奇跡講座テキスト編7章7-6 警戒から平安へ

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第7章 「神の国の贈り物」7-6本文

 

第7章 7-6 警戒から平安へ

ACIM-Text- chapter7-6-1

あなたは一なる子を一つのものとしてしか愛せませんが、それを断片化されたものとして知覚することは出来ます。

しかし、あなたが一なる子の全体の特質と見なさないような何かを、一なる子の断片の中に見ることは出来ません。

それ故に、攻撃は決して個別的なものではなく、それが全面的に放棄されなければならないのです。

もし、全面的に放棄されていなければ、それは全く放棄されてはいません。

自我が生じさせるのか、 聖霊が呼び覚ますのか、そのどちらかによって、恐れが作り出すか、愛が創造するかのどちらかとなりますが、どちらも、それを思考する者の心に必ず戻ってきて、その人の全知覚に影響を及ぼすことになります。

その全知覚には、の被造物たちやその人自身の被造物たちについてその人が抱く概念が含まれます。

もし、その人が恐れをもってその人たちを眺めるなら、その人たちのいずれをも賛美することはありません。

愛をもってその人たちを眺めるなら、その人たちの全てを賛美することになります。

 

ACIM-Text- chapter7-6-2

攻撃を受け入れる心は、愛することができません。

その理由は、そのような心は愛を破壊出来ると信じているからであり、従って、愛とは何かを理解していないからです。

愛とは何であるかを理解していないのなら、その心がそれ自身を愛あるものと知覚することはできません。

これが、実在するという自覚を失わせ、実在しない感情を引き起こし、全くの混乱を起こします。

あなたの思考がその力故にこれを起こしたのですが、あなたを救うことが出来るのも、あなたの思考です。

なぜなら、その力はあなたが作り出したものではないからです。

自分の思考を自分で選ぶ方向に向けることが出来るというあなたの能力も、その力の一部です。

もし、あなたにそれが出来ると信じていないとしたら、あなたは自分の思考の力を否定したのであり、かくして、あなたの信念においてそれを無力にしてしまったのです。

 

ACIM-Text- chapter7-6-3

自分を存続させる為の 自我の創意工夫の巧妙さはこの上ありませんが、それは 自我が否定している心の力そのものから生じています。

このことは、 自我は自らを存続させているものを攻撃している、ということを意味しています。

これは極度の不安をもたらします。

それ故に、 自我は決して自ら何をしているのか認識しません。

それは、論理的には完璧ですが、明らかに狂気です。

自我は、自分の存在の為に、自分の存在に全面的に敵対している唯一の源に頼っています。

その源の力を知覚することを恐れている為、 自我はその源を軽視せざるを得なくなっています。

これは 自我そのものの存在を脅かします。

このような状況を、 自我は耐え難いと見ています。

論理的であり続けますが、依然として狂っている 自我は、このような正気の沙汰とは言えない狂った状態を完全に狂った方法で解決します。

その脅威となるものをあなたの上に投影してあなたを存在しないものと知覚することによって、 自我は自らの存在を、脅かされていないものと知覚するのです。

そうすると、もしあなたが 自我に味方するなら、あなたは絶対に自分自身の安全を知らないままとなり、それにより 自我の存続が確保されることになります。

 

ACIM-Text- chapter7-6-4

自我は何一つ知るわけにはいかないのです。

叡智とは全的なものですが、 自我は全体性を信じません。

これを信じないということが 自我の根源です。

自我はあなたを愛することはありませんが、一方では 自我自体を生み出してくれたものに忠実なことは確かであり、自らが生まれた通りに生んでいます。

心は必ず、それが生み出された通りに生み出します。

恐れによって生み出された 自我は、恐れを繁殖させます。

これが 自我の忠誠であり、そのような忠誠により、 自我は愛を裏切る存在となります。

なぜなら、あなたは愛そのものだからです。

愛こそがあなたの力であり、そのことを 自我は否定しなければなりません。

自我はまた、この力があなたにあらゆるものを与えるからこそ、この力があなたに与えるあらゆるものを否定しなければならないのです。

あらゆるものを持っている者が 自我を望むことはありません。

それならば、 自我自体を作り出した存在自身が、 自我を望んでいないということになります。

従って、もし、 自我を作り出した心がそれ自身を知ったなら、 自我が直面することになる唯一の決断は、拒絶のみです。

そして、もしその心が一なる子のどの部分であれ認識したなら、その心は確実に自分のことを知ることになるでしょう。

 

ACIM-Text- chapter7-6-5

従って 自我は、全ての感謝と全てを再認することに反対し、全ての正気の知覚にも、そして全ての叡智にも反対します。

自我はそれらによる脅威を全的なものとして知覚します。

なぜなら、心が忠誠を誓う時、その約束の全ては全的なものだと勘づいているからです。

従って、 自我はあなたから自分を引き離さざるを得なくなり、あなた以外のものなら何にでも喜んで結びつこうとします。

しかし、他には何も存在していません。

それでも、心は幻想を作り上げることが出来、もしそうするなら心はそれらを信じることになるでしょう。

というのも、心はそのようにして、それらを作り出したからです。

 

ACIM-Text- chapter7-6-6

聖霊は、幻想を攻撃せずに、ただ取り消します。

なぜなら、 聖霊は幻想を全く知覚出来ないからです。

従って、それらは 聖霊にとっては存在しません。

聖霊は、葛藤を無意味と知覚することによって、幻想が生じさせる見かけ上の葛藤を解決します。

私が前に述べたように、 聖霊は葛藤をそのまま正確に知覚します。

そして、葛藤とは確かに無意味なものです。

聖霊は、あなたが葛藤を理解することは望んでいません。

葛藤は無意味であり、それは理解出来るものではないという事を、あなたに分からせたいと望んでいます。

既に述べたことではありますが、理解は賛美し感謝する気持ちになり、その気持ちは愛をもたらします。

それ以外のものは理解されません。

なぜなら、それ以外のものは実在せず、従って、それ以外のものは意味を持たないからです。

 

ACIM-Text- chapter7-6-7

もし、あなたが 聖霊が自分に差し出してくれるものを心に留めるなら、あなたが神の国以外のものを守る為に警戒することはあり得ません。

この事を受け入れるのを難しく思うとすれば、その唯一の理由は、あなたは今でも他に何かがあるかもしれないと考えているからです。

信念は、葛藤していない限り、警戒する必要はありません。

もし、葛藤があるとしたら、その信念の中には相入れない要素が存在し、争いの状態に陥っており、従って、警戒が必要不可欠となっているということです。

心に平安があるなら、そこに警戒の入り込む余地はありません。

それは真実ではない信念に対して必要であり、あなたが真実ではないことを信じていなかったなら、 聖霊によってそれが呼び出されることは決してなかったでしょう。

あなたが何かを信じている時、あなた自身がそれを自分にとって真実としたのです。

が認識しないことをあなたが信じる時、あなたの想念が神の想念と相反するように思え、こにれより、まるであなたがを攻撃しているかのように見えるようになります。

 

ACIM-Text- chapter7-6-8

私が繰り返し強調してきたように、 自我は自分がを攻撃出来ると確かに信じており、あなたがこれを行ったのだとあなたを説き伏せようとしています。

心が攻撃出来ないというのなら、 自我はいかにも論理的に、あなたは 身体であるに違いないという信念へと進んでいきます。

あなたをあるがままに見ないことにより、 自我 自我そのものを思い通りのものとして見ることが出来ます。

自我は自らの弱さを認識しているので、あなたからの忠誠を望んではいますが、それは真にあなたの実在の姿からの忠誠ではありません。

従って、 自我はあなたの心を 自我そのものの妄想的体系の中に引き込むことを望んでいます。

なぜなら、そうしなければ、あなたの理解に伴う光がそれを払いのけてしまうからです。

自我は自分が真理ではないので、真理のどのような部分も欲していません。

真理が総体的なものであるなら、真理でないものは存在出来ません。

どちらに対する忠誠の約束も、総体的とならざるを得ません。

つまり、心を分裂させることなく、双方があなたの心の中で共存することは出来ないということです。

平和に共存することが出来ないのなら、そして、あなたが平安を望むのであれば、あなたは葛藤という考えを全て、永久に、放棄しなければなりません。

このためには、警戒が必要となりますが、それは、あなたが何が真実であるかを認識していない間だだけです。

二つの全く矛盾する思考体系が真理を分かち合っていると信じている間は、あなたが警戒を必要としていることは明白です。

 

ACIM-Text- chapter7-6-9

あなたの心は、自らの忠誠心を二つの王国へと分割しており、あなたはどちらに対しても全面的に誠心誠意尽くしているとは言えません。

神の国と自らを同一とするあなたの自己認識については、狂気の考え方をしているときのあなたによる以外は、全く疑う余地はありません。

あなたが何であるかということは、あなたの知覚によって確立されるのではなく、それによって全く影響されることもありません。

いかなるレベルにおいても、自己認識の問題と知覚されるものは、事実についての問題ではありません。

それは、理解での問題です。

そのような問題があるということは、自分が何であるかを決めるのは自分だという信念があることをほのめかすからです。

この信念に対する忠誠に完全に身を投じている 自我は、そのことを全面的に信じています。

しかしそれは真実ではありません。

従って、 自我は真実ではないことに対して全面的に身を投じているのであり、 聖霊の叡智とは全面的に相反することを知覚しています。

 

ACIM-Text- chapter7-6-10

あなたは、 聖霊によってのみ、意味あるものとして知覚されます。

なぜなら、あなたの実在こそが、の叡智だからです。

このこと以外にあなたが受け入れる信念はどれもみな、あなたの内なるの声を不明瞭にし、従って、あなたにはが不明瞭になるでしょう。

の被造物を真に知覚しない限り、あなたは創造主を知ることは出来ません。

の被造物は分けることが出来ないからです。

創造主と被造物の一体性があなたの全一性であり、あなたの正常な心であり、あなたの限り無い力です。

この無限の力は、からのあなたへの贈り物です。

なぜなら、それがあなたの本質だからです。

あなたが自分の心をそこから切り離すなら、あなたはこの宇宙で最も強い力をまるで弱々しいものであるように知覚していることになります。

なぜなら、自分自身がその一部だとは信じていないからです。

 

ACIM-Text- chapter7-6-11

の被造物の中のあなたの占める部分が知覚されていなければ、の被造物は弱いもののように見えます。

そして、自分自身を弱められた者と見ている者たちは、確実に攻撃します。

しかし、その人たちの攻撃は、盲目滅法な攻撃とならざるを得ません。

なぜなら、攻撃すべきものなど何一つないからです。

従って、その人たちは色々な像を作り上げ、それには価値がないものと知覚し、その無価値性を理由にそれらを攻撃します。

自我の世界とは、このようなものに過ぎません。

つまり、実在しない世界です。

そこには何の意味もありません

そのような世界は存在しません。

それを理解しようとしてはなりません。

なぜなら、あなたがそうしようとするならば、それが理解出来るものであって、その価値が認められ、愛されることが可能なものだと、あなたが信じていることになります。

それがその存在を正当化することになりますが、それは正当化できるものではありません。

無意味なものを有意義にすることは出来ません。

このようなことは、狂った企てに過ぎません。

 

ACIM-Text- chapter7-6-12

自分の心に狂気を入り込ませるということは、あなたは正常な心を完全に望ましい状態と判断しなかったということを意味します。

あなたがもし、別の何かを望むなら、あなたは別の何かを作り出すでしょう。

しかし、それは別の何かだからこそ、あなたの思考体系を攻撃し、あなたの忠誠心を分割することになります。

このような分割された状態の中では、あなたは創造することは出来ない。

そしてあなたはこのような分割された状態に対して警戒しなければなりません。

なぜなら、心の平安だけが、拡張させることの出来るものだからです。

あなたの分離された心が、神の国の拡張を途絶しています。

そして、それを拡張することこそがあなたの喜びです。

もし、あなたが神の国を拡張させないなら、あなたは自分の創造主と共に考えてはおらず、が創造したように創造していないことになります。

 

ACIM-Text- chapter7-6-13

このような気が滅入りそうな状態において 聖霊があなたに優しく思い出させてくれるのは、あなたが悲しいのはと共同創造者としての自分の機能を果たしておらず、従って、あなたは自分自身から喜びを奪っているからだということです。

これはの選択ではなく、あなたの選択したことです。

あなたの心がの心と調和していないことがあるとすれば、あなたは意味を持たずに意志していることになります。

けれども、の意志は不変であるから、どのような意志の葛藤も不可能です。

これが、 聖霊の完全に首尾一貫した教えです。

分離ではなく創造がの意志だからこそ、それがあなたの意志なのです。

そして、これに対立するものは全て、全く何の意味もありません。

完全に達成されたものである一なる子は、ただ完全に達成することが出来るだけです。

喜びの内に創造された一なる子は喜びを拡張させ、創造主と被造物たちの両方と同一化し、その人たち一なるものであることを知ります。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第7章 「神の国の贈り物」目次

7-1  最後の一歩

7-2  神の国の法則

7-3  神の国の実相

7-4  真理の認識としての癒し

7-5  癒しと心の不変性

7-6  警戒から平安へ

7-7  神の国の全一性

7-8  信じ難き信念

7-9  神の国の拡張

7-10 苦痛と喜びとの混同

7-11 恩寵の状態

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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