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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第7章 「神の国の贈り物」7-5本文
第7章 7-5 癒しと心の不変性
ACIM-Text- chapter7-5-1
身体は、能力を発達させる為の枠組み以上のものではありません。
この事は、能力が何の為に使われるかという事とは全く別の事です。
能力を何に使うかは、ひとつの決断です。
このことに関する 自我の決断の結果は、極めて明白なので詳しく述べる必要はありませんが、 身体をコミュニケーションの為だけに使うという 聖霊の決断は、癒しに直接関係があるので、明確にしておく必要があります。
癒されていない治療者は、自分自身の召命を理解していないということは明白です。
ACIM-Text- chapter7-5-2
心だけがコミュニケーションを行います。
コミュニケーションへの衝動は創造しようとする衝動であるため、 自我にはその衝動を消し去ることは出来ることはなく、それ故に、 自我があなたに教えることが出来るのは、 身体はコミュニケーションを行うことも創造することも出来るのだから心は必要としない、ということです。
こうして 自我は、 身体は心と同じように行動出来るので、 身体は必要なものは自分で間に合わせることが出来るのだとあなたに教えようとします。
しかし、既に学んできたように、あなたは自分が信じていないことに従って行動することも出来るので、行動のレベルは学んだり、教えたりするレベルではありません。
しかし、そのように行動することは、教師としても学ぶ者としてもあなたを弱めることになります。
なぜなら、これまで繰返し強調してきたように、あなたは自分が信じていることを教えるからです。
一貫性のないレッスンは、教えることにおいても、学ぶことにおいても、上手くはいきません。
もし、あなたが病気と癒しの両方を教えるなら、あなたは教師としても学ぶ者としても、未熟です。
ACIM-Text- chapter7-5-3
癒しとは、全ての者が養える唯一の能力であり、癒される為には誰もが養わなければならないものです。
癒しとは、この世界における 聖霊のコミュニケーションの形態であり、 聖霊が受け入れる唯一のコミュニケーションの形態です。
聖霊は他の形態は認識しません。
なぜなら、 聖霊は 自我による心と 身体の混同を受け入れることはないからです。
心はコミュニケーションを行えますが、傷つけることは出来ません。
自我の仕えている 身体は、他の 身体を傷つけることは出来ますが、それは既に 身体と心とが混同されているのでない限り、起こり得ることはありません。
このような状況も、癒しの為に使うことも出来れば、魔術の為に使うことも出来ます。
しかし、魔術は常に、癒しは有害だという信念を必然的に含んでいるということを覚えておかなければなりません。
この信念が魔術の全面的に狂った前提であり、それ故に、魔術はそれに従って進みます。
ACIM-Text- chapter7-5-4
癒しは、ただ強くするのみです。
そして、魔術は常に弱めようとします。
癒しは、治療者自身の中に、他の誰もがその人と分かち合っていないものを知覚することはしません。
魔術は常に、何か「特別な」ものを治療者の中に見ます。
そしてその治療者は、その「特別な」ものを、それを持っていない者に贈り物として与えることが出来ると信じ込んでいます。
その人は、その贈り物は神から自分に与えられていると信じるかもしれません。
しかし、もし他の人には欠けている何かを自分が持っていると思うとすれば、その人が神を理解していないことは明らかです。
ACIM-Text- chapter7-5-5
聖霊は、偶然に上手く働くのではありません。
聖霊からの癒しは、常に上手く働きます。
治療者が常に 聖霊によって癒すのでなければ、その成果は一様ではないでしょう。
けれども、癒しそのものは一貫しています。
一貫性だけが葛藤から自由であり、葛藤から自由なものだけが全一だからです。
例外を受け入れ、自分は時には癒せて、時には癒せないと認めるならば、その治療者は明らかに一貫性の無さを受け入れていることになります。
従って、その人は葛藤の中にあり、葛藤を教えています。
神に属するものが、あらゆる時とあらゆる者たちの為にあるのではないということが、有り得るでしょうか。
愛はいかなる例外も設けることは出来ません。
恐れがある場合のみ、例外という考えに意味があるように見えます。
例外は恐れによって作り出されたので、恐れに満ちています。
「恐れている治療者」とは矛盾した言葉の表現であり、従って、葛藤のある心だけが、かろうじて意味あるものとして知覚出来る概念です。
ACIM-Text- chapter7-5-6
恐れは喜ばせることはしません。
癒しは喜ばせます。
恐れは常に例外を作ります。
癒しは決して例外を設けません。
恐れは乖離を生み出します。
なぜなら、恐れは分離を引き起こすからです。
癒しは常に調和を生み出します。
なぜなら、癒しは統合から生じるものだからです。
癒しは頼りに出来るものなので、予想可能です。
神に属するものは全て頼りにすることが出来ます。
神に属するものは全て、完全に実在するからです。
癒しは頼りになるものです。
なぜなら癒しは、神の声によって喚起され、神の法則と調和しているからです。
しかし、もし癒しが一貫性のあるものなら、一貫性なしにそれを理解することは出来ません。
理解とは、一貫性を意味します。
神は一貫性を意味するからです。
それは神の意味である以上、あなたの意味でもあります。
あなたの意味が神の意味と調和しないということは有り得ません。
なぜなら、あなたの意味の全てであり、かつ唯一の意味が神の意味から生じており、神の意味と同質のものだからです。
神が神ご自身と不調和であるはずがなく、あなたが神と不調和であるはずもありません。
あなたは自分の自己を自分の創造主から分離させることは出来ません。
創造主はご自身の実存をあなたと分かち合うことによって、あなたを創造しました。
ACIM-Text- chapter7-5-7
癒されていない治療者は自分の兄弟から感謝されることを望みますが、自分が兄弟に対して感謝することはありません。
その理由は、自分は兄弟に何かを与えているのに、その代わりとして同程度に望ましいものを受け取っていないと、考えるからです。
その人はほんの僅かしか学んでいないので、その人の教えることは限られています。
その人の癒しのレッスンは、その人自身の感謝の欠如によって限定されており、病気のレッスンになっています。
真の学びは恒常的なものであり、それが変化をもたらす力は非常に強力なため、神の子はある瞬間にその力に気付き、次の瞬間には世界を変えてしまえるほどのものです。
その理由は、自分の心を変えることにより、その人は変化の為に自分に与えられている最も強力な仕組みを変えたことになるからです。
こうしたことは、神が創造したままの心の不変性と決して矛盾しません。
しかし、あなたが 自我を通して学ぶ限り、あなたは心を変化させたと信じます。
このようにして、あなたは矛盾するように思えるレッスンを学ぶことが必要な立場に置かれています。
つまりあなたは、自分の心について心を変えることを学ばなければなりません。
そうすることによってのみ、心が確かに不変であると学ぶことが出来ます。
ACIM-Text- chapter7-5-8
あなたが癒す時に学んでいるのは、まさにこの事です。
兄弟が自らの心を変えることが出来なかったはずだと理解することによって、あなたはその人の中に不変の心を認識しています。
それが、あなたがその人の中に 聖霊を知覚する方法です。
その人の中に在る 聖霊だけが、自らの心を決して変えることのない存在です。
その人自身は、心を変えられると思うことはあります。
そうでなければ、その人は自分が病気だとは知覚しないはずでしょう。
従って、その人は自分の自己が何であるかを知りません。
あなたがその人の中に不変なるものだけを見るなら、あなたは実際にはその人を変えていないことになります。
あなたは、その人の為にその人の心について、あなた自身の心を変えることにより、その人の 自我がその人の中に作り出したと思っている変化を、その人自身が取り消すのを助けることになります。
ACIM-Text- chapter7-5-9
あなたは、二つの声が聞くことが出来るのと同じように、二つの見方で見ることが出来ます。
一方は、あなたに形象を見せます。
それは、あなたが恐れるが故に崇拝はしても、決して愛することのない偶像です。
もう一方は、あなたに真理だけを見せてくれます。
あなたはそれを理解するので愛することになります。
理解することは賞美するということです。
なぜなら、あなたは自分が理解するものであれば、それと同一化が出来るからであり、それをあなたの一部とすることによって、愛をもってそれを受け入れたことになるからです。
神ご自身が、このようにしてあなたを創造しました。
すなわち、理解と賞美と愛の中であなたを創造したのです。
自我はこうしたことを全く理解出来ません。
なぜなら、 自我は自分が作り出したものを理解せず、それを賞美することも、愛することもしないからです。
自我は、取り上げる為に取り入れます。
自我は誰かから何かを奪う度に、 自我が増大したと文字通り信じています。
私は、あなたの被造物たちによる神の国の増大について度々述べましたが、そうしたものは、あなたが創造されたようにしか、創造されることはありません。
神の国そのものである全一な栄光とこの上ない喜びがあなたの中にあり、それは与えられるのを待っています。
あなたはそれを与えたいとは思わないでしょうか。
ACIM-Text- chapter7-5-10
あなたは父を忘れることは出来ません。
なぜなら、私があなたと共に在り、私は父を忘れることが出来ないからです。
私を忘れるということは、あなた自身を忘れることであり、あなたを創造した父を忘れることです。
私たちの兄弟たちは忘れがちです。
それ故に、兄弟たちに必要なのは、あなたが私のことや私を創造した父のことを思い出すことなのです。
これを思い出すことによって、あなたはその人自身についてのその人たちの心を変えることが出来ます。
それは、私があなたの心を変えることが出来るのと同じです。
あなたの心は非常に強力な光なので、あなたがその人たちの心を覗き込めば、それらを光で満たせるほどです。
それは、私があなたの心を光で満たせるのと同じです。
私は聖餐で私の 身体を分かち合いたいとは思いません。
なぜなら、それは無を分かち合うことだからです。
私が最も優れた聖なる神の最も優れた聖なる子供たちと、幻想を分かち合おうとするでしょうか。
けれども、私の心であれば、確かにあなたと分かち合いたいと思っています。
なぜなら、私たちは一つの心に属していて、その心は私たちのものだからです。
この心のみをあらゆる場所に見なさい。
これだけがあらゆる所にあり、あらゆるものの中にあるからです。
それが全てです。
それはそれ自身の中にあらゆるものごとを含んでいるからです。
これだけを知覚するあなたは幸いです。
なぜなら、あなたは真実なるものだけを知覚するからです。
ACIM-Text- chapter7-5-11
だから、私の元に来なさい。
そして、あなたの中にある真理を学びなさい。
私たちが分かち合っている心は、私たち兄弟全員によって分かち合われています。
そして、私たちがその兄弟たちを真に見る時、その人たちは癒されます。
あなたの心を私の心と共に、その人たちの心の上に輝かせなさい。
そしてその人たちに対する私たちの感謝によって、その人たち自身の中にある光に気づかせなさい。
そうすれば、その光が今度はあなたと、一なる子の全体に向かって輝くでしょう。
なぜなら、これが、あなたから神への相応しい贈り物だからです。
神はそれを受け取り、一なる子に与えます。
それは神にとって受け入れるに値するものであり、従って、神の子たちにとっても受け入れるに値するものだからです。
これが、全ての者たちの中に神の祭壇を見る 聖霊との真の霊的交わりです。
これをあなたに賞美させることにより、 聖霊は、神とその被造物を愛するようにと、あなたに呼び掛けます。
あなたは一なる子をひとつのものとしてしか賞美し感謝することは出来ません。
これは創造の法則の一部であり、従って、全ての想念を司るものです。
奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第7章 「神の国の贈り物」目次