奇跡講座テキスト編25章25-7 救済の岩

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編 第25章「神の正義」25-7本文

 

第25章25-7  救済の岩

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それにしても、もし、あなたが自分自身に下した判決の一つ一つを 聖霊が祝福に変える事が出来るというのなら、それは罪では有り得ないという事になります。

罪は、この世界の中では、変わることの出来ない唯一のものです。

罪は不変です。

そして、その不変性の上にこの世界は成り立っているのです。

この世界の魔術は、罪の痛みを罪人から隠し、巧みに飾り立てる事で欺く事が出来るように見えます。

しかし、誰でも罪の代償は死であると知っています。

そして、その通りということになっています。

というのも、罪は死を求める要請であり、この世界の土台を、愛のように確実で、天国のように頼りになり、神ご自身のように強いものにしたいという願望だからです。

この世界は、罪は有り得ると思っている者たちにとって、愛から守られる安全な場所です。

そして、それが変わることはありません。

しかし、が創造しなかったものは、の被造物とはあらゆる点で対立しているというのに、それがの被造物の属性を持つという事があり得るでしょうか。

 

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死を望む「罪人」の願望が、生命に対する意志と同じように強いはずがありません。

また、が作らなかった世界の土台が、天国と同様に強固で確実であるはずがありません。

地獄と天国が同じという事があり得るでしょうか。

そして、が意志しなかったものが変える事が出来ないものだという事があるでしょうか。

の意志以外に、不変なのもがあるでしょうか。

そして、その属性を、それ以外の何が分かち合えるでしょう。

意志に逆らって生じた願望でありながら、不変なものがあり得るでしょうか。

意志以外に不変であるものは何一つないとあなたが悟ったなら、この奇跡のコースはあなたにとって難しいものではなくなります。

なぜなら、あなたが信じていないのは、まさしくこの事だからです。

しかし、もしあなたが、その意志の真の本質に目を向けさえしたなら、それ以外にあなたが信じられるものは何も無いでしょう。

 

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私達が以前述べた事に戻り、もっと丁寧にそれについて考えてみることにしましょう。

が狂気であるか、それとも、この世界が狂気の場所であるか、そのどちらかだという事は事実に違いありません。

想念は、どれ一つとしてこの世界の中では意味をなしません。

そして、この世界が真実であると信じていることは何一つ、においては何の意味もありません。

意味をなさず、意味を持たないものは狂気です。

そして、狂気であるものは真理では有り得ません。

もし、この世界で非常に重要であるとされている信念の一つでも真実であるとするならば、がこれまで抱いた想念はことごとく全てが幻想ということになります。

そして、もし想念の一つでも真実だとしたら、この世界が少しでも意味を与える信念の全ては虚偽であり、全く何の意味もなさないという事になります。

これは、あなたが下す選択です。

それを異なったものに見せようとしたり、それ自体とは違う何かへと歪曲しようとしてはなりません。

なぜなら、これだけがあなたが下せる決断だからです。

それ以外は、あなたが決める事ではなく、が決める事なのです。

 

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この世界が支持する価値の一つでも正当化する事は、あなたのの正気とあなた自身の正気を否定する事です。

なぜなら、の愛する子が異なる思考をする事はないからです。

そして、双方の想念の一致が、神の子を、が創造した想念の持ち主であるの共同創造者とします。

だから、もしその人が真理とは反対の想念を一つでも信じる事を選択するなら、その人は「自分はではない。は狂っているからである。そして、正気とは神の子の両方から離れたところに存在しているに違いない。」と決断したのです。

あなたはそれを信じています。

この信念が、それが取る形によって違ったものになると考えてはなりません。

この世界が何らかの形においては正気であり、それが考える何らかの事には正当性があり、それは何らかの形の理性によって維持されていると考える者は、これが真実だと信じています。

が狂っていないからこそ、罪は実在しないのです。

この世界は、罪を土台としているからこそ、無意味なのです。

この世界が真理を基づいていないとすれば、いったい誰が不変なるものを創造することができるでしょう。

 

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聖霊には、あなたが見ている世界の土台全体を別なものに、すなわち狂気の知覚の基礎となり、もう一つの世界が知覚される事を可能とするような狂っていない土台へと変える力があります。

そして、それは神の子を正気と喜びに導くものに対して反芻するものを一切含んでいない世界です。

そこには、死や残酷さ、分離や相違を証するものは何もありません。

なぜなら、ここでは、一切がひとつのものとして知覚されていて、各々が利益を得られるように、誰かが失う事はないからです。

 

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この一つの必要条件に照らして、あなたが信じているものの一切を検証してみなさい。

そして、この一つの必要条件を満たすものなら全てあなたの信に値すると理解しなさい。

しかし、それ以外の他のものは何も信に値しません。

愛でないものは罪であり、そのどちらもが他方が狂っていて無意味だと知覚します。

罪人にとっては、愛は完全に狂気と知覚される世界の土台であり、その人達は自分達のやり方こそ正気に至る道だと信じています。

しかし、愛の視覚の中では、同様に罪が狂気であり、愛の優しいまなざしは狂気を超えたところを見て、真理の上に安らかに留まります。

いずれもあなたの本性についての不変にして永遠の真理を定義しているので、それぞれが一つの不変にして永遠の真理を定義しているので、それぞれが一つの不変なる世界を見ています。

そして、どちらもががいかなるものであるについての一つの見方を反映し、他方についての自らの見解を意味のある正気なものにします。

 

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あなたの特別な機能とは、その中において、は狂っていないという事実があなたにとって最も理に適った意味あるものに見えるような特別の形態です。

その内容は同じです。

その形態は、あなたの特別な必要に適合しています。

そしてまたそれは、あなたが自分がいると思っている特別な時と場に、そしてそれゆえにあなたが場所や時間や自分を制限していると信じているものの全てから自由になれる特別な時と場に、適合しています。

神の子は、時間や場所や、その他の何であれが意志しなかったものによって束縛される事はありません。

ところが、もし意志が狂気であると見られているなら、狂った者たちにとって正気を最も受け入れやすくするような正気の形態が、特別に選択される必要があります。

それに、その選択は、自由な選択が出来ないという問題を抱えている狂った者たちによって、良識に照らしながら理性をもって行われる事は有り得ません。

 

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救済を狂人に委ねる事は、まさしく狂気です。

は狂っていないので、ご自身と同じように正気の存在に、狂気を自らの 救済として選択した者たち一人ひとりに見えるもっと正気の世界を生起させる任務を与えました。

その一人ひとりに最適な形態の選択が、この存在に委ねられています。

それはその人に見えている世界を攻撃することなく、その中にただ静かに入っていき、本人に自分が狂気の状態である事を教える形態です。

この存在はただそれにとって代わる選択肢を指し示すに過ぎません。

すなわち、その人がそれまで見てきたもの、自分が住んでいる世界として認識しているもの、そして以前には理解していると思っていたものについて、もう一つ別の見方を指し示すのです。

 

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そうなると、その人はこうしたものに必ず疑問を発する事になります。

なぜなら、もう一方の選択肢の形態は、その人が否定したり、見落としたり、全く知覚しないままにする事の出来ないものだからです。

一人ひとりにとって、特別な機能は遂行可能なものとして知覚されるように配慮されていて、そちらの方が自分が真に望んでいる選択肢である事が証明されてくるにつれて、ますます望ましいものとして知覚されるように配慮されています。

この立場からは、自分の罪深さやこの世界の中で目にする罪の全てが自分にもたらすものは、次第に減ってきます。

そしていずれは、それが自分に正気という代償を支払わせていた事や、自分が正気になれるという望みを阻んでいるという事が分るようになります。

また、その人はあらゆる人の脱出に関わる特別な役割があるので、その人が狂気から脱出できないまま置き去りにされる事もないという事も分かってきます。

我が子を見落として、うかつに何の考えもなく神の子の前を通り過ぎる事など有り得ないのと同様に、その人が平安への希望を抱いて、特別な機能を担う事なく外に放置される事も有り得ません。

 

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以外に頼れるものに何があるでしょうか。

そして、の中でなくてどこに正気があるでしょう。

を代弁する存在は、が特別にあなたのために選んだもう一つの選択肢において、あなたにこれを示す事が出来ます。

あなたがこれを思い出し、そすして嘆きの淵から完璧な喜びの中へと浮上する事が意志です。

地獄と天国は異なっていて、同じではないと我が子に教えるための神ご自身の計画において、あなたに割り当てられた機能を受け入れなさい。

その計画はまた、天国いおいては双方が全く同一の存在であり、仮にこうした狂気が可能だったとしても、双方には天国を地獄にしたり地獄を天国にしたりするような差異というものはない、という事も教えます。

 

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誰かが損失を被るという信念全体が、その根底にある「は狂っているに違ない」という信条を反映しています。

なぜなら、この世界の中では、他の誰かが損をしたがために、他の誰かが得する事になるように見えるからです。

もし、これが真実だったとすれば、は確かに狂っています!

しかし、この信念は、より根本的な信条「罪は実在していて、世界を支配している」の一形態に過ぎません。

なぜなら、それは少しでも利益があれば、その分誰かが失わなければならず、全く同じ量の血と苦しみで支払わなければならないという事だからです。

それは、そうでなければ、悪が勝ち、どのような利益であれその代価の総額は破壊によって支払われる事になるという事だからです。

が狂っていると信じているあなたは、こうしたことを注意深く見つめ、これかかのどちらかが狂っているのであり、両方とも狂っているのではない、という事を理解しなさい。

 

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救済とは、誰かが利益を得るために別の誰かが損をするという事は有り得ないという考え方が蘇生する事です。

そして、もし誰かが利益を得る者になるとしたら、必ず誰もが利益を得ずにはいません。

ここにおいて、正気が取り戻されることになります。

そして、この真理の一枚岩の上に、は永遠なる正気に対する信が、完璧な自信と完璧な平安の中に留まる事が出来ます。

全ての狂った信念がここにおいて訂正されるので、理性は満足します。

そして、もしこれが真実であれば、罪は不可能なはずです。

これこそが、 救済の土台となる岩であり、 聖霊が優位に立って、あなたの特別な機能が一旦を担っている意味と方向性を与える事が出来る地点です。

ここにおいて、あなたの特別な機能が全体の機能を分かち合うが故に、全一なものにされるからです。

 

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誘惑とは全て、次のような狂った信念に過ぎないと覚えておきなさい。

すなわち、「が正気である事があなたを正気とし、あなたが望むものをあなたに与える。そして、双方の目標は和解不可能なものなので、かあなたのどちらかが狂気に屈しなければならない。」という信念です。

死は生命を要求しますが、生命は何らかの代価を払って維持されるものではありません。

意志が成就されるために誰かが苦しむ事は有り得ません。

救済は、あなたがそれを分かち合っているからこそ、意志なのです。

それはあなた一人のためのものではなく、神の子である自己のためのものです。

神の子が損失を被る事は有り得ません。

なぜなら、もし神の子が損失を被るとすれば、その損失は神の子の損失となりますが、にとっていかなる損失も有り得ないからです。

そして、これは真理であるがゆえに、これが正気の状態です。

 

奇跡講座(奇跡のコース)テキスト編第25章「神の正義」目次  

25-0   序論

25-1    真理への絆

25-2    闇からの 救済

25-3    知覚と選択

25-4    あなたが選ぶ光

25-5    無罪性の状態

25-6    特別の機能

25-7            救済の岩

25-8    愛へと戻される正義

25-9    天国の正義

 

奇跡講座(奇跡のコース) テキスト編、ワークブック編、マニュアル編 各目次

テキスト編 1章~31章 目次

ワークブック編 レッスン1~365 目次

教師のためのマニュアル編 1~29 目次

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