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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第20章 「 聖霊の心眼」20-6本文
第20章 20-6 聖霊の神殿
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神の子の意味は、ただ創造主との関係の中にだけ存在しています。
もし、どこか他にあったとすれば、神の子の意味は不確実性の上に基づいていることになりますが、もとよりその関係以外の他には何も存在していません。
そして、この関係は完全に愛に満ちた、永遠なるものです。
ところが、神の子は、自分と父との間に神聖ではない関係を作り上げてしまいました。
その人にとっての実在する関係は、完全な結びつきの関係であり、途切れることなく継続するものです。
その人が作り出した関係は、部分的で、自己本位、無数の断片に分割され、恐れに満ちています。
父によって創造された関係は、完全に自己を包含し、自己を拡張させます。
その人が作り上げた関係は、完全に自己を破壊し、自己を限定するものです。
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聖なる関係と神聖ではない関係の両方の経験ほど、この相違をはっきり見せてくれるものはありません。
聖なる関係は愛に基づいており、穏やかで、妨げはなく、愛の上に安らいでいます。
身体はそこには侵入することはありません。
身体が入り込むあらゆる関係は、愛ではなくて偶像崇拝に基づいています。
愛は、知られることを望み、完全に理解され分かち合われることを望みます。
愛は、秘密がなく、隔離して隠しておきたいものも何一つありません。
愛は、歓迎を示す微笑みと、誤解の余地のない単純で明瞭な誠実さで、日の光の中を目を開き、穏やかに歩みます。
ACIM-Text- chapter20-6-3
しかし、偶像たちは分かち合いません。
偶像たちは、受け入れはしても、決して返しません。
愛されることは有り得ますが、愛することは出来ません。
偶像たちは自分に何が差し出しられているのか理解せず、偶像たちが入り込んだ関係はどれも全てその意味が失われています。
偶像たちの愛が、愛を無意味なものにしてしまいました。
偶像たちは秘密の中に生き、太陽の光を憎悪し、自分たちが隠れることが出来て、自分たちの秘密も一緒に隠しておける場所である 身体の闇の中に居ることを、幸せと思っています。
そして、そこでは、本人以外の誰も歓迎されないので、どんな関係も持ってはいません。誰にも微笑むことはなく、自分に微笑みかける人たちは目に入りません。
ACIM-Text- chapter20-6-4
愛の持つ神殿は、日光の届かないところで秘跡が曖昧に隠されているような陰鬱な神殿ではありません。
愛は権力を求めるのではなく、関わり合いを求めます。
身体というものは、関わりを通して権力を求める 自我が選択した武器です。
そして、 自我の関わる関係は神聖ではないものにならざるを得ません。
なぜなら、 自我はそうした関係の正体さえ見ないからです。
自我は、自らの偶像たちを増大させる捧げ物のためだけにそのような関係を望んでいます。
自我は、その他のものはただ投げ捨ててしまいます。
というのも、その他のものが差し出せるものは全て価値が無いものと見なされるからです。
住み処のない 自我は、できるだけたくさんの 身体を集めておいて、その中に自らの偶像たちを置くことで、それらを 自我の神殿にしようとします。
ACIM-Text- chapter20-6-5
身体とは隔離された一点の闇です。
隠された秘密の部屋、意味のない秘跡の小さな場所、注意深く守られていても何も隠せない無意味な囲いです。
ここでは、神聖でない関係は実相を逃れ、自らを生き延びさせるためにパン屑を探し求めています。
神聖ではない関係は、兄弟たちをここに引きずり込んで、偶像崇拝に繋ぎとめようとします。
ここには愛は入り込めないので、 自我は「安全」です。
聖霊は、愛が決して存在できないような場所に自らの神殿を建てようとはしません。
キリストの顔を見る存在が、全宇宙の中で キリストの顔が見られない唯一の場所を、自らの住み処として選んだりするでしょうか。
ACIM-Text- chapter20-6-6
あなたは、 身体を 聖霊の神殿にすることは出来ず、 身体は決して愛の器とはなりません。
身体は、偶像崇拝者の住み処であり、愛が咎められる住み処です。
というのも、ここでは愛は恐ろしいものとされ、希望が放置されるからです。
ここでは、崇拝されている偶像たちでさえも秘跡の神秘に包まれ、崇拝者たちからは離しておかれます。
これは、どんな関係にも帰郷にも捧げられていない神殿です。
ここには、分離という「秘跡」があり、畏敬の念をもって知覚され、尊ばれています。
神が存在させようとはしないようなものが、ここでは神から「安全」に保たれています。
しかし、あなたが気付いていないのは、兄弟の中にあるものであなたが恐れて見たくないもの、その何かがあなたにとって神を恐ろしいものに見せていて、知られざるものにしているという点です。
ACIM-Text- chapter20-6-7
偶像崇拝者は、いつも愛を恐れることになります。
というのは、愛の接近ほどその人たちを心底脅かすものはないからです。
愛をその人たちに近づけ、その必然の成り行きとして愛に 身体を見過ごさせるなら、その人たちは自分たちの神殿の強固な土台のように見えていたものが揺さぶられ、がたつき始めるのを感じ、恐れのあまり逃げ出すでしょう。
兄弟よ、あなたもその人たちと一緒に震えています。
しかし、あなたが恐れているものは脱出の前触れに他なりません。
この闇の場所はあなたの住み処ではありません。
あなたの神殿は脅かされていません。
あなたはもはや偶像崇拝者ではありません。
聖霊の目的は、あなたの 身体の中にではなく、あなたの関係の中に安全に保たれています。
あなたは 身体から脱出したのです。
あなたがいるところに、 身体は入ってくることが出来ません。
聖霊がそこに自らの神殿を建てたからです。
ACIM-Text- chapter20-6-8
関係に序列はありません。
それらは単に、関係であるか、ないか、そのどちらかでしかありません。
神聖でない関係は、もともと関係ではありせん。
それは孤立の状態なのですが、そうではないものに見えています。
それ以上のものではありません。
あなたと神との関係を、神聖ではないものにするという狂った考えが可能であるかと思えた瞬間に、あなたの全ての関係が意味の無いものとなりました。
その神聖とは言えない瞬間に時間が生まれました。
そして、その狂った想念を住まわせてそれに実在性を与えるという幻想を与えるために、 身体が作り出されました。
それで、その想念は、時間の中で僅かの間維持された後に消滅することになる住み処を持つかのように見えました。
というのも、実相に敵対して、この狂った想念をほんの一瞬より長く住まわせられるようなものは有り得ないからです。
ACIM-Text- chapter20-6-9
偶像たちは消滅せざるを得ないものであり、去った後には何の痕跡も残しません。
偶像たちの力のように見えるものがもたらす神聖ならざる瞬間は、一片の雪のように儚いものですが、雪のように麗しいわけではありません。
あなたはこのようなものを、聖なる瞬間の永遠の祝福とその限りない恩恵の代わりに望むのでしょうか。
とても強力なものに見えていますが、激しく誤解され、偽りの魅力に多大な思い入れをしている神聖ではない関係が持つ悪意のほうを、平安と理解を差し出してくれる神聖な瞬間よりも、あなたは好むのでしょうか。
それならば、 身体を脇に置き、あなたが真に望むものを歓迎して上昇することによって、静かにそれを超越しなさい。
そして、 聖霊の神聖なる神殿からは、あなたが目覚めて後にしたものを振り返ってはなりません。
幻想を超越し、それらをはるか遠くに後にした心を、どんな幻想も惹きつることは出来ません。
ACIM-Text- chapter20-6-10
神聖な関係は、実相における神の子と父との間の真の関係を反映するものです。
聖霊は、その関係が永久に永続するという確信を抱いて、その中で休らっています。
その強固な土台は、永遠に真理によって支えられており、その上には愛が愛自身に与える優しい微笑みと柔和な祝福が輝いています。
ここで、神聖ならざる瞬間は、安全な帰郷という神聖な一瞬へと、喜んで交換されます。
ここに、真の関係へと続く道が優しく開かれていて、あなたと兄弟はその道を一緒に進み、感謝のうちに 身体を後にして、永遠の腕の中に憩います。
あなた達を迎え入れ、永遠の平安を与えるために、愛の両腕は開かれています。
ACIM-Text- chapter20-6-11
身体というものは、 自我の偶像であり、罪への信念が内になり、外に向けて投影されたものです。
これが、心の周りを取り囲む肉の壁のように見えるものを生みだし、心を空間と時間を占める微笑な一点の中に囚人として幽閉します。
死に恩義を受けているこの囚人は、溜息をついて悲嘆に暮れ、その主人を讃えて死んで行くために一瞬が与えられるだけです。
そして、この神聖ならざる瞬間が、生命のように見えています。
この絶望の一瞬、忘却の面にぼんやりと浮かぶ水も無く乾ききった砂の小島が、です。
ここに、神の子は僅かな間立ち寄って、死の偶像たちに帰依し、そこから去っていきます。
そして、ここではその人は生きているというより、むしろ死んでいます。
しかし、その人が偶像崇拝と愛の間で再び選択するのも、ここにおいてです。
ここで、その人には、 身体を賞美しながらこの瞬間を過ごすか、 身体からの開放を自分自身に与えることにするか、を選ぶ機会が与えられています。
ここで、その人は、以前に選択した神聖ならざる瞬間と入れ替えるべくその人に差し出される聖なる瞬間を受け入れることが出来ます。
そして、ここで、その人は関係とは自分の破滅ではなく 救済であると、学ぶことが出来ます。
ACIM-Text- chapter20-6-12
これを学んでいるあなたは、まだ今も恐れを抱いているかもしれませんが、身動きが出来ない程ではありません。
あなたにとって、今や聖なる瞬間は、それに対をなすように思える神聖ならざる瞬間よりも大きな価値を持つようになっていて、自分が本当は一方しか望んでいないということも学びました。
今は悲しみの時ではありません。
混乱はあるかもしれませんが、落胆はそれに相応しくはありません。
あなたには一つの実在する関係があり、それには意味があります。
その関係は、あなたと神との間に実在する関係と同質です。
それは、ちょうど等しいもの同士が互いに同質であるのと同様です。
偶像崇拝は、過去のものであり無意味です。
おそらくあなたは、兄弟を今でも少しだけ恐れているのでしょう。
また、神に対する恐れの影が僅かに残っているかもしれません。
しかし、 身体を越えた一なる真の関係を与えられた者にとって、それが何だというのでしょうか。
その人たちを、 キリストの顔を見ることから長い間引き止めておくことが出来るでしょうか。
それに、その人たちが長い間、父との関係についての記憶を甦らせずにおいたり、父の愛の想起を自分から離したままにしておいたりすることが出来るでしょうか。
奇跡講座テキスト編 第20章「 聖霊の心眼」目次