
〔19-Ⅳ-A 第一の障害 それを取り除きたいという欲求〔奇跡のコース テキスト編〕からの続き〕
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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編19章19-4-Ai罪悪の魅力 本文
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罪悪の魅力は、愛に対する恐れを生み出します。
なぜならそれは、愛が決して罪悪に目を向けるということがないからです。
真理をのみを観ることが、愛の本質です。
それは、愛がそこに愛そのものを観て、聖なる融合と完成の中で、愛そのものと結びつこうとします。
愛は恐れを見過ごすことしかできず、恐れは愛を見ずにいることしかできません。
なぜなら、愛の中では罪悪は終わっており、それと同じく確実に、恐れは罪悪に依存しているからです。
愛はただ愛だけに引き寄せられます。
罪悪を完全に見過ごしている愛には、恐れが見えません。
全く攻撃性を持たないので、愛は恐れるはずがありません。
恐れは愛が見ないものに引きつけられ、愛も恐れもお互い、他方が見ているものは存在しないと信じています。
愛が愛そのものを観るのとまったく同じような献身を持って、恐れも罪悪を見ます。
そして、そのどちらも、それぞれが外に送り出される使者たちを持っていて、その使者たちは、自分に使いを命じたその言語で書かれたメッセージを持ち帰ります。
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愛の使者たちは穏やかに送り出され、愛と優しさのメッセージを持ち帰ります。
恐れの使者たちは、罪悪を捜し出すようにと厳しく命じられます。
見つけられるかぎりの邪悪と罪のかけらを大切に集め、一つでも無くしたら自分が殺されるため、消して失くさないようにすべてを持ち帰り、支配者であり主人なるものの前にうやうやしく差し出します。
知覚は、それぞれ異なる言語で異なるメッセージを求めている二人の主人に仕えることはできません。
恐れが食い物にしようとするものを、愛は見過ごします。
恐れが要求するものを、愛は見ることさえできません。
容赦なく恐れを惹きつける罪悪の魅力は、愛の穏やかな知覚の中にはまったく存在しません。
愛が目を向けるものは、恐れにとっては無意味で、全く目に入りません。
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この世界におけるさまざまな関係は、この世界がどのように見られているかに基づいた結果です。
そしてこうしたことは、どちらの感情が呼び出されて、その使者たちが世界に送り出され、何を目にしたかを報告されるかで左右されます。
恐れの使者たちは、恐怖を通して訓練されており、その主人から呼び出されて一働きするように仕事を言いつけられれば震え上がります。
それというのも、恐れは自分の仲間に対してさえ無慈悲だからです。
恐れの使者たちは飢えたように罪悪を捜そうとし、後ろめたそうにこそこそと出かけて行きます。
ひもじさと寒さの中に置かれて極めて凶暴になった彼らに、彼らの主人が満足に食べさせるのは、彼らが持ち帰ってくる獲物だけです。
ごくわずかな罪悪の欠片も、彼らの飢えた目から逃れられはしません。
罪を獰猛に捜しまわる彼らは、目に付きしだいどんな生き物にも飛びかかり、泣き叫ぶ獲物を主人のもとに運んでむさぼり食い散らかします。
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世界を食い物にして祝宴とし、実相を餌食とするために、こんな獰猛な使者たちを世界に送り出してはなりません。
なぜなら、その使者は骨や皮や肉など生身のものについての言葉はあなたに届けるからです。
彼らは腐敗しやすいものを捜しだし、朽ちてすでに腐ったもので胃袋を一杯にして戻ってくるようにと教え込まれています。
その使者たちにはそんなものが素晴らしいのです。
というのも、それらが彼らの過酷な飢えの苦しみを和らげてくれるように思えるからです。
恐怖心が生み出す苦痛で気も狂わんばかりの彼らは、自分たちを送り出した主人に、自分たちにとって大切なものを捧げることで、その処罰を避けようとします。
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聖霊は、愛の使者たちをあなたに与え、あなたが恐れを通して訓練した使者たちの代わりとしました。
愛の使者たちももう一方の使者と同じように、懸命に自分たちが大切にするものをあなたに持ち帰ろうとします。
もしあなたが愛の使者たちを送り出すなら、無垢で美しいものたちや、優しくて親切なものだけを見るでしょう。
彼らもまた、どんなに小さな情け深い働きも、ささやかな 赦しの表現も、かすかな愛の息吹も、けして見逃さないように注意を怠らないでしょう。
そして、彼らは自分たちが見つけた幸福なものごとをすべて携えて戻ってきて、それらを慈しみつつあなたと分かち合うでしょう。
彼らを恐れてはなりません。
愛の使者たちはあなたに救いを差し伸べています。
愛の使者達はこの世界を親切なものだと見ているので、その使者たちがもたらすのは安全なメッセージなのです。
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もしあなたが 聖霊の与えられる使者たちだけを送り出し、ただその使者たちのもの以外のメッセージを望まないなら、もはやあなたは恐れを見ることはできなくなるでしょう。
世界はあなたの目の前で変容を遂げます。
すべての罪悪が洗い流され、そっと美しく塗り替えられます。
この世界には、あなた自身がその上に置かなかった恐れは含まれていません。
そしてまた、あなたが愛の使者たちにそこから取り除いて欲しいと頼んだのに、その恐れをまだ見続けるというような恐れは有り得ません。
聖霊があなたに与えたのは、きょうだいののもとに送り出されて、愛が見ているものをあなたにも持ち帰るための使者たちです。
その使者たちは、あなたが送り出していた飢えた犬のような恐れにそれを交代させるために与えられたのです。
だから、愛の使者たちは、恐れの終わりを知らせるために出向くのです。
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愛もまた、あなたのために祝宴を広げるでしょう。
それは、歌声や穏やかでうれしそうなささやきが聞こえてくるだけの静かな庭園の中で、一点のしみもないテーブルクロスで覆われた食卓に用意されます。
これはあなたの聖なる関係を祝う祝宴であり、そこではだれもがみな敬意に値する客として歓迎されます。
そして聖なる瞬間には、全員が聖餐のテーブルにつき、穏やかな気持ちでひとつにつながり、一緒に食前の祈りを唱えるでしょう。
そして私も、遠い昔に約束し、今もなお約束している通り、そこであなたに加わるでしょう。
なぜなら、あなたの新しい関係のなかでは、私は歓迎されるものとなったからです。
そして、私を歓迎してもらえるところには、私は必ず居ます。
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私が恩寵に満ちた状態において歓迎されるものとなり、とすれば、それはあなたがついに私を 赦したことを意味します。
なぜなら、私はあなたの罪の象徴になったために、あなたの代わりに死ななければならなかったからです。
自我にとっては、罪は死を意味し、贖罪とは殺害を通して達成されます。
救いとは、神の子があなたに代わって殺されるという方法をとった、と見なされています。
しかし、私が 身体は取るに足らないものだと承知のうえで、愛するあなたに自分のそれを差し出すようなことをするでしょうか。
それとも私は、 身体というものが私たちを引き離しておくことはできない、となど教えるでしょうか。
私の 身体があなたの 身体よりも価値があるわけではありません。
それはあなたの 身体と同じように、 救済を伝えるためのよりよい手段でしたが、 救済の源ではありませんでした。
誰も他の人のために死ぬことはできないし、死が罪を償うことはありません。
しかし、あなたは罪が実在しないことを示すために、生きることはできます。
あなたが 身体で自分の欲しいものを手に入れられると信じるうちは、 身体は罪の象徴のようにみえることは確かです。
それに、 身体が自分の望むものを与えてくれるとあなたが信じるうちは、 身体が罪の象徴であるかのように見えるでしょう。
身体が自分に楽しみ与えることができると思い込んでいる間は、それが自分に苦痛をもたらしうるということも信じることになるでしょう。
そんなわずかなものだけで自分が満足し幸せでいられると考えることは、あなた自身を傷つけることであり、あなたが持つことのできる幸せを制限することは、乏しい貯えを満たすために人生を完全にしてもらおうと苦痛に呼びかけることなのです。
これが、 自我が見るとおりの完成というものです。
なぜなら、幸せが取り除かれたあとに罪悪感がしのびこみ、幸せの代わりをつとめるからです。
聖餐は別の種類の完成であり、それは 身体というものを越えて広がるものであるがゆえ、罪悪感を超越します。
19-4-B 第二の障害「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念〔奇跡のコース 日本語訳〕→
奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編19章目次
19-4-B 第二の障害‐「 身体はそれが提供するもののゆえに価値がある」という信念