。
愛でないものは必ず恐れであって、他の何ものでもないのです。
ACIM-Text- chapter15-10-5
いろいろと遠回りの通路をとおり地下を掘って暗闇に隠れ、もとの姿からかなり異なる形で出てくる恐れに従う必要はありません。
ただし、そんな形を全て支配する根源そのものをあなたが持ち続けるつもりでいる限り、その一つひとつを吟味する必要があることは確かです。
そんなかたちは別々のものではなく、単に同じ思いが異なった形で現われているだけで、自分の望みのものではないと見なす気になったなら、そんなものは全部いっしょに消えてなくなります。
その思いとは単に、自分は 自我のもてなし役か、神の人質かそのどちらかになれると信じていることです。
こんな選択をする必要があると思ったり、どちらを取るか決めなければならないものと信じたりしています。
犠牲を払っても得られるものは何もないという事実を受け入れられないので、二つにひとつしかないと思っています。
あなたの思考体系にとっては犠牲は絶対必要なので、犠牲を要さない救いなど何の意味もありません
犠牲と愛とをひどく混同していて、犠牲を求めない愛など考えられなくなっています。
だがあなたがよくよく見てみなければならないことがここにあります。
犠牲をはらうことは攻撃であって愛ではありません。
もしあなたがこの考えさえのみ込めれば、愛に対する恐れは消滅します。
犠牲についての想念が取り除かれれば、罪悪感は残らないはずです。
もし何につけ犠牲が伴うとすれば、誰かがそれを払い、誰かが得するに違いないということからです。
そこでただ一つ疑問が残ります。
それはどれだけの代償を払って、何が手に入るのかという疑問です。
ACIM-Text- chapter15-10-6
自我のもてなし役をしているうちは、自分の罪悪感は好きなときに全部ほかの人に押しつけられるので、心に平安を得られるものと信じています。
それにその代償を自分で払っているようには思えません。
自我が代償を要求するということは確かに明白ですが、自分にそれを要求されているとは絶対に思えないのです。
あなたは自分で招いた 自我が、それのもてなし役だと思っている者たちだけを、裏切ったりするものだということを認めるつもりはありません。
自我はこんなことを決してあなたに知覚させたりしないはずです。
それを気づかれたら、 自我は宿無しになってしまうからです。
そのことがはっきり飲み込めれば、 自我があなたの目につかないようにするためにどんな形を取ろうとも、あなたは欺かれたりしなくなります。
一つひとつの形は単なる覆いで、そのどれを見てもその後ろには一つの考えが隠されているだけだと気づきますが、その考えとは、愛は犠牲を要求するので攻撃や恐れとは切っても切れない仲だと言うものです。
したがって罪悪感は愛の代償であって、恐れを抱くことで弁償しなければないというのです。
ACIM-Text- chapter15-10-7
こんな次第で、神はあなたにとっていかに恐ろしい存在となってしまったことでしょうか。
そればかりか神の愛はどうみても大きな犠牲を要求するものと、あなたは信じ込んでいるでしょう。
なぜなら、完全な愛は身も心も全て捧げるよう要求するということになるからです。
したがって 自我の要求は神のほどではないように思えるし、多少怖いかもしれないが二つのうちではより小さい災難、だがもう一方は破滅させるべきだと判断します。
それはあなたが愛は破壊的だとみているからで、破滅させられるのは自分なのか他の人なのか、ただそれだけを心配しています。
その答えを特別な関係のうちに捜そうとしていますが、そんな関係にあると自分は一面加害者でもあれば、被害者でもあるように思えて、どちらにも完全にはなり切れません。
こうなると、完全なる愛であなたを全滅させるような神からは救われるものと思っているのです。
ACIM-Text- chapter15-10-8
あなたは自分以外の全ての人から犠牲を要求されていると思っています。
ところが犠牲を要求するのはあなただけ、それもただ自分自身から要求しているのですが、そんなこととはゆめにも思っていません。
しかも犠牲の要求は実に残忍だし恐ろしいので、それがどこにあるか受け入れられないのです。
こんなことを受け入れずにいて支払わざるを得なかった代償は実に大きいので、それをよく見てみるよりむしろ神を見捨てることにしました。
なぜなら、もし神があなたから全てを犠牲にするように要求するなら、神を自分から離れたところに投影して、神をもてなすのをやめた方が安全でいられるように思えるからです。
自我の裏切り行為を神のせいにしたうえで、 自我に神の座を取り、神から護ってほしいと招き入れます。
つまりあなたは自ら招いた 自我が自分を破滅させたり、全てを犠牲にしたりすることを要求するのだとは気づいていないのです。
ACIM-Text- chapter15-10-9
生半可な犠牲ではこの侵入者の残忍な欲求を満たせないでしょう。
親切そうに見えるとはいえ、全てを必ず犠牲にさせてしまうような相手だからです。
なまはんかな気持ちで 自我の虜になろうとしても思い通りにはいかないでしょう。
自我は約束を守らないし、あなたのためには何一つ残すつもりはないからです。
それにあなたは 自我をどっちつかずのままもてなすことなどできません。
完全に自由になるか身も心も全部とらわれの身となるか、どちらかを選ばなくてはいけない、この二つから選ぶしかないからです。
決断しなければならないことが一つあるのに、それを無視しようと企て、多くのことを妥協することで処理してきました。
だがこの決断をすべきだとそっくりそのまま認めさえすれば、決断するのは易しくなります。
救いは神のものなので簡単であり、とてもたやすく理解できます。
それを投影して、自分の外にあるとみようとなどしない方がいいです。
あなたの心の中にはそうした疑問と答、犠牲の要求と神の平安との両方があります。
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