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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第7章 「神の国の贈り物」7-10本文
第7章 7-10 苦痛と喜びとの混同
ACIM-Text- chapter7-10-1
神の国は、この世界と同様に、いくつかの前提からもたらされる結果です。
あなたは自我の論法をその論理的な帰結に至る進めたのかもしれませんが、その帰結はあらゆる物事についての完全な混同です。
もし、あなたがこのような結果を真に見たとしたなら、そのようなものを望むことは有り得ません。
その中の一部を僅かでも望むとすれば、その唯一の理由は、あなたがその全体を見ていないからです。
あなたは自我の前提を喜んで見てみようとしますが、その論理的な帰結を見ようとはしません。
あなたが神の前提についても同じことをしたということは有り得るのではないでしょうか。
あなたの被造物たちは、神の前提に基づく論理的な帰結です。
神の思考がそうしたものをあなたのために定着しました。
それらはまさしくそれらが属するべきところにあります。
それらは、神の心と同一化したあなたの一部として、あなたの心に属しています。
しかし、あなたの心の状態と、あなたの心の中に何があるかについてのあなたの認識は、あなたが自分の心について何を信じているかに左右されます。
これらの信念が何であれ、それらが、あなたが心の中に何を受け入れるかを決定する前提です。
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実在していないものを自分の心の中に受け入れることも、実在しているものを拒否することも、いずれもあなたに可能だということは、言うまでもありません。
けれども、神がご自身の心を通してあなたの心に与えた機能は、あなたがそれを拒否することはあっても、それを阻止することはできません。
それはあなたが何であるかということからの論理的な結果です。
論理的な帰結を見る能力は、それを見ようとする意欲に左右されますが、真理はあなたの意欲とは何も関係ありません。
真理は神の意志です。
神の意志を分かち合いなさい。
そうすれば、あなたは神が知ってることを分かち合うことになります。
神の意志があなたの意志でもあること否定すれば、あなたは神の王国ならびに自分の王国の両方を否定しています。
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聖霊はあなたに苦痛を回避させる、ただそのためのみ導きます。
当然のことながら、これがゴールだと認識したなら、誰もそれに異議を唱るはずはありません。
問題は、聖霊の言うことが真実であるかどうかではなく、あなたが聖霊の言うことを聞きたいか聞きたくないかです。
あなたは苦痛とは何かを認識していないのと同様に、喜びとは何かを認識しておらず、実は、よく双方を混同しがちです。
聖霊の主な機能は、それらの区別の仕方をあなたに教えることです。
あなたにとって喜ばしいことは自我にとっては苦痛であり、自分が何であるかについて混乱している限り、あなたは喜びと苦痛とを混同します。
この混同が、犠牲という考え全体の原因です。
聖霊に従いなさい。
そうすれば、あなたは自我を手放すことになります。
しかし、あなたは何一つ犠牲にすることにはなりません。
それどころか、あらゆるものを得ることになります。
もし、あなたがこれを信じていたなら、葛藤はないはずです。
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それ故に、あなたはこの当り前のことを自分自身に実証しなくてはなりません。
あなたにとっては、それは当たり前のことではありません。
あなたは、神の意志と反対のことをするほうが、自分にとって良いことで有り得ると信じています。
それに、あなたは、神の意志と反対のことをすることが可能だとも信じています。
したがって、ありえない選択肢があると信じていることになりますが、それはまた、恐ろしいと同時に望ましくもあるというような選択肢です。
しかし、神は意志します。
願うということはしません。
あなたの意志は神の意志と同じように強力です。
というのも、あなたの意志はすなわち神の意志だからです。
自我の願望は何の意味もなしません
なぜなら、自我は不可能なことを願うからです。
あなたは不可能なことを願うことは出来ますが、神と共に行えるのは、意志することのみです。
これが、自我の弱さであり、あなたの強さです。
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聖霊は常にあなたとあなたの強さに味方しています。
あなたが何らかの形で聖霊の導きを避けている限り、あなたは弱いままでいたいと望んでいます。
けれども、弱さは恐ろしいものです。
それでは、この決断は、あなたが恐れることを望んでいるという以外に何を意味するでしょう。
聖霊は決して犠牲を求めませんが、自我は常に犠牲を求めます。
あなたがこうした動機の相違について混乱しているとすれば、それは投影のせいでしか有り得ません。
投影とは、動機についての混乱です。
そして、この混乱があるとすれば、信頼は不可能になります。
自分が信頼していない導き手に喜んで従う者は誰もいませんが、これはその導き手が信頼に値しないという意味ではありません。
この場合には必ず、それに従う者が当てないならないということを意味します。
しかし、これでさえ、単にその人自身の信念の問題に過ぎません。
自分自身は裏切ることが出来ると信じているので、その人は全ての物事がことごとく自分を裏切ることが出来るとも信じています。
しかし、これはただ、その人が間違った導きに従うことを選択しているからです。
恐れをいだかずに導きに従うことが出来ないので、その人は恐れを導きに結び付け、どの様な導き手にも従うことを拒みます。
もし、この決断の結果が混乱を生じたとしても、それは驚くに及びません。
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聖霊は、あなた同様、完全に信頼できます。
神ご自身があなたを信頼しており、したがって、あなたの信頼性に疑問の余地はありません。
たとえあなたがいかに疑問を持とうと、このことについてはこれからも常に紛れも無く明白です。
以前私が述べたことですが、あなたがすなわち神の意志です。
神の意志は無為な願望ではありません。
そして、あなたが神の意志と同一化するかどうかは、選択の余地はありません。
それはあなたの本性そのものだからです。
神の意志を私と分かち合うということについては、選択の余地があるように見えたとしても、実際には選択の余地はありません。
分離全体がこの誤りの中にあります。
この誤りから抜け出す唯一の道は、自分で何も決める必要はないと決断することです。
神の決断によって、あらゆるものがあなたに与えられています。
それが神の意志であり、あなたはそれを取り消すことは出来ません。
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あなたの偽の意志決定権を、自我は実に用心深く守っていますが、その権利を放棄することでさえも、あなたの願望でによって達成されるのではありません。
それはあなたのために、神の意志によって為し遂げられており、神はあなたを慰めのないままにして放置していません。
神の声は、苦痛と喜びとをどのように識別すればいいのか教え、あなたが作り出した混乱状態からあなたを導き出します。
神の子の心の中には何の混乱もありません。
父の意志がすなわち神の子そのものであるため、その人の意志は父の意志であるはずです。
ACIM-Text- chapter7-10-8
奇跡は神の意志と調和しています。
神の意志をあなたが知らないのは、あなた自身が何を意志するのかについて混乱しているからです。
これは、あなたが自分とは何かについて混乱しているということを意味します。
もしも、あなたが神の意志そのものであるにも関わらず神の意志を受け入れないのであれば、あbなたは喜びを拒否していることにです。
したがって、奇跡とは、喜びとは何なのか、それについてのレッスンです。
それは、分かち合うことについてのレッスンなので、それは愛についてのレッスであり、そのは喜びそのものです。
奇跡の一つひとつは、それ故に真理についてのレッスンであり、真理を差し出すことによって、あなたは苦痛と喜びとの区別を学んでいます。
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