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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第25章「神の正義」25-9 本文
第25章25-9 天国の正義
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天国の正義が、あなたの些細な誤りを訂正できないと考える事は傲慢でなくて何でしょう。
そうした考えは、それらの誤りが間違いではなく罪であり、永遠に訂正不可能であり、正義ではなく復讐の対象になる、という事以外に何を意味するでしょう。
あなたは、罪が及ぼす結果の全てから解放されようという意欲があるでしょうか。
その答えが必然的にもたらす事の全てを理解するまで、あなたはこの問いに答える事は出来ません。
なぜなら、もしこの問いに「はい」と答えるとしたなら、それはあなたが天国の平安の方を好むので、この世界で価値観の全てを後にするつもりだという事を意味するからです。
また、一つの罪でも持ち続けようとはしないという事です。
そして、罪をその場に保とうとして、こうした事が可能だという事を疑う気持ちを一つでも大切に保持するような事もなくなります。
今や真理が全ての幻想よりも大きな価値を持っていると、あなたは本気で思うようになります。
そして、あなたは何が真理なのか自分では知らないので、真理は自分に明らかにされなければならないと認識します。
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不本意な気持ちで与える事は、その贈り物を得ないという事です。
なぜなら、あなたはそれを受け入れる事を不本意に思っているからです。
それを受け取る事に対する不本意な気持ちがなくなり、それが自分に与えられる事を意志するようになるまで、その贈り物はあなたの為に取っておかれます。
神の正義は、恐れではなく感謝を保証します。
あなたが与えるものは、あなたを含めて誰からも失われる事はなく、天国の中に大切に保管されます。
天国には神の子に与えられた宝物の全てが神の子のために蓄えられていて、それを受け取る為に喜んで手を差し出す者であれあ、誰にでも与えられます。
それに、これらの宝物は与えられても減るわけではありません。
与えられる贈り物の一つひとつが、蓄えを増やしていく事になります。
神は、公平だからです。
神は、 救済を神からの贈り物だと知覚する事を不本意だとする神の子の気持ちと戦う事はありません。
しかし、それが全ての者に受け取られるまで神の正義が満足する事はありません。
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聖霊が問題を解決する時、その答えはいつも、誰一人損失を被る事のない答えであると確信していなさい。
聖霊は誰にも犠牲を求めないのだから、これは間違いなく真実です。
ごく僅かでも誰かの損失を要求する答えは、問題を解決していないばかりか、問題を付け加えて大きくし、その問題をさらに解決困難なもの、より不公平なものにしたからです。
聖霊が不公平である事を解答と見なすことは有り得ません。
聖霊にとって、不公平であるものは、まさしくそれが不公平であるからこそ、訂正されなければなりません。
そして、誤りとは何であれ全て、少なくとも誰か一人が不公平な見方で見られている知覚です。
したがって、正義が神の子に授けられていないことになります。
誰であれ損をしているように捉えられている時には、その人は有罪宣告をされたのです。
そうして、正義の代わりに罰がその人の受け取るべきものとなります。
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無垢性が見えている時に罰は不可能となり、正義が確実となります。
聖霊の知覚は、攻撃の為の根拠を残しません。
攻撃を正当化できるのは損失だけであり、 聖霊にはいかなる種類の損失も見えません。
この世界では、他のやり方で問題を解決します。
この世界においては、解決とは、誰が勝利し誰が敗北するかで決まる状態であり、そして、勝者の取り分と敗者がそれに対抗してどれだけ手元に残せるかが決まる状態と見ます。
しかし、問題は依然として解決されないままです。
それというのも、敗者がいない状態、つまり誰一人不当に扱われ奪われたままに放置されず、復讐を生む口実が残されないという状態を設定できるのは、正義しかないからです。
問題の解決が復讐という事は有り得ません。
復讐とは、せいぜい最初の問題に殺害があからさまではないもう一つの問題をつけ加えるだけのものです。
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聖霊の問題解決こそが、問題を終わらせるやり方です。
問題は、正義と出会ってはじめて解決されるます。
そうなるまで、問題は繰り返し生じます。
それは、まだ解決されていないからです。
「正義とは誰も敗北しない事を意味する」という原則は、この奇跡のコースにとって決定的に重要なことです。
なぜなら、奇跡は正義を拠り所とするからです。
ただし、それはこの世界の目が見ている正義ではなく神が知る正義であり、そして叡智が 聖霊の与える視覚に反映されてもたらされる正義です。
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誰一人、敗北に値する者はいません。
そして、その人にとって公正でない事は決して起こり得ません。
癒しは全ての人のためにあるはずです。
攻撃に値する人など誰一人いないからです。
誰かが他の人より苦しみに値するというのでない限り、奇跡にどんな序列が有り得るでしょう。
そして、そうした事が、完全に無垢な者に対する正義でしょうか。
奇跡とは、すなわち正義です。
奇跡は一部の人にだけ与えられる特別な贈り物ではありません。
それを受けるに相応しくない者や、咎深きゆえに癒しから遠ざけられている者には、与えられないままでおかれる、といったものではありません。
もし 救済の目的が特別性を終わらせる事だとすれば、 救済から離れていられる者がいるでしょうか。
もしいくつかの誤りは赦されざるもので、癒しと平安の回復ではなく復讐を当然とするものであるとすれば、 救済の正義はいったいどこにあるのでしょうか。
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救済は、神の子が自ら求めたよりもさらに不公平になるような助けを与えようとはしません。
もし 聖霊の贈り物である奇跡が、選ばれた特別なグループにだけ特別に与えられ、他の者たちはそれに値しないとして引き離しておかれるとすれば、 聖霊は特別性との同盟者ということになります。
聖霊は自らが知覚できない事は証言もしません。
そして、誰もが、癒しと解放と平安という 聖霊の贈り物を授かる資格を等しく持っています。
自分に代わって解決してもらうために問題を 聖霊に委ねるという事は、あなたはそれが解決される事を望んでいるという事を意味します。
聖霊の助けなしに自分で解決しようして問題をとっておく事は、問題を未解決で片付かないままにして、不正義と攻撃の力を持ったまま存続させるという決断をする事です。
あなたが、最初に自分が公平を欠く者となる事を決断しない限り、誰一人あなたに対して公正を欠く事は有り得ません。
そのような決断を下したなら、どうしてもあれこれ問題が生じてあなたの行く手を遮り、平安は憎しみの風によって吹き飛ばされる事にならざるを得ません。
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自分と共に兄弟全員が奇跡に対して対等の権利を持つと思っていない限り、あなたは対等な権利を持っている者に対して公正ではなかったが故に、奇跡に対する自らの権利を主張しないでしょう。
否定しようとすれば、否定されたと感じるでしょう。
奪おうとするなら、あなたは奪われているのです。
奇跡は、他者にも受け取られたのでない限り、決して受け取ることが出来ないものです。
赦しだけが奇跡をもたらします。
そして、 赦しは全ての人に対して公平なものでなければなりません。
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あなたが隠し持っているいくつかの小さな問題は、あなたが自分のためにそれらの問題を取り除いてもらうことを選択しなかったがために、あなたの秘密の扉となります。
したがって、それらの問題は塵にまみれて肥大していき、やがて最後には、あなたが知覚する全てのものを覆い隠し、あなたは誰に対しても公平ではなくなります。
あなたは、自分には一つも権利がないと信じるようになります。
そして、復讐は正当化され、慈悲は失われて、残った苦々しさが、あなたには 赦しが相応しくないと宣言します。
赦されざる者には、他者に与えるための慈悲心はありません。
だからこそ、あなたの唯一の責任は、 赦しを自分自身のために受け取る事なのです。
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あなたが受け取る奇跡を、あなたは与えます。
その一つひとつが、 救済が拠り所とする法則の実証となります。
それはすなわち、誰であれ癒されるためには、全ての人に対して正義が行なわれなければならないという法則です。
誰一人損失を被る事はなく、全ての人が恩恵を得なければなりません。
どの奇跡も、正義が全ての人に同じように与えられた時、何が達成されるかを示す一つの実例です。
奇跡は等しく受け取られ、等しく与えられます。
それは、与える事と受け取る事は同じだという自覚です。
奇跡は同じであるものを異なったものにはしないからこそ、何の違いも存在しない所に違いを見ることはありません。
したがって、奇跡は、人々の間に何の違いも見ないので、全ての人にとって同じものです。
それが差し出すのは普遍的なものであり、教えるメッセージはただ一つ、次のようなものです。
神のものは、全ての人のものであり、全ての人に当然与えられるべきものである。
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