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奇跡講座テキスト編19章19-4-C ⅰ朽ちることなき 身体 本文
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命と無垢性、ならびに神自身の意思に対立して、 自我から罪と罪責感と死が生じました。
このような対立はどこに見られるでしょう。
もしあるとすれば、狂気に専心し、天国の平安に敵対する正気を失ったものの病んだ心の中だけでしょう。
一つだけ確かなことがあります。
罪と死のどちらも創造しなかった神は、あなたがそんなものに縛られることを意思してはいません。
神は罪を知らず、それが及ぼした結果も知りません。
葬列のなかで死装束を着た者たちは、彼らが生きることを意思している創造主を讃えて行進をしているのではありません。
その人たちは創造主の意思に従うどころか、それに反対しているのです。
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そして、その人たちが埋葬しようとしている死装束で纏われた 身体とは、一体何なのでしょうか。
それは、彼らが死に捧げた 身体、腐敗の象徴、罪の生贄、罪を生かし続けるために糧として差し出されているものであり、それの作り主から咎められ、呪われ、そしてそれを自分自身として見つめる会葬者たちから嘆き悲しまれるものです。
自分が神の子にこんな運命を与えたと信じているあなたこそ傲慢です。
しかし、彼を解放しようとしているあなたは、ただ創造主の意思を尊んでいます。
罪という傲慢さや、罪責という誇りや、分離を埋葬する墓所など、こうしたことのすべては、自分で気付いていない死への献身の一部にあてはまります。
あなたが 身体の上に置いた罪悪のきらびやかさが、 身体を殺すことになります。
なぜなら、 自我は、自分が気に入っているものを、それが服従するがゆえに殺すからです。
しかし 自我に従わないものを、 自我が殺すことなどできないのです。
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あなたにはもう一つ別のものに心を捧げることができるし、そうすることで 身体があなたの神聖な目的に役立つ限り、朽ちることなくまた完全に保たれます。
身体は何の感情も抱けないのと同じように、死ぬこともありません。
それは何一つしません。 それ自体では、朽ちるものでも朽ちないものでもありません。
それは実在しないのです。
身体は、朽ちるという小さな狂気の想念の結果であり、その想念は訂正できます。
なぜなら、神はそんな正気を逸した想念に対して、ご自身の想念をもって答えたからです。
それは神から離れたことのない想念であり、したがって、その答えに耳を傾けて受け入れたすべての心に、一つ残らず創造主を自覚させます。
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朽ちることなきものに心を捧げた者は、自分がそれを受け入れることを通して、朽ちるものから解放する力を与えられました。
奇跡についてのコースの最初の根本的原理を教えるのに、最も難しそうに思える奇跡が最初に達成できると実証する以上によい方法があるでしょうか。
身体はあなたの目的に仕えるということができるだけです。
それはあなたが見るとおりのものが、そのとおりのものとして見えるでしょう。
死は、もしそれが真実だとすれば、意思の疎通(コミュニケーション)の完全かつ決定的な途絶ということになり、それこそが 自我のゴールとしているところです。
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死を恐れる者たちは、自分がどんなに頻繁にまたどれほど大声で死に呼びかけ、意思の疎通(コミュニケーション)から自分を救うために来てほしい、と死に頼んでいるのか、それが分かっていません。
それというのも、死はすなわち安全だと見なされ、真理の光から救ってくれる偉大な闇の救い主であり、神の答えにたいする答えであり、神を代弁して話る声を聞こえなくしてくれるものだ、などと見なされたりしているからです。
しかし、死に逃げ込むことは、葛藤の終わりな訳ではありません。
神の答えだけがそれを終わらせます。
死に対するあなたの愛のごとく見えるものは、平安の流れが超えていかなくてはならない障害です。
そして、その障害はかなり大きくみえます。
なぜなら、その中には、 自我の秘密のすべてや、欺くための奇妙な手だてのすべてや、病んだ想念や滑稽な想像のあらゆるものがすべて隠されているからです。
ここで心を一つになることを決定的に終わらせるものがあり、ここで 自我の作り出したものが被造物に勝ち、生命のないものが生命そのものに勝利を収めたかのように見えます。
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自我が作った歪んだ世界の埃にまみれた片隅に、 自我は神の子を埋葬しようとします。
それは、 自我の命令で殺された神の子であり、その腐敗は、神でさえ 自我の力の前では無力で神自身の創造した生命を 自我の獰猛な願いに逆らって護ることができない、ということを証明しようとします。
私の兄弟よ、父の子よ、これこそ死の夢です。
埋葬もなく、闇の祭壇なく、陰鬱な戒律もなく、邪な罪を宣告する儀式もありません。
身体がこれらのものを待ち受けているということはありません。
身体からの解放を求めることはやめなさい。
それではなく、ただあなたが 身体に課した無慈悲で容赦ない命令の数々から 身体を自由にし、あなたが 身体に命じてさせようとしたことについて、 身体を 赦しなさい。
身体を賛美することで、あなたは 身体に死ぬように命じました。
というのも、それはただ死だけが生命を征服できるからです。
そして、いったい狂気以外の何が、神は敗北を見てとり、それが本当だと思ったりするでしょうか。
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死にたいする恐怖は、死の魅力が愛の真の魅力に屈する時に去って行きます。
罪の終焉はもうすぐそこまで来ています。
それはあなたの関わる関係の安全性のうちに静かに抱かれ、あなたがきょうだいと心を一つにしていることで護られ、神の大いなる力になるべく力を増す準備ができています。
救済の揺藍期は、愛によって注意深く守られ、それを攻撃しようとするあらゆる想念からも護られています。
それが大いなる役目を果たすためにあなたに与えられていて、静かにそのための準備が整えられています。
新たに生まれたばかりのあなたの目的は、天使たちに大事に育まれ、 聖霊に慈まれ、神自身によって護られています。
あなたがそれを守る必要はありません。
それは確かにあなたのものです。
なぜなら、それに死はなく、それの中に死の終わりがあるからです。
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一体どんな危険が、完全に無垢なる者を襲うことができるでしょうか。
何が、無罪の者を攻撃できるでしょうか。
どんな恐れが、無罪性の平安の中に入り込み、その平安を乱すことができるでしょうか。
あなたに与えられたものは、まだその幼児期においてさえ、神と十分な意思の疎通(コミュニケーション)を保っています。
その小さな手の中に、あなたが行うことになる奇跡を一つ残らずしっかり安全に握って、それをあなたに差し出しています。
時間のうちに生まれるが、永遠において育くまれる生命の奇跡には、年齢はありません。
この幼な子を見なさい。
あなたが兄弟を赦すことで、この幼な子に休息の場を与えたのです。
そしてそこに神の意思を見いだしなさい。
ここには、生まれ変わったベツレハムの嬰児がいます。
その子を保護する者は、ひとり残らずその子の後に従い、十字架ではなくて復活と生命に向かうでしょう。
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あなたにとって何かが自分の恐れの源になっていると思える時、なんらかの状況があなたを恐怖におののかせ、あなたの 身体を震撼させ、恐れのあまり全身に冷や汗が滲んでくるような時、それは必ずたった一つの理由によるものであることを覚えておきなさい。
そして、その理由とは、 自我がそれを恐れの象徴、すなわち罪と死のしるしとして知覚しているということです。
だから覚えておきなさい。
しるしも象徴も、どちらもその源と混同するべきではありません。
なぜなら、しるしも象徴も、それ自体ではない何かを表現しなくてはならないものだからです。
しるしも象徴も、それ自体の中には意味を見いだせるはずがなく、それが代わりに現しているものの中に探す必要があります。
すなわち、そこに反映されている想念の真偽に基づき、それらはあらゆるものを意味するか、それとも、何も実在しないものを意味するのか、そのどちらかとなります。
そうした意味の不確実性のように見えるものに直面したら、それに判断を下そうとしてはなりません。
判断の源になるようにとあなたに与えられている 聖霊の神聖な臨在を思い出しなさい。
あなたに代わって判断してくれるよう、それを 聖霊に手渡し、次のように言いなさい。
これを私から取り上げ、それを見た上で、私に代わって判断してください。
私がこれを、罪や死のしるしとして見たり、破壊の目的のために用いたりすることがありませんように。
どうすれば私がそれを平安の妨げとせず、あなたによって私の代わりに使ってもらい、平安の到来を早められるのか、教えてください。
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奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次
19-4-B 第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念