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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
15章15-4 聖なる瞬間の実践
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この奇跡のコースの教えはすぐ習えないものではありません。
ただしあなたが神の意図することには時間がかかるものと信じているとすれば別です。
そう信じるとは、単に神の意志をそのまま認めるのを、できるだけ遅らせたいと思っているというだけのことです。
聖なる瞬間とはこの瞬間、まさに一瞬一瞬のことです。
あなたがそうあってほしいと願う瞬間こそ聖なる瞬間です。
そう願わないときは、その瞬間はあなたには起こりません。
それがいつなのか自分で決めなければいけません。
遅れさせるようなことはしないで欲しいのです。
過去や未来にその聖なる瞬間は見つけられませんが、その向こうで今か今かと、光をちらつかせながらあなたが受け入れる気になるのを待っているからです。
ただし、あなたが望まないうちは、卑小さから完全に解放されるその一瞬を、喜んで自覚することはできません。
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したがってあなたが実践するかしないかは、自分から進んで卑小さを全て手放す気があるかどうかに懸かっています。
重要なものがわかり始めるその聖なる瞬間は、ただ心から望みさえすればあなたのものになります。
ところが、それを望まず、代わりに卑小さを大切にする間は、それだけ聖なる瞬間が起こる可能性は少ないです。
強く望めば望むほど、その可能性を大きくします。
自分のやり方で、 救済を見い出すことができ自分のものにできるとなど思わない方がいいです。
自分の救いのために自ら作ったという計画を一つ残らず出して、神の計画と交換してもらうことです。
神の計画ならあなたを満足させてくれますが、他のものは何一つあなたに平安をもたらすことはできません。
それというのも平安は神から生じるのであり、他の誰からでもないからです。
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神の前では謙虚に、とはいえ神の内にて偉大になりなさい。
そして神の計画よりも 自我の計画を大事にしたりしないようにしなさい。
あなたは神の計画の中で自分の場所を空けたままにしているので、私に協力するつもりならその場所を埋めてくれなければならなりません。
それは神の計画にだけ加わると決断することで果たせます。
この世界を卑小さから解放するために、神が与えてくれた計画に加わってあなたの神聖な役割をやり遂げてほしいと、私はあなたを招いているのです。
神は自分のもてなし役を、この上ない解放感のうちに居させてくれます。
神から離れて、何らかの救いの計画に忠誠を誓う度に、あなた自身の心の中では自分に対する神の意志の価値が下がることになります。
それでもなお、あなたの心こそが神のもてなし役を果たすのです。
あなたの父が自身を託した聖なる祭壇がいかに申し分なく、染み一つない祭壇であるか、それを学ぶつもりはないでしょうか。
こうしたことをあなたは聖なる瞬間に気づくことになるし、その瞬間、喜んで神の計画以外の計画など一つ残さず引き渡す気持ちになるでしょう。
平安を得るための条件を自分から進んで満たそうとしてきたので、そこに平安があるということは、本当にはっきり分かります。
いつでも、どこでも自分が望む時に、聖なる瞬間を自分のものにできます。
それを実践するときには、卑小さに重要さを見つけようとして受け入れてしまった計画を、ことごとく手放しなさい。
その重要なものはそこにはありません。
自分一人ではどこにあるか分らないし、ただ思い違いすることになりかねないということを認識するためにのみ、聖なる瞬間を使うことです。
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私はその聖なる瞬間の中にいて、あなたが私を受け入れるにつれて明らかになります。
そして私を受け入れられるようになる程度によって、聖なる瞬間があなたのものになる時期が決まります。
聖なる瞬間をすぐにでも自分のものにするようにと、私はあなたを招いています。
神をもてなしする者の心が卑小さから解き放たれるのは、時間の問題ではなくて、そうありたいという気持ち次第だからです。
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この奇跡のコースの教えが単純な理由は、真理というものは単純なものだからです。
複雑さは 自我から来るのであり、明白なものを不明瞭にしようとする 自我の企て以外の何ものでもありません。
あなたは聖なる瞬間のうちにいつまでも生きられます。
それも極めて単純な理由のおかげで。
この理由の単純さを不明瞭にしてはなりません。
もしそうしようとするなら、それは単にできればそれに気づきたくないしそのままにしたくないからであるに過ぎません。
この単純な理由を簡単に言えば次のようになえいます。
すなわち、聖なる瞬間とは、その瞬間にあなたが申し分なく意思の疎通をおこなうということです。
つまり、その一瞬あなたの心は、受け取ると同時に与えるために開かれていることを意味します。
全ての心は意思の疎通をしていると再認識するということです。
したがって、何一つ変えようとはせずに、ただあらゆるものを受け入れるだけのことです。
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あなたが自分だけの思いを胸に秘めておきたがっているときには、どうすればそんなことが叶うでしょうか。
叶える方法があるとすれば、それは聖なる瞬間を本来の姿にする完全な意思の疎通を否定するというやり方だけです。
あなたは自分の分かち合いたくない思いを隠しておけるし、そんな思いを自分ひとりの心に抱いておけば救いを見いだせると信じています。
自分だけが知っている胸に秘めた思いの中で、自分一人の胸にしまっておきたいことはしまっておき、他の人と分かち合ってもいいと思うことはそうするという方法を見つけたと思っています。
そんなことをしておいて、自分はどうしてまわりの人たちと十分に意思が通じていないのだろうかとか、自分もまわりの人も一緒に全ての人を包んでいるという神と、なぜ意思の疎通が思うようにできないのだろうかと頭をかしげています。
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何らかの思いを隠しておこうとするたびに、意思の疎通を遮ることになりますが、それは自分でそうしたいからです。
意思の疎通を中断することが自分の役に立つ間は、完全な意思の疎通というものに気づくのは不可能です。
自分自身に正直に聞いてみなさい。
「完全な意思の疎通を望むだろうか、そしてそうするには邪魔になることを全て本当に快く永久に手放す気があるだろうか」、と。
その通りだとは言えないとすれば、 聖霊にはあなたのためにその準備ができていても、完全な意思の疎通をあなたのものにするには十分ではありません。
あなたに 聖霊と分かち合う準備ができていないからです。
それに意思の疎通には反対だと決めた心の中では、それを為すことはできません。
それというのも、聖なる瞬間はこころよく与えると同時にこころよく受け取る瞬間であり、全ての思いをつかさどる唯一の意志を受け入れるということだからです。
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聖なる瞬間の必要条件を見てみると、清らかだとは言えない思いなどあなたが一つも心に抱いていないこと、というのは含まれてはいません。
ただその中に、この思いだけは手放したくないというような思いがないようにすることは、確かにその条件に含まれています。
潔白な身には自分でなろうとしてなれるのではありません。
あなたがそうありたいという気になり次第、すぐ潔白にしてもらえるということです。
贖罪は、その必要がなくなり次第消えるでしょう。
完全な意思の疎通も、あなたが自分に隠そうとする限り、受け入れることはできません。
何かを自分で隠そうとすれば、それは自分にとって隠されたものになるのは確実です。
では、ただいつも欺かれないように警戒し、自分自身の胸にしまっておきたいような思いを護り通そうとなどしないようにすることを実践しなさい。
聖霊の清らかさでそんな思いを照らし出してもらい、全てを自覚して、 聖霊があなたに差し出す清らかさを受け入れる準備をさせてもらいなさい。
かくして 聖霊は、あなたが神のもてなし役であり、誰の虜でもなければ何の虜にもなっていないと快く認めさせてくれるのです。
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