奇跡講座テキスト編20章20-3調整としての罪

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第20章 「 聖霊の心眼」20-3本文

 

第20章 20-3 調整としての罪

ACIM-Text- chapter20-3-1

罪への信念とは、一つの調整です。

そして、調整とは変更であり、すなわち知覚の変化であり、以前の状態が異なるものに駆られたという信念です。

したがって、どの調整も歪曲であり、それを実相に対抗して支えるためには何らかの防衛に頼ることになります。

叡智は、何の調整も必要とせず、実際、もし少しでも何らかの変換や変更が試みられたなら、失われてしまいます。

というのも、そうした試みは叡智をただちに単なる知覚、すなわち確かさが失われ、疑いが入り込んだある見方へと、格下げしてしまうことになるからです。

このように損なわれた状態においては、それが真実ではないからこそ、調整が必要となります。

真理はその人の本性のみを引き合いにし、理解されるものなので、真理に対してなら、一体誰が真理に調整を必要とするでしょう。

 

ACIM-Text- chapter20-3-2

どのような種類の調整にせよ、それは 自我に属するものです。

なぜなら、自らが関わる関係を望み通りのものにしようとする 自我は、あらゆる関係は調整できるかどうかに懸かっていると、固く信じているからです。

何の妨げもない直接の関係には、常に危険なものだと見なされます。

自我は、全ての関係の調停者を自任しており、自らが必要だと見なすあらゆる調整を行い、出会おうとしている者たちの間にそれらを差し挟んでは、両者が結ばれるのを防ぎます。

この周到に準備された妨害によって、あなたが自らの神聖な関係を神聖な関係のままとして認識することが難しくなっています。

 

ACIM-Text- chapter20-3-3

神聖な者たちは真理を邪魔することはありません。

その人たちは真理を恐れていません。

なぜなら、真実の中で、その人たちは自分たちの神聖さを認識し、それを見て喜びとするからです。

その人たちは真理を直に眺め、自分自身をそれに合わせたり、それを自分に合わせたりするために、調整しようと試みることはしません。

だから、その人たちは、それをどこに置きたいかを先ず自分で決めることなく、その人たち自身の中にそれがあったことを理解します。

その人たちの眼差しはただ問いかけるだけであり、その人たちの見るものがその人たちに答えます。

あなたは世界を作り出して、その後それに合せて自分を調整し、それを自分に合せて調整します。

また、あなたの知覚の中では、あなた自身と世界との間には何も相違がありません。

両方とも、あなたの知覚が作り出したものだからです。

 

ACIM-Text- chapter20-3-4

単純な問いが一つまだ残っており、答えを必要としています。

あなたには自分の作り出したものに満足しているのか、という問いです。

それは、殺害と攻撃の世界であり、その中であなたは一人怯えながら、絶え間なく続く危険の狭間を縫ってびくびくしながら進み、死が襲って自分を消し去る時期をもうしばらく待ってくれるよう望むのが精一杯です。

あなたがそれを作り出したのです。

それはあなたが自分で思っているものを、すなわち自分自身をどのように見ているかが描かれた絵です。

殺害者が怯えていて、殺す者は死を恐れます。

こうしたことは全て、自分が行った調整によって恐ろしいものになった世界に合せて自分自身を調整しょうとする者たちの、恐ろしい想念に他なりません。

そして、その人たちは内なる悲しいものから、悲しみながら外を眺め、そこに悲しみを見ます。

 

ACIM-Text- chapter20-3-5

あなたは、この世界が本当はどのようなものなのか、幸せな目を通して見るとそれがどんな風に見えるか、考えてみたことがあるでしょうか。

あなたの見ている世界とは、あなたが自分に下した裁きに他なりません。

そのようなものは全くそこに存在していません。

それにも関わらず、裁きがそれに対して判決を下し、それを正当化した上で、実在のものにしています。

そのようなものが、あなたの見ている世界です。

それは、自分自身に下した裁きであり、あなた自身によって作り出されたものです。

あなた自身を描いたこの病的な絵は、 自我の肖像であり、 自我の愛するものであり、 自我によって注意深く保存され、あなたの外側であるこの世界に置かれています。

そして、この絵が自分の外にあり、自分はそれに翻弄されていると信じている限り、あなたはその世界に対して調整しなければなりません。

この世界はまさに無慈悲であり、もし、それがあなたの外にあったとすれば、あなたは確かに恐れを抱くべきです。

しかし、それを無慈悲なものに作り出したのはあなたで、もし今、無慈悲なものがあなたのほうを睨み返しているように見えるのなら、それ訂正することは可能です。

 

ACIM-Text- chapter20-3-6

神聖な関係の中に在るにも関わらず、誰がいつまでも神聖でないままでいられるでしょう。

聖なる者たちが見る世界はその人たちと一体であり、 自我が眺める世界は 自我そのものと同質のものです。

聖なる者たちはそこに自らの無垢性を見るので、聖なる者たちが見る世界は美しいのです。

その人たちは世界に対して世界が何であるかを言いませんでした。

その人たちの命令に迎合するように調整しようとすることもしませんでした。

その人たちは美しくそれに問いかけ、「あなたは何か」と囁きました。

すると、全ての知覚を見守る存在がそれに答えました。

この世界が下す判断を、「私は何か」という問いに対する答えとして受け入れてはなりません。

世界は罪を信じていますが、それ今見ているように作り上げた信念というものは、あなたの外側にあるのではありません。

 

ACIM-Text- chapter20-3-7

神の子に、その存在自身の狂気に合せて自らを調整させようとしてはなりません。

その人の中に、真理の家の中に浸然と迷い込み、そのうちまたさ迷い出ていく異邦人がいます。

その存在は目的を持たずにやって来ましたが、 聖霊が差し出しても、あなたが受け入れた輝く光の前に、その存在が留まることはありません。

なぜなら、そこでは異邦人が住む家を失い、あなたが歓迎されるからです。

そこの彷徨える異邦人に、「私は何か」と尋ねてはなりません。

その存在は全宇宙の中で唯一分っていない存在です。

ところが、あなたはその存在に聞いて、その存在の答えに合うように自分を調整しようとします。

この甚だしくも傲慢な一つの突飛な想念、しかし真理の宇宙から知らぬ間に抜け落ちてしまうほど無意味で最小な想念、この想念があなたの導き手となります。

あなたはそのようなものに向かって、宇宙の意味を尋ねようとします。

そして、あなたは、晴眼の真理の宇宙の全ての中で唯一の盲目なものに、「神の子をどのように見るべきか」と尋ねるのです。

 

ACIM-Text- chapter20-3-8

判断力が完全に欠けたものに、人は判断を求めるでしょうか。

そして、もし、あなたがそれを求めたとして、あなたはその答えを信じ、それがまるで真実であるかのように、それに合わせて自らを調整したいでしょうか。

あなたの見ている世界は、そのようなものがあなたに与えた答えであり、あなたはその答えを真実にするために世界を調整する力を、それに与えました。

あなたはこの吹けば飛ぶような狂気に、自分の神聖ではない関係の意味を尋ね、その狂った答えに従ってその関係を調整しました。

それがあなたをどれほど幸せにしたというのでしょう。

あなたは、神の子を祝福するために喜びを抱いて兄弟に出会い、その人があなたに差し出した全ての幸せについて、その人に感謝したでしょうか。

あなたは兄弟を、神から自分に授けられた永遠の贈り物として認識したでしょうか。

兄弟の自分と双方の中で、互いを祝福するために輝いていた聖性を、あなたは見たでしょうか。

こうしたことこそあなたの聖なる関係の目的です。

依然として、その神聖な関係を神聖でないものとしてしまおうとする唯一のものに向かって、尋ねてはなりません。

手段と目的を調整する力をそれに与えてはなりません。

 

ACIM-Text- chapter20-3-9

何年も重い鎖で縛られてきた囚人たちは、飢えてやせ衰え、衰弱して疲れ切っており、あまりに長い間、闇の中で目を伏せていたので、その人の目は光を覚えていません。

こうした囚人たちは、自由になった瞬間、喜んで飛び上がったりはしません。

その人たちが自由とは何なのか、それを理解するのにしばらく時間がかかります。

あなたは埃の中を力なく手探りで進む中で自分の兄弟の手を触れましたが、それを手放すべきか、それとも長い間忘れていた生命あるものを掴むべきか、決めかねていました。

その手をしっかり握り、目を上げてあなたの逞しい仲間を見なさい。

その人の中にあなたの自由の意味があります。

その人は、あなたの傍らで十字架につけられていたかのように見えました。

ところが、その人の神聖さは汚されることなく完全なままであり、その人があなたの傍らにいれば、あなたは今日、その人と共に楽園へ入り、神の平安が分かるでしょう。

 

ACIM-Text- chapter20-3-10

これが、あなたとあなたの兄弟に対する私の意志であり、それはまた、あなたたちが互いに対し、また自分自身に対し差し出すべき私の意志です。

ここには、ただ神聖さと、無限の結びつきがあるだけです。

なぜなら、天国とは、恐れのベールに覆われていない直接的で完全な融合以外の何ものでもないからです。

ここで、私達は一つになって、完璧な優しさでお互いを眺め、また自分自身を眺めます。

ここでは、私達の間に分離があるという想念は全てが不可能になります。

分離の中の囚われの身であったあなたは、今や楽園の中で開放されました。

そして、私は、私の友であり、私の兄弟であり、私の自己であるあなたと、ここにおいて一つになります。

 

ACIM-Text- chapter20-3-11

兄弟に対するあなたの贈り物が、私達が一つに結ばれる時が間近だという確信を私に与えてくれました。

だから、私とこの信を分かち合い、それが義とされていることを知りなさい。

完全な愛に恐れがない理由は、まさにそれが罪を知らず、自らを見るように他の者たちを見ずにはいられないからです。

内側に慈愛を持って見ている完全な愛が、いったい外側に何を恐れるでしょうか。
無垢な者は安全を見て、心の清い者は神の子の中に神を見て、自分たちを父のもとへ導いてくれるものとして神の子の頼みとします。

そして、自らが居たいと意志するところ以外のどこに、その人たちが行こうとするでしょう。

神が神の子を神聖なものとして創造し、神聖に保ってきたのであり、あなたとあなたの兄弟も、今や同じく確かに互いに父のもとへと導いていくでしょう。

兄弟の中に、あなたの不滅性を永久に約束する神の光があります。

その人を罪なき者と見なさい。

そうすれば、あなたの中に恐れは有り得ません。

 

奇跡講座テキスト編 第20章「 聖霊の心眼」目次

20-1    聖週間

20-2   百合の花の贈り物

20-3   調整としての罪

20-4   箱舟に乗り込む

20-5   永遠の前触れ 

20-6    聖霊の神殿  

20-7   手段と目的の一貫性

20-8   無罪性の心眼

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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