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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編15章 「聖なる瞬間」より
15章15-3 卑小さ 対 偉大さ
ACIM-Text- chapter15-3-1
卑小さに満足してはなりません。
まず卑小さとは何を意味し、なぜそれには絶対に満足できないのかしっかり理解しなさい。
卑小さはあなたが自分自身に与える捧げ物です。
それを偉大さのかわりに差し出し、自分で受け入れます。
この世界の全てのものは卑小なものです。
それというのもこの世界は、卑小さがあなたを満足させられるという奇妙な信念により、そんな卑小さから作り上げられた世界だからです。
この世界で何かを求めて躍起になり、そうすることで心に平安を得られると信じているとすれば、あなたは自分自身を卑小なものにしていて、栄光に対して自分で目隠ししているようなものです。
卑小さか栄光か、そのどちらのために自分が努力し警戒を怠らずにいたいのか、それを選択できます。
あなたは必ず、一方を選ぶには、他の一方を犠牲にすることになります。
ACIM-Text- chapter15-3-2
ただ気づいていないのは、あなたが選ぶたびに、何を選択するかで自己評価しているということです。
卑小さを選べば心に平安は得られません。
自分で自分をそれに値しないものと判断したことになるからです。
そして、その代用品として何を差し出そうとも、そんなものは自分を満足させるにはあまりにも粗末な贈り物としか言えません。
卑小さがどんな形で現われようと、決してあなたを満足させることはできないという事実を受け入れること、それも喜んで受け入れることが肝心です。
自分の気が済むまで何度でもやってみるのはあなたの自由ですが、そうすることで自分が帰国の途につくのを遅らせるだけです。
なぜなら、あなたはただ偉大さのあるところ、つまり自分の本当の国においてのみ満足できるようになるからです。
ACIM-Text- chapter15-3-3
あなたには自分自身に対して徹底的に責任を負うべきこと、常に肝に銘じておくようにならなければいけないことがあります。
これを学ぶのに、最初は難しいと思えるかもしれません。
しかし、それが真実であり、むしろ自分の持てる力に敬意を表することだと認識したなら気に入るようになります。
自ら求め、卑小さを見つけた者よ、次ぎのことを覚えておきなさい。
あなたの決断はことごとく、自分をどう思うかに基づき、自分自身の価値をどう見ているかを現わすということ、を。
つまらないもので自分は満たされると信じて自分自身を制限すると、満足できなくなってしまいます。
あなたの機能は小さなことではないのであり、ただ自分の機能を見つけて、それを成し遂げることによって、卑小さから抜け出せるからです。
ACIM-Text- chapter15-3-4
聖霊はあなたの機能が何なのか分っているので、それには何の疑いもありません。
その偉大さについても、それは確かに重要な存在から 聖霊を通じてあなたに達するのだから、何の疑いもありません。
それはすでにあなたのものなので、手に入れようとしてあくせくする必要などないのです。
卑小さに反対するためには全力を尽くさなければなりませんが、それはこの世界では確かにあなたの偉大さを保護するために、いつも警戒を怠らないようにする必要があるからです。
卑小さの世界において、自分の偉大さを完全に自覚し続けることは、ちっぽけなものの手には負えない仕事だと言えます。
ですが、あなたはそうすることを頼まれています。
あなたの卑小さではなくて、あなたの偉大さに敬意を表して頼まれているのです。
それに、これはあなた一人に頼まれていることでもありません。
あなたが愛しい神の子のために何かをしようと努力するたびに、神の力に支えてもらえます。
卑小さを探そうとすると、神の力を自分自身で否定することになります。
神は神の子が全てのものではなくて、それ以下で満足することを望んではいません。
神は神の子の居ないままでは満足しないし、神の子は父が与えてくれたものに劣るもので満足するはずはないからです。
ACIM-Text- chapter15-3-4
私は以前、「あなたは 自我の虜になりたいのか、それとも神を接待者になりたいのか」と、尋ねたことがあります。
あなたが何かを決める必要がある時、この質問をそのつど 聖霊にしてもらうことにしなさい。
なぜなら、あなたが何かについて決断するたびにこれに答えているのであり、その答え次第で悲しみを招いたり、喜びを招いたりしているわけだからです。
神はあなたを創造した時に、自身をあなたに与えてくれたうえ、永遠に神の接待者になるようにと定めたのです。
神はあなたから離れてはおらず、あなたも神のもとを離れてはいません。
あなたがあれこれ手をつくして神の重要さを否定し、神の子を 自我の虜にしようとしても、神が自身と一つの心にならせてくれた者を卑小な存在にできません。
あなたが何かしようとするたびに、天国に取るそれとも地獄を取るか決断しているようなもので、自分で決めた方の状態を自覚することになるのです。
ACIM-Text- chapter15-3-5
聖霊はあなたの偉大さを、どんな卑小さにも汚されないように、あなたの心の中で、はっきりと全く安全な状態に維持しており、卑小さでできた世界があれこれささいな贈り物を差し出そうとしても、そんなものには影響されることはありません。
こうしたことは、 聖霊があなたのためにしてくれていることなので、あなたは 聖霊に反対できません。
聖霊を通して、神の方をとると決断しなさい。
卑小さの方を取り、それで自分は満足できると信じたりするなら、自分自身をそんなものだと決めることになります。
あなたのように自分自身を小さき者だと見なし、卑小さでも法螺を吹いて重要だと思わせ、それに満足すると信じたりするような者、神から与えられたからこそ、あなたの中にある力と栄光は、すべての者のためにあります。
卑小さを与えないようにするばかりか、受け取ったりもしないほうがいいのです。
神をもてなす者は心から敬意を表されて当然です。
自分は卑小なものだと思い違いをしても、あなたの偉大さはあなたの内なる存在からのものであり、その存在の内にあなたは留まっています。
では、父の接待者、永遠なる主 キリストの御名にかけて卑小さの影響を誰にも及ばさないことです。
ACIM-Text- chapter15-3-6
クリスマスという季節には聖なるものがこの世界に誕生したことを祝うのだから、あなたのために聖なるものを取ると決めたこの私と心を一つにしなさい。
神が自ら任命された接待者に、自分は重要な存在だという自覚を取りもどさせるために協力するのが私達の仕事です。
神の贈り物を与えるなど、あなたの卑小さではとても理解できないこと、しかしあなたにおよばぬことではありません。
神はあなたを通して自身を与えるつもりでいるからです。
あなたから一人ひとりの心に影響を及ぼしていき、その一人ひとりから神の子の創造したものへと、あなたから離れることなく、影響を及ぼされます。
あなたの卑小な世界をはるかにこえて、とはいえまだあなたの心の中で、神はどこまでも拡張しようとします。
しかも拡張したものを全て、神の接待者たるあなたのところへと連れてきてくれるのです。
ACIM-Text- chapter15-3-7
卑小さを置き去りにし、虚しい思いで彷徨うのをやめるのが犠牲を払うことになるでしょうか。
栄光に目覚めることは犠牲的行為ではありません。
しかし、栄光に劣るものを受け入れるとすれば、それは犠牲的行為そのものです。
接待者を務めている存在に敬意を表して、あなたの内に誕生した平安の王子に自分はふさわしいに違いないということを学びなさい。
あなたには愛とは何か分っていません。
それを粗末な贈り物とひきかえに手に入れようとしたのを見れば分るように、それを過小評価しすぎており、その偉大さを理解できなくなっているからです。
愛は卑小さではなく、あなたは愛なる存在の接待者であるので、その愛があなたのなかに留まっています。
あなたのうちに生きる偉大なるものを前にしては、自分自身についての哀れな認識や、お粗末な供え物など全部、いつのまにか無くなってしまうのです。
ACIM-Text- chapter15-3-8
聖なる神の子よ、何時になれば、神聖なるものだけがあなたを満足させ、心に平安を与えてくれると分るようになるのでしょうか。
私がそうであったように、あなたは自分一人のために学んでいるのではない、ということを思い出しなさい。
私があなたのために学んだからこそ、あなたは私から学ぶことができます。
私はあなたに属することだけを教えるつもりでいます。
そうすれば、共に神の接待者から、罪悪感を抱いたり気弱にならざるを得なくさせたりする卑劣な心の狭さを取り去ったうえで、そのかわりに自分の内なる栄光を胸暖まる思いで自覚させることができます。
あなたの心の中に私が誕生したということは、あなたが崇高なものに目覚めたということです。
私を馬小屋に迎え入れるのではなくて、神聖なるものへの祭壇、全き平安のうちに聖なるものが留まっている祭壇へと迎え入れなさい。
私の王国は、あなたの中にあるのだから、この世界のものではありません。
そしてあなたはあなたの父のものです。
さあ、共に、卑小さを永久に越えているはずのあなたに敬意を表しましょう。
ACIM-Text- chapter15-3-9
あなたと一緒に留まると決めたこの私と一緒に決断しなさい。
私は父が意思するとおりにしたがうつもりです。
父の意志は変わることなく、いつまでも平穏だと分っているからです。
あなたもその意志以外には何物にも満足しないでしょう。
私が学んだことは全てあなたのものだということを思い出し、その意志に劣るものを受け入れないことです。
父が愛するものを、私も同じように愛します。
しかし、それをあるがままとはいいがたい姿に受け入れることなど、父には不可能なはずであり、私にもできません。
それはあなたにもできません。
あるがままの自分を受け入れられるようになったら、もう自分自身に与えるための捧げ物を作ったりしなくなります。
自分は完全に満たされており必要なものは何一つないと分るし、自分のために何も受け入れることはできないと分るからです。
しかし、受けとっていることは確かなので、喜んで与えるようになります。
神を接待者は、何一つ見つけるために探し求める必要はないのです。
ACIM-Text- chapter15-3-10
もしあなたが本当にこころよく救いを神の計画にまかせる気になり、自分で平安をつかもうという気がなくなれば、救われます。
ただ、神の計画の替わりに自分のを使えるとは思わないことです。
むしろ、私と共に神の計画に加わりなさい。
一緒に神の子は神の接待者であるとはっきり宣言していけば、拘束されたままになりかねない人たちを全て解放できるかもしれません。
こうして、あなたが思い出すことを誰にも忘れないでいてもらえます。
そのうえ、これであなたも忘れずにいられるでしょう。
ACIM-Text- chapter15-3-11
一人ひとり全ての人に、神の思い出と自分の内なる天国の思い出だけを呼び起こさせなさい。
あなたは自分の兄弟が居るにふさわしいと思うところに、自分も居ると思っていることになるからです。
その人がどれほど地獄や卑小さの方を頼んでも耳を貸さず、天国や偉大なるものを求めるときにのみ、聞き入れることです。
その兄弟の求めはあなたの求めでもあることを忘れないで、その人に私と一緒に答えなさい。
神の力は永久に神の接待者の味方であり、その力は神が平安のうちに留まっている場だけを護ってくれるからです。
神の神聖な祭壇の前に、卑小さなど置かないほうがいいでしょう。
その祭壇は授かったもののおかげで、空の星をこえ天国にまでも達する祭壇です。
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