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奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第25章「神の正義」25-3本文
第25章25-3 知覚と選択
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罪悪に価値を認めるのなら、あなたはその度合いに応じて、攻撃が正当化される世界を知覚するようになります。
罪悪が無意味だと認識するなら、その度合いに応じて、攻撃が正当化されない事と知覚します。
こうしたことは、「人はそこにあると信じるものを見る。そして、そこにそうあってほしいと思うが故に、そこにあると信じる」という知覚の根本原則に即しています。
知覚には、これ以外の原則はありません。
その他の全ては、ただこの法則を維持し、支え合うために、この法則から派生しているに過ぎません。
これは、「愛は愛そのものを創造し、愛そのもの以外の何も創造しない」という、さらに根本的な神の法則の知覚的形態であり、この世界に適合されたものです。
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神の法則は、知覚が支配する世界に直接には適用されません。
というのも、心にとっては知覚は何の意味も持ち得ず、そうした世界がそのような心によって創造されたはずがないからです。
しかし、神の法則はあらゆるところに反映されています。
ただし、この反映が存在する世界が実在するという訳ではありません。
それは、単に神の子がそのように信じているからであり、神は、神の子の信念からご自身が全面的に切り離されるままにしておくことは出来なかったからです。
神は、我が子の狂気の中に一緒に入っていく事は出来なかったのですが、神の子が自分の願望という狂気の中で永遠に失われる事がないように、ご自身の正気が確実にそこに入っていくようにする事は出来ました。
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知覚は選択する事に基づきますが、叡智はそうではありません。
叡智には唯一の創造主しかいないので、その法則もただ一つです。
しかし、この世界にはその作り主が二人いて、双方は世界を同じものと見てはいません。
それぞれにとって世界は違った目的を持っていて、どちらにとってもこの世界はそれぞれのゴールに仕える完璧な手段であり、そのゴールの為に世界が知覚されます。
特別性にとっては、世界は特別性を引き立たせる為の完璧な額縁であり、戦いを繰り広げるための完璧な戦場であり、実在のものにしたいと思っている幻想を匿う完璧な隠れ家です。
特別性が知覚するもので、特別性が支持しないものは一つもなく、完全に正当化されないものも一つもありません。
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この世界には、もう一方の作り主がいますが、それは同時に訂正者でもあります。
その存在が訂正する狂った信念とは、「何かを神の法則内に保持し続ける絆がなくても、それを確立し、維持する事が出来る。すなわち、神が創造したままの宇宙をその法則自体が支えている通りにではなく、神の子が自分が持っていると信じている必要性に合わせた形で、それが為され得る」という信念です。
訂正された誤りは、もはや誤りではなくなります。
こうして、神は誤りの中でも依然として我が子を守ってきました。
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誤りが作り出した世界には、もう一つの目的があります。
なぜなら、この世界には、この世界のゴールを創造主の目的と和解させる事の出来る別の作り主がいるからです。
その作り主が知覚する世界においては、 赦しや、完璧な無罪性の光景を正当化しないものは何一つ見られません。
生起するものは全て即座に完璧な 赦しによって迎えられます。
特別性は、心の中にあるはずの無罪性をそこから追い出し、代わりに 身体に光を当てようとしますが、そのような哀れな試みにも関わらず、無罪性の不変なる輝きを覆い隠すようなものは、一瞬たりともそこに存在する事はありません。
天国の灯火は、心がそれらをどこに見る事にするかを自ら選んで見る事が出来るようなものではありません。
もし心が、天国の灯火がそれらには絶対に存在できない場所を照らしているかのように、それらをその生家以外の場所に見るという選択をするなら、この世界の作り主はあなたの誤りを訂正しなければなりません。
それは、灯火のない闇の中にあなたが居続けないようにするためです。
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ここにいる者は誰もが、闇の中へと入ってきたのですが、誰も一人で来た者はいません。
また、その人はそこに一瞬より長い間、留まる必要もありません。
なぜなら、その人は天国からの助けを内に抱いてやってきたからであり、それはいつでも、その人を闇から連れ出して光の中へと導いていく準備が出来ているからです。
助けはそこにあり、その人の選択を待っているだけなので、その人はいつでもその時を選択する事が出来ます。
そして、自分に与えられているものを活用するという選択をする時、その人はそれまで怒りを正当化する手段だと思っていた状況の一つひとつが、愛を正当化する出来事へと変容するのを目にするでしょう。
以前に聞こえていた参戦の呼び掛けが、本当は平和への呼び掛けである事が、はっきり聞き取れるでしょう。
これまで自分が攻撃を与えていた場所は、同じように容易に、しかしもっとずっと幸せな気持ちで、 赦しを与える事が出来るもう一つの祭壇である事を知覚するでしょう。
そしてその人は、全ての誘惑を、自分に喜びをもたらすもう一つの機会として再解釈するようになるでしょう。
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どうして誤った知覚が罪で有り得るでしょう。
兄弟の誤りは全て、助け主の業を見るための機会以外のものにしてはなりません。
この助け主は、あなたの作り出した世界ではなく、その存在が作った世界が見えるようにとあなたに与えられています。
それでは、いったい何が正当なものとされるのでしょうか。
あなたは何を望むのでしょうか。
この二つの質問は同じものです。
そして、あなたがこの二つを同じものと見る時、あなたの決断は下されています。
なぜなら、それらを一つと見なす事によって、二つの見方があるという信念からの解放がもたらされれるからです。
この世界は、あなたの平安のために多くを提供でき、あなた自身の 赦しを拡張される機会に溢れています。
平安と 赦しが天下り、光を差し出してくれる事を望む人達にとっては、この世界の目的とはそうしたものです。
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柔和な世界の作り主である 聖霊は、あなたと 聖霊の柔和さの間に立ちはだかっているかのように見える暴力と憎悪の世界を相殺できる完璧な力を持っています。
聖霊の 赦しのまなざしで見るなら、そのような世界はそこに存在していません。
したがって、それはあなたの目から見ても、そこに存在する必要はありません。
罪とは、知覚は変えられないいう固定観念です。
断罪されたものは断罪されたのであり、劫罰を受けるべきものであり、永久に赦されざるものです。
そうだとすれば、もしそれが赦されるなら、罪の知覚は間違っていたという事になります。
かくして、変化が可能となります。
聖霊もまた、変化の可能性をはるかに超越していると分っているものを見ています。
しかし、 聖霊の心眼が罪によって犯される事は有り得ません。
罪は、 聖霊が見た瞬間に訂正されているからです。
したがって、それは罪ではなく、誤りだったに違いありません。
なぜなら、絶対にあり得ないとそれが主張してきたものが、既に存在しているからです。
罪は罰によって攻撃され、そうすることによって温存されます。
しかし、それを赦す事は、その状態を誤りから真理へと変化させることです。
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神の子は決して罪を犯すことは出来ませんが、自分を傷つける事になるものを願う事は出来ます。
そして、自分は傷つく事があり得ると考える力を、神の子は持っています。
これは、自分自身の誤った知覚以外の何でしょう。
これは罪でしょうか、それとも間違いでしょうか。
赦せる事でしょうか、それとも赦せない事でしょうか。
その人に助けを必要としているのでしょうか、それとも咎めを必要としているのでしょうか。
あなたの目的は、その人が救われる事でしょうか、それとも断罪される事でしょうか。
そして、その時、あなたにとってその人をいかなるものとするかの選択が、あなた自身の未来となるという事を、あなたは忘れずにいるでしょうか。
あなたは今、この選択をするのです。
この瞬間に、全ての時間が一つのゴールに達するための手段となります。
だから、あなたの選択をしなさい。
しかし、その時、あなたの見ている世界の目的が選択され、正当化される事になるという事を認識しなさい。
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